嘘を信じる化け物

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

明けて十日も経って頭を下げれば、やや間が抜けているだろうか。
心体ともども引き籠もっていので、他所で言う機会がなかった。皆様はこの正月、いかに過ごされましたでしょうか。
我が輩は母方の祖母をたずねた。
そこでの発見というか、気づきというか。
ちょいと語りたいことがるので、この度はそこを語らせて頂きたい。

祖母

我が輩の祖母は、幸子という。
御年90の昭和5年生まれ。
背が小さく、我が輩が隣に立つとつむじを覗き込むほど。
元から小さかったが、最近余計に縮んだのだそうだ。
食欲はあるからよく太っている。娘の時分から小さくて太っていたらしく、「樽が歩きよると、人が笑いよった」と話す。
歯が全部自前であることが自慢だ。
嵐は相葉くんが好きで、松潤が嫌いだ。
サツマイモは戦時中に一生分食べたので、もういらない。
我が輩の祖父にあたる夫は、10年前に亡くなっている。
娘――我が輩の伯母が共に暮らしている。
母娘は性格が似て、両者他人の話を聞かない。
二人で話すと意味が合っていないけれど、会話は成り立つ。
近頃、認知症がすすんだ。
それで昭和17年の台風で家を流されたことや、下関で看護婦をしていた頃に読んだモーパッサンやヘルマンヘッセの話、闇でおこなわれた中絶手術や、堕胎後の身の毛もよだつ処理方法の話を、繰り返し語る。
それらの記憶があまりに鮮明で、迫力があることには、毎度我が輩を驚かせる。
特に昭和17年、台風で家財が流された翌日、森の中を妹の位牌を探して歩いたくだりなどは、我が輩に一種独特のイメージを喚起させる。

この正月も、幸子は我が輩を相手に昭和17年の台風の話をした。
ストーリーは毎度同じだったけれど、シーンの描写密度は毎度異なる。
この時は流された家の屋根が竹の皮で葺かれていて、雨が降った後に日が照るとめくれあがり、そこにまた雨がふると家中が雨漏りしたことを詳しく話した。
我が輩の好きな森で位牌を探すくだりは、やや省略されてしまった。

台風の話を終えると、幸子は我が輩のために海老をストーブの上で焼いてくれながら、「はぁ頭も呆けたけ、なんも思い出せんわ」といつもの様にしめた。
これは幸子にとっての「どんとはれ」だったので、我が輩も別段相槌は打たなかった。
幸子は「そのうちカズキのことも、忘れてしまうじゃろうねえ」と続けた。
我が輩も「そうじゃねえ」と頷いた。

幸子は悪戯がばれたような、照れたような笑いをした。
へっへっへ、と太った肩を揺する、目元の可愛らしい笑いだった。
我が輩もそれに釣られて笑った。

その時、我が輩は名状し難い充足感――感動を覚えたと思う。
幸子が我が輩のために海老を焼いてくれているということに、近いうちに我が輩を忘れるということ、我が輩もまたそれに同意したことに、深い、紛いものではない〝本物〟を共有しているという実感が抱けた。

そこへの感動を、我が輩はブログに記そうと考えた。言葉で形を与えれば、感動が住み着いて、長く残せる。
新年一発目を、ただの進捗報告で終わらせるよりずっと良い気がした。

帰宅し、ブログの構成を練った。
何を如何に書くかを悩んだ。
悩むなかで、ふと、良さそうなフレーズを思いつく。

「忘却の共犯者」というのはどうだろう?

忘れることと、忘れられること。これをお互い認め合うことは、いずれ訪れる忘却にそれぞれが加担したということではないか?
その仲間意識、結託に、我が輩は静かで強固な絆を感じた――うん、いけそうだ。
幸子をエピソードでたてつつ、要所要所で我が輩との思い出も入れていく。二つの時間軸を上手くコントロールし、シーン全体は抑制を効かせてすすめる。
最終的に2020年の現在において文脈を結び、「忘却の共犯者」というフレーズを開放的に響かせれば――。
自覚的に考えたわけではないが、頭の中では出来上がっていた。事実、我が輩はそういうものを一度書いた。

が、書いたものを読み返してみると、ひどい嫌悪感を覚えたので全て削除して寝た。
ショックだった。
我が輩はナルシストなので、自分の創作物には概ね好意的。意図したことが叶わなくて落胆することはあるけれど、表現しているものの根本が嫌ではね除けるようなことはない。
あるわけない。
自分の表現動機を嫌悪するなんてのは、自己矛盾も甚だしい。
しかし今回は嫌だった。

