ハルカの国 創作の記その16

江戸時代の国学者に、本居宣長(もとおりのりなが)という人がいる。
古事記を研究したそうな。
この宣長が残す歌に、こんなものがある。歌そのものは忘れてしまったから、意訳だけ記す。

古い書を読めば、かつての人々の仕草や、話す様子が目に浮かぶようだ。

古い書とは研究対象の古事記だろうが、これを読むと当時の人々がありありと目の前に蘇る。彼等を生き生きと思い描くことが出来た――と言うのだ。
これは文面通り、古事記を読んだら昔が偲ばれた、ということではない。

「古事記を読めば、目前に古の人々が蘇るほどに努めた」

これが真意だ。
宣長が生きた江戸の当時では、古事記が編纂された時代のことなど消えている。言葉さえ繋がっていないような太古。まったく通ずるものがない。
そんな時代をありありと蘇らせ、目に見えるまでに俺はやったんだ。徹底的に努めたんだ。その自負の表れが、上の歌なのである。
断言するのは我が輩が考えたからではない。評論家・小林秀雄がそう言っていたからだ。我が輩はそれを鵜呑みにしている。

我が輩はこの話に大変感動した。
物語への努力もまた、かくあるべきかな。
人物が目の前に現れ、生き生きとしている。
暮らしている迫力を、一挙手一投足に感じる。
彼等を〝体験〟出来るようになるまで、とことんやる。
人物の体験。人間の体験。
これが物語の真髄であれば、ロケハン、資料集め、あらゆる労を惜しまず努めるべきだと。
努めた先に望むのは、ただ人間の存在感であると。
存在感こそ物言わぬ物語であり、語られぬ言語であり、それこそ我が輩の求める究極なのだと。
改めて思わされたのである。

同時に。

この存在感を出すことは、なんと困難な事だろうか。
人物を生き生きとさせるのが、なんと途方もないことだろうか。
彼女たちを〝存在させたい〟という思いを一つ叶えるために、どれだけの労力を要求されるか。
それをこの度は、思い知らされた。痛感した。

ハルカの国・大正星霜編シナリオ。
ようやく書き終えました。
大正編のシナリオ、だいぶ以前に書き上げていなかったか?
それこそ去年の今頃、元号発表の頃に書き上げたとか何とか。
記憶力の良い諸兄は、突っ込んでいるかもしれない。
書き直したのです。修正ではなく、書き直した。
決別編を終えた後、オブザーバーとも話し合って「これでは駄目だろう」と認め、頭から書き直した。
その中で幾つかの問題に正面衝突し、それを克服するために尾道へ行ったり、東京でマメを潰したり、新しい執筆方法を探ってみたりとのたくっていたのだ。
もう本当に、ほとほと疲れ果てた。

シナリオの事を語ればネタバレになるが、シナリオしか書いていなかったので他に書くこともない。
だから書いていたシナリオではなく、書いていた我が輩の精神状態について幾つか語りたいと思う。
それをこの度の進捗報告とさせて頂きたい。

一人の成人が他人と顔を合わすこともなく、ひたすらに妄想を続ける精神がどういうものか。楽しんで頂ければ幸いである。

創作の孤独とそのこじらせ方

この度のシナリオ。
文字数で言えば膨れあがったが、もうそこはいちいち語るまい。
皆様も毎度毎度「思っていたより長くなって」なんて言い訳は聞きたくないだろう。
期限内にあげたシナリオが脹らんだのなら自慢して良かろうが、遅れた原因であるシナリオの膨張を誇ればアホだ。
申し訳なさと恥ずかしさで、とぼとぼしている。
人目につきたくない。そんな精神状態で、Twitterからも遠ざかっていた。見つかったら石を投げられるような、そんな被害妄想で一杯だった。
同時に、「なんで俺は人に見せるものがないのだろう」と悲しくも思った。
創作活動はしているのに、何も見せられるものがない。認めてもらえるものがない。
シナリオ書いているだけだから、我が輩自身の体験もない。ひたすらノルマノルマノルマノルマで一日が終わるばかり。
前回、話した祖母との体験が一際鮮やかなほど、我が輩の日常は単調だ。
それが嫌とは思わないけれど、世の中に置いて行かれている感覚だけは辛い。
たとえるなら、ブームの終わったソシャゲの周回クエをせっせとこなしているような。誰も気にしちゃいないガチャの結果に、一喜一憂しているような。トップレアをひいた喜びを爆発させても、虚空に自分の声が響くだけのような。
「お前まだやってんのw」と笑われてしまった時に、追従で笑ってしまうような。
そんな寂しさが辛くはあった。

