新年挨拶とフェティシズムによる人類救済について

来年のことを言えば鬼が笑うなら、去年のことを語れば泣くか。

年始早々、過ぎ去った事を綴って申し訳ない。しかし寝正月で今年はまだ書くことがない。一跨ぎして去年から枕を取ってきたい。

コミケに参加された諸兄姉はようやく疲れが癒えた頃だろうか。何分、今年は寒かった。雪も舞ったとのことで、庭かけまわる犬でない皆様方はさほど嬉しくもなかっただろう。

年末、我輩も外に出ていた。大阪、静岡、神奈川、東京と巡ったのである。元来旅が好きで苦労したことは少ないが、この度は苦しかった。ひたすら冷えて辛かったのだ。

浜松に降りて浜名湖を巡るあたり、風がひどい。波の頭がめくられて、白波がたっている。公園のトイレにも風がもぐり込んできて、風の目をよんで放たない事には小便が手に散った。明けて一発目、汚い話をあい済まない。

年々、寒さが応えるようになってきた。子供の頃、腹巻きなど何の役に立つのかとバカボンを見る度に思っていたものだが、今は寒さが腰にくるのがよくわかる。手ぬぐいにカイロをはっつけ、巻き付けていた姿はもはや若者でないのだろう。大阪で昔のよしみ三人集まり焼き肉を囲んでみても、「お腹空いてるけどそんな食べられへんやろしなぁ」と食べ放題を満場一致で避けたのは悲しかった。

脂と寒さが辛くなってきたほどには、歳をとったと認める旅路であった。

大阪の話をもう一つ。

一昨年の暮れにやめた仕事先、かつて部下だった連中が「飲もう」と言うので「もう奢らんで」と念を押してから集まった。聞くと我輩の上司だった方がやめたらしい。つくづく思うのは人は信じ切るに値しないということ。別に信じるなというのでなく、神か仏のように崇めると辻褄が合わなくなるのだ。

その方は社長をひどく慕っていて、「あの人は神やから」「俺はあの人に一生ついていく」「男は惚れた人と添い遂げてなんぼ」とことある毎に語っていた。語外に根を張らずふらふらしている我輩を「お前は甘い」と突っつく気配があったが、鈍感な我輩は気付かなかった。

そんな方が我輩がやめた半年後に職場を去って、理由を聞くと「結果がでなくなって、社長に冷遇されたからやて」らしいから、辛かったやろなと同情する。

同時に「生身の人間を十信じてどうする」と意地の悪い気持ちも湧いた。

人は信じて七割。三割は遊ばせておかないと、相手に悪い。なにせ人は人でしかなく、神でも仏でもないから、十の信頼など張りつけられても窮屈だ。相手が困る。十信じて裏切られたら悲しさも大きい。恨みたくもなる。しかし一度や二度裏切られたと言って関係を切るようでは相手がいなくなる。所詮人間と思えば許せることも多く、何より我輩自身そう思って許されていきたい腹積もり。去年、色々目標たてておきながら五割も達成できず、すんません。

何が言いたいかと言えば、今年も所詮人間として濁りながら迷いながら歩んでいくつもりですので、どうぞまた「所詮」という思いをもって見守っていただきたい次第です。へへ。

今年は何をするのか。そこはまた改めて語りたい。東京では同人作家さんとの集まりに参加させていただいたが、そこもまた改めて。

さて本題。

いきなりぶっ込むが、テクノロジーは人類を豊にするだろうか? AIやディープラーニングは人類の友で、我々は彼等と肩を組んで仲良くやっていけるだろうか?

それとも奴らは虎視眈々と我々の居場所を狙い、一人また一人とその役目を取りあげながら、いつかは人でなしの国を構築せんとする人類の死に神だろうか?

将棋の名人がポナンザに敗れ、囲碁もプロ達を軒並み破ったAIがいて、さらにそれをボコボコにしたAIが既に開発されているという。しかもそのAIは人間の定石や棋譜に頼らず、自らが自らと戦い続けることで己が筋を見つけ、それで他者を圧倒しているのだから恐ろしい。その試行回数、2900万回。

仮に持ち時間一時間の一局を、持ち時間使い切りで人間同士が差し続けると、2900万回の試行には大体6000年かかる。それも24時間、365日、差し続けて一切のインターバルなしでだ。

