雑文

この度は近頃頭に過ることを、箇条書き程度にまとめる。
内容に連続性や構造はない。
文章を綴るに何が疲れるといって、全体を構成する事ほど疲れることはない。
出たとこ勝負、つまりタイピングのリズムで始めた思考の欠片を、紛いなりにも着地させる。これは勝手に飛び出したスカイダイバーを、地上の方で駆けまわって受け止めんとす――そういう類いの苦労である。
飛び出しが気軽であればあるほど、着地が辛いのだ。
では飛び出しで着地点を狙いすまし――となると、今度は飛び出しが苦しい。勢いがつかないから、踏み切れない。

そこで今回は気軽に踏み切りつつ、着地させないまま見送りたい。
そうすれば気軽に始められて、苦労なく終わる。
近頃は物語で頭を使い、ノルマが終わると披露困憊。頭を1ミリも動かしたくねぇという状況なのだ。
頭が疲れ果てるとどうなるか。
尻について考える。ビジュアルとして蠱惑的なヒップを思い描くのではなく、尻につける形容詞をこんこんと考える。
巨大な尻、真白き尻、冬の大根のような尻、重そうな尻、日焼けを間逃れた尻、収穫したくなるような尻、紅葉に映える尻、本人に気づかれない形の良い尻――。
尻ばかりでなく、臀部だとか腰回りだとか、色々言葉を換えながら考え続ける。最後などは、持ち主にはふり返られない、生活の中に捨てられた、それでもたっぷりとした魅力のある臀部、とした方が面白いだろうか。形容過多だろうか。
尻ばかりでなく、乳房や唇や腹部などについても日々考えている。
考えていると、疲労の原因となる悩みが消える。
思考も消えて、ほとんど何も考えられなくなる。
我慢や計画性も消え失せる。
この時、酒を飲み始めると旨いがアンストッパブルで、後に悔やむ。
さっそく着地のない思考を垂れ流したが、以下も同程度のクオリティが続くであろう。
お暇であれば、お付き合いあれ。

100日後に死ぬワニ

近頃、Twitterでよく見かける。
ワニが日常を過ごしているだけなのに、妙に面白い。面白い、と言うより、味わい深い。
何故かと言えば、いつでも「100日後に死ぬワニ」というタイトルが響いているから。
このタイトルが通奏低音となって、四コマにおける平凡な日常と和音をつくる。この和音が面白く響く。
日常は「100日後にワニが死ぬ」から面白い。
死ぬことと、生きている日常のハーモニーが味わい深い。

恋愛なり、主人公の成長なり、筋でストーリーを劇的に演出している物語はよく見かける。
舞台設定、物語前提との和音で面白くなっている物語は少ない。と思う。
後者の難しさは、主人公が持っている筋を強く演出し過ぎると、背景との調和が崩れ、和音が成り立たないということ。
海外ドラマ、アニメ、漫画、エンタメ小説は読者を楽しませるために筋が強い。筋を強くする必要がある。
筋の強さで物語を始めてしまえば、どうしても和音は弱くなる。

「この世界の片隅に」は和音として面白い物語だった。
強い筋はなく、「時が流れていく」ことだけが日常として綿々と描写される。
その日常の地下に流れるのは、「八月六日」という低音である。
この歴史的事実が、視聴者である我々には常に聞こえている。避けがたい結末が響きつづけ、それをBassとし、その上に日常が奏でられるために、独特な和音を形成している。
「八月六日」と日常という交響が、あの物語の妙味であったろう。
同じ年に公開された「君の名は」が主人公たちの筋に集中するメロディックな作品だったから、余計に「この世界の片隅に」のハーモニックな演出が際立った。
ああいう二作品が同じ年に公開されたというのも、感慨深い。同じ年だったよね?

物語に物語らぬ何かを底走りさせるのは面白い。
100日後に死ぬ事実も、八月六日も、物言わぬ低音である。
この上で何かを演じる。恋愛でもいいし、友情物語でもいい。何をやっても、低音の支配を受ける。
それぞれ単独では聞き飽きたものも、和音として、交響として面白く響かないか。
色々、飽きた素材をふり返っても面白かろう。

通奏低音はバッソコンティヌオと言う。
カッコイイからメモしといた。皆様も、「この作品のバッソコンティヌオは~」と通ぶってみてはいかがか。
他にも「この作品はメロディが強すぎて」とか「登場人物がさばき切れてなくて、ポリフォニーの形成が」等、楽典用語を文学批評に用いるとなかなか様になる。
様になりすぎて鬱陶しいので、リアルでは避けた方が懸命だろう。

アーリーアダプターになる必要性?

コロナウイルスが騒がれている。
Twitterでも何が効くとか効かないとか、真偽もわからぬ情報が飛び交っている。
こういうのを眺めていると、改めて思うが、Twitterの情報には飛びつかないに限る。
Twitterだけではない。
情報には飛びつかない方がいい。
情報化社会と言われて久しく、何事にも乗り遅れるな、出遅れるなと急かされ、背中を押されるが、我が輩は「待て待て」と後ろから押してくる連中を背負い投げたい。
国の方針を決める大臣や、意見を求められる有識者ならいざ知らず。
一般ピープルである我々が何急ぐことがある。
急がば回れと言う。
情報は出来るだけ後に採用した方が良い。
ソース元が割れ、判断材料が揃い、一般論が聞こえてきたあたりで重い腰を上げるくらいで丁度良かろう。
情報採用にはレイトマジョリティたれ。
アーリーアダプターになる必要性がないなら、情報に飛びつかない方がいい。
で、ほとんどの人間はアーリーアダプターになる必要性なんかない。
株だってアーリーアダプターで半丁するよりも、レイトマジョリティで手堅くいける環境を作った方がどれだけ賢いか。
最新の真偽もわからぬ情報を採用しなければならないという状況は、頻拍しているということであるから、情報の真偽を見極める目より、環境を改善する手段を講じた方が良いだろう。

デマ、フェイクニュースが国を揺るがすほどの力を持っている昨今。
情報とのつき合い方が試される。
素早く的確に取得採用出来れば越したことはないけれど、難しければ早さは犠牲にして良い。的確さを犠牲にするよりマシだ。
デマの拡散に加担すれば、そのうち魚拓でも採られてつけを払わされる事になりかねん。
何より自分の選択に責任を持たない人間は信頼に値しない。信頼ほど今の世の中で大切なものもあるまい。
我が輩は信頼を裏切る事を極度に恐れるが、それは我が輩が誠実だからではなく、人を裏切るデメリットを骨身に染みて知っているからだ。
人を欺き裏切るくらいなら、血を吐いてでも信頼を守りたい。信頼を失えば終わる。終わっていった幾つかの過去が、我が輩を何時でも脅している。

信頼には全力で応えたい。だからこそ、生半可なことでは信頼されたくない。
Twitterのリツイートぐらいで信頼されたくないし、責任も取らされたくない。だから我が輩はリツイートに慎重だ。
ところでTwitterよ。「いいね!」を拡散するのはやめて欲しい。こっそり保存しておきたいエッチなイラストが、人にはある。

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