人は人の中にいないと、やはりいじけた気持ちが育つ。
どうしたって人々が集っている場所が、明るく見えるのだ。
寂しい。寄せて欲しい。そういう気持ちを素直にだせないから、色々方便を言うのである。
「作品は黙って書くものだ」「作品は一人でつくるものなんだ」「観察も、感動も、独りのものだ。そこから生まれる作品も、やっぱり独りのものだ」「独りになれない人間に為し遂げられることなんてない……!」
「俺は雑魚にはならない」
我が輩もいじけた気持ちをぐらぐらさせて、異臭のする炎で己を温め、寂しい気持ちをいっそ飲み干して酔いながら、何とかんとかやってきた。
この度も、そうやってやり通した。
我が輩の創作の半分が、怒りと憎しみで出来ているというのは、こういう理由である。承認欲求をこじらせた圧力で、ぱんぱんなのである。
それがいつか吹き出して、祟り神にでもならないかと不安だ。
いつの日かTwitterでやっちまってる時がきたら、「祟り神になったのだな」と思ってくだされ。
鶏頭なので寝たら元に戻ると思いますゆえ。

迫力のあるグラウンドを求めて

何度も言っているが、大正東京には苦労させられた。
これからビジュアルを作成していくが、ここでも苦労する。
苦労するだろう、という予想ではなく、苦労する、という決定であるのは、それほど目に見えて難しそうだからだ。
舞台と言おうか、世界観と言おうか。とにかく人物達が立脚するグラウンドは、人物たちを貫いていなければならない。
山や、海や、川が人物を削り、国や時代が人物に吹きつけていなければならない。
そういう迫力のあるグラウンドを獲得するのに毎度苦労するが、この度はかつてないほどに苦労が大きかった。
大正という区切りでは手触りが掴めず、日露戦争後~関東大震災直前という勝手な区切りを一つの時代とみることで決着させ、それを便宜上「大正」とした。
国境によって山が切れない様に川が終わらない様に。元号が時代という生ものを区切るわけではないのだと、この度は学ばされた。
そういう意味で、明治は特異だったかもしれない。古い時代と新しい時代の潮目が、確かにあそこにはあった。あったと感じられた。
そんな特異点を踏んだ後の大正であったから、やたらと迷うことが多く、そういう意味でも苦労が多かった。
また大正は第一次世界大戦景気というグローバル経済の中にあったから、世界史の知識もやや要求され、そこらの学び直しにも時間を取られた。

羞恥心との戦い

作品とは自分を晒すことだ。
自分の住処を晒し、心臓の在処を晒すこと。
他人が攻撃出来る急所を晒すことだ。
人間は急所がもっとも鮮やかなのであるから、そこを主音と見立て、そこから離れたり近づいたりする音階によって意味を紡がなければならない。
もっとも鮮やかな急所を主色として、秩序を施さなければならない。
恋する者が魅力的なのは、その者の急所が晒されているからだ。
夢を追う者に我々がひかれるのは、急所を世間に晒して生きる清々しさ故だ。
爪をたてられたら悲鳴をあげるような急所によって、作品はデザインされるべきだ。

上の様なことを、誰かが言った、というわけじゃない
と言って、我が輩が考えたわけでもない。
我が輩に降り注いだ言葉が蓄積して、形を成し、上記のように格好をつけたのである。
我が輩は今のところ、これに賛同している。

急所の自覚と共に大切なのは、急所を恥じる羞恥心だろう。
オリジナリティとは自己を克服しようとする、その工夫を言うのであって、天性の特質はスペシャリティと言うべきで、オリジナリティとは違い尊ぶべきものでもない。
これは小林秀雄の談だが、これを我が輩なりに解釈すると「急所を恥じたのか」ということになる。
鮮やかな急所。だがそれを誇るなら〝くさい〟ものになる。
恋は秘めるものであり、夢は叶えるまで惨めなものだ。

我が輩は情動、エモーションに弱く、ついそれで物語を書いてしまいそうになる。
人物のエモーションを拾うのならいいが、作者のエモーションで書いてしまうのは駄目。
作者がエモーションで書くと、「世界が主人公と一緒に泣く」という様子になり、おセンチなメロドラマと化して見れたものじゃなくなる。
人物は泣いてもいい。しかし物語は泣いてはいけない。泣いた人がいた、という物語にしなければならない。泣いた人がいた物語と、泣いている物語は違う。
サバンナのドキュメント映画。
捨てられたチーターの子共がいる。餌がなく衰弱していく。あばらの浮く腹で必死に呼吸を繰り返すが、もはや顔を上げる力もない。その瞳の中に、最後の夕日が瞬く。夜がくれば、彼は戦いを終えるだろう――そこで撮影班が手を差し伸べ、抱き上げてミルクをあげるのがメロドラマだ。
作者の同情などは、作中人物にとってスポイルにしかならない。
観察対象への贔屓は、世界への侮辱だ。目に見えるものだけが尊いのだと、近いものだけが価値があるのだとして、見えていない世界を侮辱している。
どれだけ作中人物が可愛くても、ぐうっと我慢して、レットイットビー、そのままにしておかないといけない。
とは言っても、やはり同情は止み難い。
我が輩はこの傾向が強い。これで幾度も失敗している。

考えてみれば情に流され、人生においても過ちを犯してきた。
他人の情動に感応する己の心が恐ろしくて、他人とは一緒にいない方が良いとさえ考えている。
誰かの機嫌が悪いと強い緊張を強いられる。誰かが楽しそうだと、自分も嬉しい。誰かが困っていると、無分別に手を貸したくなる。
我が輩は他人の情動に、あまりにも容易く、振り回される。
自分という主体性もなく振り回されて、疲れ果てる。
要するに他人の人生に夢中になってしまうのだ。
こういう性格に目をつけられて、他人の据え物、モブされてしまっては適わない。
それで他人には警戒している。他人と言うより、他人に引きつけれる己の心を警戒している。