ファラオと秦の始皇帝が未だに差し続けていても、去年あたりに出来たAIの手数には勝てない。

こんな話も聞く。AIが書いた小説が星新一賞の第一次選考を通過した。

チェス、将棋、囲碁と牙城を崩されるなか、それでも最後の砦と引きこもっていた文学という分野にも彼等は迫ってきているのかもしれない。特にある種のコードが存在するエンタメへの浸食は、もはや時間の問題のようにも思える。

いつかは初音ミクがニコニコサイトを漁り、そこから得た情報と傾向から、作詞作曲初音ミク、なんて曲も出来上がるのかもしれない。いや恐らく出来上がるだろう。その時までニコニコというものが残っているかどうかは微妙だが。

では、エンタメを志す我々の立場も、近い将来AIに乗っ取られるのか? もはや人間は消費者としてしか生き残れないのか。

我輩はそこまで悲観していない。

何故なら人間は最適解を「最良」としないエラーを持っているからだ。我輩はこれを「偏愛」「フェティシズム」として人類の道しるべとしてみたい。

最適解へのカウンターパンチ

リンゴは実のしまらない、糖度も低いのが良い。食後の口をすっきりさせるのに、拳小の形の悪いやつを、ベランダにて囓るのが最高。

ウナギは国産でも養殖がよい。春の花はサクラより梅、むしろ菜の花の黄色が愛おしい。鯛より鰺。

飯を食うとき、人がいると煩わしい。旨いものは一人黙って口にしたい。ビールはのどごし生の軽薄さが丁度良い。

およそ食うことしか頭に浮かばなかったのが情けないが、我輩にも幾つかこだわりがある。

世に問うてみれば、過半数の者が自分とは逆に答えるであろう、何事か。あるいは世の度合いを通り越して、極度に気を持って行かれる何事か。

「あんた変よ」

と言われてしまう何事かを「偏愛」「フェティシズム」と呼び、これらはビックデータの帰納から得られる最適解にエラーを返す。

「俺はそうじゃない」

このエラーを大切にし道しるべにすべきだ、と言うのは、最適解の戦いではもはやAIには勝てないからだ。AIが人間を圧倒するのは、その手数にある。人間なら一万年かかるようなトライ&エラーをAIは朝飯の前には終わらせて、昼飯までには得られた結果をコンテンツに反映できる。今は不可能であったとしても、もはや時間の問題でしかない。つまり従来の定量的で測量可能なデータを基盤としたマーケティング、PDCAサイクルによるコンテンツ更新では、AIにはぜっっっったいに敵わないのだ。恐らく新幹線と東京大阪間を争うよりも無謀なこと。

では如何にしてAIの速度に対向するか。それが何度も繰り返している「偏愛」と「フェティシズム」になるのだ。

AIが一つのサンプルとして平等に扱ったデータを、貴方は「これ、めっちゃ好っきゃねんけど」と大きくピックアップして贔屓をうみ、AIが平等に手掛けた処理を貴方は「ここだけはこだわりたい。他を削ってもここだけは完璧にしたい」とまた贔屓をうむ。

好き、愛してる、偏愛、フェチ、という数値化出来ない性質によってエラーを繰り返し、最適解という本流から外れていく。

そうして出来た作品こそ、世界に誇れるHENTAI、世界で一番可愛い我が子なわけだ。

これが何故、AIが生み出す最適解、ミスワールドに対して有効打になるかと言えば、ミスワールドは個々人にとって「世界一の美女」ではないからだ。民主主義的に決まった物事は、いつだって〝皆にとって一番マシ〟〝まぁ納得できる〟答えでしかなく、〝最高!〟のアンサーではない。

100人の顧客に慮った作品を作ればAIには勝てないだろうが、100人の顧客に慮った作品を作っているAIに、たった一人のために作り上げたHENTAIは〝最高!〟となって一票を獲得できる。99対1では勝てないではないか、と言われるかもしれないが、そもそもの話が〝勝つ〟ことを目的としていない。

問題は生き残れるかどうか。

世界は100人以上の顧客がいる。特にエンタメ作品はデータ化しやすいので、ワールドワイドな展開が手軽。十万人という規模のパイを見つければ、99には相手にされないけれど、1パーセントにはブッ刺さるHENTAIを提供できれば、1000人の顧客が獲得できる。そのブッ刺さった1000人が年に一万円を落としてくれるシステムを作れば、一千万の収益がでる。順番は前後するが、五百万の投資によって出来たHENTAIならば、顧客は「五百万もかけて、俺の大好きなHENTAIを作り上げてくれた」となり一万落とすのもやぶさかではないだろう。貴方も大好きなHENTAIを作れて年収500万なら悪くないのではないか?

