ハルカの国 創作の記15

ハルカの国 創作の記

交響曲が聴けない

十年来、試み続けていることが幾つかある。
内の一つに、手塚治虫への理解。
手塚治虫は凄い。
そんなこた、我が輩が認識するまでもなく、理解するまでもなく、真なのである。
ただ我が輩は理解出来ていない。
理解出来ていないと感じている。

味噌もクソも一緒、と言うほど審美眼が曇っているとは思わない。
クソはクソとわかる。見て、聴いて、心がパタンと閉じる。嫌悪感にではない。無味無臭の虚しさに心が閉じるのである。
付き合っても仕方ないと本能が告げてくれる。感性からの撤退命令に、我が輩は逆らわない。

ただ「感じるものはあるけれど、世間の評価と大きな差がある」ことには自分を疑う。
特にクラシックな価値と自分が異なる時、我が輩は自信を信じきれない。
権威主義のきらいがある。時の淘汰に打ち勝ったという前提条件に、くらっとしてしまうのだ。歴史とか、伝統とか、そういう印籠に弱い。
それで自分を譲る。「きっと良い物なのだろうな」とわからないなりにわかったふりをして、「ううん」と唸る。
「こちらが未熟でどうもまだ」という態度をとって、保留をする。
その保留の一つが、手塚治虫。

小学生の頃、「火の鳥」と「ブッダ」を読んだ。
これがいけなかったのかもしれない。「火の鳥」「ブッダ」がスタンダードになった。
以後、読んだ漫画は「火の鳥よりぶっ飛んでないな」とか「ブッダの方が気持ち悪い描写多かったな」と〝あれ以下〟を感じさせてくれた反面、「火の鳥」と「ブッダ」を凄いものと再認識させてはくれなかった。
「あれが普通でしょ?」という感覚のまま、今に至っている。

我が輩も我が輩なりに手塚治虫の凄まじさは感じている。
しかしながら、圧倒的に「わかっていない」感じもする。
世間の評価である「神様」を感じられていない。
いつの日か手塚治虫の真価を理解したい。「ああこれが手塚治虫の凄さなんだな」と自分の中で納得したい。
今、我が輩は巨大な象を節穴から覗いているような不安がある。全容を理解できないまま、その漠々とした巨大さだけを感じているような不安。
その不安を取り除きたいために、長いこと、定期的に、手塚治虫と向き合っている。

別の試みとして、クラシック音楽。
絞って、西洋音楽。
更に絞って、交響曲。
何度も何度も視聴を試み、今度こそは理解しよう、今度こそはその価値に触れようと挑む。
その度、「そんなにいいかこれ……」で終わる。

我が輩、けっこう音楽的な感性には自信がある。
ジャンルで選り好みすることもない。新しいトレンドに対する忌避も少ないと思う。
古いものもよく聴く。名盤と呼ばれる洋楽や、民族音楽、歌謡曲なども好きだ。
どのジャンル、どの年代の音楽を聴いても、良い物は良いと思える。
正しく理解出来ているかどうかは別にして、我が輩なりにそれぞれの音楽を楽しめている。

が、西洋クラシック。
交響曲に関してだけは「わからん……」という状態が続いている。
最近もマーラーへ挑戦してみた。
解説本や、周囲の人々が残した聞書、バーンスタインが語っている動画なども参考にした。
聞いていて、「ああいいな」という楽章もある。ただ手塚治虫の時と同じく、掴み切れていない感が凄い。
「いいかもしれないけど……こんなもん?」
という感じ。
これが毎回、交響曲を聴く度に感じる。結局、それは「わからなかった」という敗北感へと転じていく。

この敗北感を味わう度に思うのは、小澤征爾がドキュメントの中で語っていたこと。
「東洋人の我々が、本当の意味で西洋音楽を理解したり、演奏することが出来るのだろうか」
「それが長年、僕にとっての不安である」
こう語っていた時、小澤征爾の目にはほとんど涙が浮かんでいたと思う。
指揮者として西洋音楽に生涯をかけた彼に、軽々しく同意なんてしてはならないのだが、それでも我が輩は思ったものである。
「せやろ」
と。
「俺もずっと同じ事、思っててん」
と。
ほんと調子こいてすみません。
でも思ったし、嬉しかったのだ。
我が輩は挑戦する度に弾かれる交響曲に対して、ある種の疑いを持っていた。