ミラーニューロンが発達しているのじゃないかと考え、脳科学を紐解いたこともある。
家族構成が人格形成に影響を与えたのじゃないかと思い、自分なりの研究を続けた結果導いたのが以前解説した「強父権社会における長男と次男の物語」である。
遺伝子的に他者への感情移入は有利なのか。社会性のある動物としてはどうなのか。
「他人の情動に夢中になってしまう心」の故郷が何処なのか、我が輩なりに考えてきたし、考え続けている。

他人の気持ちが気になって仕方ない。他人の心に囚われてしまう。
これは間違いなく我が輩の本質であるし、急所だとも思うが、この特性が強ければ強いほど大きく訴えかけてくるもう一つがあって、それが「自分でいたい」という感情。感情と言うより、自己保存のための防衛本能かもしれない。
他人への同調が進む中、ある地点からこの防衛本能が目覚める。強烈に保存すべき〝自己〟を主張し、相手との同調を拒む。
この拒否には、同調先の優劣や善悪という価値判断はない。
一律の拒否が突然にはっきりと現れるのだ。
これが時間軸に沿っておきるので、意見が180度変わることがある。
最初は同調し、相手と一緒に大いに盛り上がるが、急に〝一緒〟が嫌になって逃げ出すのである。相手からしたら、ぽかん、だろう。
我が輩だって長年自分の心理展開が理解出来ず、苦労したものだ。

他人に夢中になってしまう。
自分でいたい。他人に自分を決められたくない。
こういうアンビバレントな方向性が我が輩の中でせめぎ合い、作中にもよく現れる。
意図して出すのではなく、垢やフケ、糞尿の様につきまとうのだ。
執筆の最中などは気づかないが、読み返しの時などには「ああまたか」と見つけては嘆息してしまう。
「お前、なんぼほどこすんねん」
「また十八番ですか」
「お客さん、飽きまっせ」
と小馬鹿にしないとまともに見られない時もある。

他人の情動。
そこからの独立。
この双頭の犬が、お互いに噛みつきながら、それぞれ進みたい方向に引きずり込もうとする。
この己限りの大乱闘スマッシュブラザーズこそ、我が輩にとっては恥ずべき急所だ。
それぞれの犬頭もそれなりに恥ずかしいが、多かれ少なかれ誰もが持っている性質なのではないかと考えている。ただ、それを何時までも折り合いつけることなく戦わせている自分が恥ずかしいのである。

この恥部との戦いは、被写体への距離感という土俵で争われてきた。
作中人物に寄り切ろうとするカメラをどうにかして引き剥がす。
人物画にしない。風景画に留める。
大乱闘スマッシュブラザーズをやっていても、いちいち相手にしない。当たり前の様に扱う。世の中の一風景として扱う。
物語の見つめ方という、作者としての態度で戦ってきた気ではいる。

この度の大正編。
この作者としての態度にも非常に悩んだ。
単純に作中人物から距離をおくことだけが正解だろうか。方針への猜疑心が雪子の国以後は常にあり、ハルカの国は新たな戦い方の模索でもあった。
その模索がいよいよ煮詰まり結果として表れ始めたのが、大正編かもしれないと感じる。
我が輩の態度の問題で、まだ作品表層には出ていないかもしれない。
それでも挑戦があり、我が輩なりの結実を実感出来たから、今は満足している。
一言で現すなら「構成の意味を考えなおした」となるだろうか。
良い形として皆様の前に現れることを願っている。

作品と向き合う疲労

作中人物を貫くグラウンド。
作中人物を見つめる態度。
人物を生き生きとさせるために必要な二柱だろうが、ここにとことん、とことん苦しんだ大正編だった。
何故ここまで苦しんだのか。モチーフの難しさもあるだろうが、やはり時期というものがあったと今では感じている。

我が輩も日々、生きている。
特筆すべき事はなくても日々を営んでいる。
営む以上、現実の風雨にさらされ形を変じていく。
変化は積もり、ある時、意識的な態度に表出する。

海面下で隆起していた大地がついに現れた。その現れたものと向き合う機会が、今回だったのではないかと思っている。

自分で書いたものが、趣味に合わない。
手癖やテクニックで書いた部分がやたらと目につく。
懸命に書いた場所との差がはっきり出ていて、許せない。
嘘っぽくて人物が濁っている。生き生きとしてない。

自分に対する不満が常に背中から覗き込んでいる。
それが今回の執筆だった。

ああ、しんど。
ほんと疲れました。
今から直していくのもまた、疲れるのだろうなぁ……。
自分に疲れるって、一番疲労感がたまります。
ま、ちょっと良い酒でも飲んでさ、頑張りまさ。

追伸

もうほんとに、ほんとに、遅れて申し訳ありません。
遅れてるくせに、好き勝手なことばかりやってて、すみません。

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