我が輩があの時感じたのは、「忘却の共犯者」なんてものじゃない。
恐らく。
幸子という綿々と続く存在の〝感じ〟に、我が輩は迫力を覚えていた。
そこに「カズキを忘れる」と言われたことで、昭和5年に生まれて17年の台風では妹の位牌を森で探した幸子のなかに、いつからか我が輩もいたのだなという事実を体感し――やっぱり幸子という存在に圧倒されただけなのだと思う。
後から思いついた「忘却の共犯者」なんて過分なロマンティシズムは、あの瞬間には絶対になかった。
そこをねじ曲げて、自分の感傷趣味に沿わしたことに強烈な嫌悪を覚えたのだ。
自分が無意識のうちについていた嘘、自己欺瞞が気持ち悪くて仕方なく、また危険を感じた。

嘘を信じる化け物

我が輩はよく嘘をつくし、嘘をつくことに罪悪感もない。
旅先などでは自分の名前を偽ることはしょっちゅうだし、無茶苦茶な経歴で話すこともある。自分にとって大切な相手――家族にも嘘をつく。
しかしそれらは自覚的な嘘で、嘘をつこうと思って、嘘をついている。
それら自覚的な嘘たちは、我が輩にとっては嘘ではない。
皮相的には虚であるが、嘘をつくという手段の選択、つまり動機、嘘の生まれた深いところは真なのである。
我が輩が嘘をつくのは、我が輩にとって本質的なことを全うするために選んだ手段であって、嘘の内容自体はさして重要ではない。
嘘をつく、という行為の選択が重要なのだ。
嘘が自覚的である以上、行為の選択に嘘はない。
屁理屈に聞こえるかもしれないが、我が輩にとって嘘とは、自分の本質と調和する構造を持っていないと、選べない行動なのである。
究極的に言えば、我が輩は嘘がつけない。
いや、たまについてしまう。ついてしまうが、ついてしまった直後に気づき、強烈な嫌悪感を抱く。
その自己嫌悪への苦しさ故に、自己欺瞞への警戒心はやたらと強い。

自己欺瞞への激しい嫌悪は、何も我が輩に限ったことではないだろう。
と言うより、誰しも自分がついた嘘を嘘のままでは受け入れられないはずだ。
何故なら嘘は認識している事実とは異なるために、それをそのまま容認することは現実像に矛盾を生じさせてしまう。
人間は認識や理解への矛盾、無秩序を大変嫌う。
だから嘘をつくにしても、自分が何故嘘をつくのかという動機、つまり嘘を生んだ真実まで返らないことには、嘘はつけないはずなのである、本来。
しかしこの動機の探求、嘘の奥にある真実を見つめないままでいると、現実への認識が嘘という矛盾を解決するために、とんでもない行動をとる。
現実への解釈を、嘘の方に合わすのだ。
エラーを起こしている一文のために、現実そのものを書き換えるのである。
この書き換えが一度や二度ならいい。しかし嘘をつく度に、そのエラーを解消しようとして現実を書きかえ、組み替えると、だんだんと現実認識が脆くなっていく。現実認識とは本人が自覚している現実であり、現実とは自己像を投影する鏡であれば、そこが歪むと自己認識まで歪む。
自己認識が歪んだ人間、自己認識が脆い人間は、非常に危険だ。
彼等は弱点だらけなので、防衛本能が極端に発達し、とても攻撃的である。また歪んだ自己認識につき合ってくれる外部の人や物に、強い依存や、執着心を示す。
そういうモンスターに、自分も成り得る可能性が多いにあるこを、無意識についた嘘に気づく度、自己欺瞞を発見する度、自覚する。
これがたまらなく嫌なのだ。
たとえ自分のことであっても、生理的嫌悪を覚えずにはいられない。

せめて感動だけは

自己欺瞞への嫌悪感。
この度は取り分け大きかった。ショックで寝落ちしてしまうくらいに大きかった。
何故かと考えるに、恐らく、感動を穢したからだろう。
自分が大切に思っている祖母との時間、その中で感じた繊細なものを、ロマンティックに飾り立てて見栄えを良くしようとした嫌らしさ。その動機とはつまり「うけたさ」であり、「上手いこと書いてると思われたい」「文才があるように思われたい」という承認欲求。
自分の承認欲求が巨大であることは重々承知しているが、なにも感動にまで手を出さなくたっていいじゃないか。感動したことを感動したままに記すならまだしも、SNS映えを考えるなんて。そのために感動をねじ曲げるなんて……。
感動は、我が輩にとって創作の動機の半分。(残り半分は怒りと憎しみと承認欲求)
ここを濁したら、何も作れなくなりまっせ?
嫌悪とともに、恐怖を感じた。
正月早々、危険を感じた。

嘘はつきたくないものだ。
自分への嘘だけはつきたくない。
自己欺瞞は我が輩というシステムを脆弱にする。
どれだけ恥ずかしい動機でも、ちゃんと見つめてから嘘はつきたい。
せめて自分には誠実でいたい。
そんなことを強く思った、2020年の始まり。
新年早々、冷や水を浴びて、身が引き締まる思いがしやした。

ハルカの国・進捗。
次回のブログで、色々ご報告できると思います。
今は最中にいて、自分がやっていることを判断できないのでしばしお待ちを。

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