このサイクルを、我輩はHENTAIのおらが村システムと呼ぶ。

今後を生きていくのはベストセラーコンテンツを作るのでなく、持続可能な村システムを構築していくことが肝要であり、村は余所の土壌では育たないHENTAIの収穫によって成り立つと考えている。

世に通じるワードを使えば、ブルーオーシャン戦略、つまり競争相手がいない場所で戦え、ということに近いが、おらが村のHENTAIシステムは少し違う。競争相手がいないからそこに村を構えるのでなく、自分がHENTAIだからそこに村を構えるのである。そうしてHENTAIをこじらせて行き、誰も見たことのない高見へ村長である貴方が人々を導くのである。海を作るのだ、HENTAIという名の処女の海を、貴方が。その見たこともない、けれど心の底では求めていた「そうこれこれ」感のある風景に人々が感動している、その横で貴方は海の家をひらき、静かに見守っている。

それが我輩の提唱するおらが村HENTAIシステムであり、AIと共存していく方法だ。

ビックデータにしろ、何万回のPDCAサイクルにしろ、我々人類にとっては残念ながらブラックボックスだ。人間としての我々には手に負えない。今後量子コンピューターが開発され、演算力が格段に上がるにしろ、それを我々が使いこなすことはない。もちろん様々な分野で利用することはあるのだろうが、それはツールとして使いこなすと言うよりは、末端の消費者としてサービスを受けるという程度のものになってくるだろう。

次世代のテクノロジーは我々の物ではなく、それらとより親和性のあるAIのツールになってくる。

そこに手をふりあげて挑みかかっていても、相手にもされなくなるだろう。

戦うのでなく、棲み分けを。そして棲み分けにはHETANIをコンパスに、今こそ「どうせマジョリティや流行をおっても旨みはないのだから」と己の魂に立脚を。

AIに対する人間性とは「偏愛」であり、偏愛とは「不平等」であり「不正解」である。世の中の正解に怯えるなかれ。平等の強制に苦しむなかれ。人は誰かより誰かを選び、何かを捨てて何かを守る偏愛を繰り返し、自分が選び取ってきた不正解と心中するものなのだ。

おらが村のHENTAIシステムとは、人間としてのエラーや濁りを高らかに歌い上げる尊き風景なのである。その潔さや清らかさは、きっと貴方のHENTAIに興味が無い誰かの胸にも届く。何故なら相手は人間であり、彼等もまたエラーと濁りに塗れ、苦しみながら生きているのだから。

綺麗にまとめたつもりだが、最後に一言。

他人の村におらが村の収穫をもってマウントを取るなかれ。「おめさの村の大根より、おらさの村のべこの方が人気がある。フォロワーも十万あるし、夏コミの新刊も完売だもの」なんて迫ってくる輩がいたら、島津久光に西郷隆盛がとった態度よろしく、「ジゴロが(田舎者め)」と吐き捨てて相手にする必要はない。

HENTAIとは定量的でないことに価値があるのだ。孤高なのである。それをフォロワーだの売り上げだのにあえて引きずり降ろしてくる輩は、HENTAIに寄生する俗物だ。

どんなことであれマウントを取ってくるような奴がいたら、カールおじさんが戯言を言っていると思って捨て置けばよし。己が幸福になることに、他人の不幸を必要とするのは人間の性ではあるが、そこは自覚して「己の田舎者根性」と戒めながら生きていきたい。たとえ収穫高で隣村を上回っても、ベッドの上で目を閉じたあと「やっぱりおらの村が一番だべさ」と心中唱えて明日の朝は忘れたい。

長々と偉そうなことを書いて、「ならてめぇは持続可能な村システムを作り上げているのか」と問われれば未だ叶わずの状態。情けない話だがまだまだHENTAIの収穫だけでは生きていけない。それでも方針は決まっている。

1%を千人から一万人にするために、あるいは十万人にするために、パイを大きくしていくことは大切。しかし刺さる層を1%から10%にするような、HENTAIの大衆化は筋の悪い戦い方だと考えている。より多くの人に届けと願うが、より多くの層に受けようとは考えてない。パイを大きく、HENTAIのクオリティを高く、ここを力の注ぎ所として2018年もやっていきたい。

今年は戌年。だからと言って何があるわけでもないが、また一年、己に背かずには生きていきたい。

皆様の人生を幾ばくかでも豊に出来るKAZUKIらしい偏愛作品をお届け出来るよう、精進していきたい所存でございますので、どうぞよろしくお願い致します。