「前提条件がまったく違うのじゃないか。俺は前提されている聴衆ではないのじゃないか」

交響曲の中で表現されるものと、オリエントな我が輩には共通項がない。
旧大陸的な宗教観がなく、旧大陸的な歴史観もない。
西洋音楽の中で培われてきた文脈への理解もない。
彼の地における季節感は、極東の島国で生まれ育った我が輩とは異なり、風や光に対する感覚も違う。
だから交響曲を聴いてもイメージが湧きづらいし、感情の起伏を旋律の中に感じても、それを自分のものと思えない。銀のカツラを被ったモーツアルトっぽい誰かが苦悩したり、喜んだりしている、他人のものに〝見えてしまう〟。
音楽の表現を体感出来ないのだ。
「良い」と思えても、自分の中の何かが表現されている、高められているという昂揚感がやってこない。

西洋クラシック、交響曲に挑む度、毎度毎度、ここに行き着き寂しい思いをする。
自分の居場所がない気がして、諦める。背を向ける。
ただやはり価値のあるものなのだろう。
見ない様にしていても、どこからともなく、誰からともなく、再び我が輩の前に現れる。
現れる度、「今度こそ」と参考書片手に挑むが、未だその胸襟を開いてもらえた覚えがない。

手塚治虫と交響曲。
それが何であったのか、理解出来る日が訪れることを願っている。

一目惚れのような、あるいは生理的拒絶のような好悪は心地良い。遺伝子に訴えかけてくる価値の力強さに、好きであれ、嫌いであれ、我が輩は打ち抜かれる事を好む。出来れば「好き!」に振り切れたいが、「絶対嫌!」というものも出会えば自分を知れる気がして面白い。
同時に。
好きか嫌いかもわからないまま、他人や歴史に「良い」と言われるままに通い続け、来る日も来る日もノックを続ける。その末、ついに扉が開かれる。自分が試み続けていたものの正体を知る。
こういう出会いも魅力的である。
自分が変化したこと、新たな視野を獲得したことを、強く自覚出来る。
変化への強い自覚。これは肉体的成長も止んだ我が輩にとって、大変刺激的なのだ。

皆様にもありますでしょうか。
いつか自分を変えてくれると信じて、投資を続けている何か。
長いことノックを続けているけれど、未だにウンともスンとも言わない何か。
人生のブラックボックス。
未開封の袋とじ。
未踏の領域。
実際、そのものの価値は置いておいて。
そういう「まだわかってないもの」があるだけで、多少、日々は楽しくなる気がします。

ハルカの国 進捗

大正・星霜編。
年末年始の発表は難しくなりました。
誠に申し訳ありません。

ハルカの国に関しては謝ってばかりで情けなく思う。
申し訳ありません、反省しています、情けないですと塩らしい文句を並べても、お許し欲しさのアピールにしか思えず、自分が嫌んなるので報告をしっかりしていきたい。

大正編。
現状、シナリオにチェックを入れてもらっている。その間に素材を作ったり、ロケハンを行ったり。
今のままでは「迫力」に満足がいかないので、資料にあたって描写の補強も行っている。
大正東京。
登場シーンはいい。
しかしシーンが進むにつれ、イメージが疲れてくる。力を失っていく。
息切れを起こす。スタミナがない。色調の幅がない、変化に鮮やかさがない。
鮮烈さがない。
匂ってこないのだ、大正東京が。

大正時代の資料が少ない。
図書館のコーナー。
江戸、激動の明治、懐かしき昭和の風景、平成近代化への歩み――比べて圧倒的に大正が少ない。
実際、大正時代は短い。またシルエットがくっきりしている出来事も多くはない。
米騒動と関東大震災が大きく扱われるが、他はぬるっとしていてゲル状でつかみ所がない。
それで文献も少ないのか、知りたいことが知れない。

我が輩自身、大正への印象が曖昧模糊であったことを痛感している。
明治の延長であり、昭和への仕込み。狭間の時。
大正ロマン、大正デモクラシー、「どうだ明るくなったろう?」の船成金、第一次世界大戦、蒸気機関と赤煉瓦――数えたら指を折って足りるイメージでササッと間に合わせていた。

つかみ所がない。
資料にも、我が輩の中にも取っ掛かりがない。
それで苦肉の策、明治から歩み寄っている。
考え方は大正時代と言うより、日露大戦後、関東大震災まで。
この二十年間の間におこる国民意識の高揚と、経済的な喪失までのグラデーションを時代感として捉えイメージや体感の補強に勤めている。

それにつけても資料が少ない。
ロケハンするにしても、何処へ行けばいいのかわからない。
100年前の、関東大震災前の、東京が何処にあるのかわからない。

我が輩は自分が書いているものに納得したい。
自信がもちたい。
強烈な自信が持ちたい。俺は絶対に間違ってない、これを作り上げれば変われる、「ハルカの国」は空前絶後の評価を受けて、次回作を作れるだけの金も入るし、周りからも褒められる。
作っている最中の気狂い、幻想でいいから、自分の手元で出来上がっていくものを強く強く信じたいのだ。
「俺はとんでもないものを作っているぞ……!」
そう思えてやっと、皆様にお見せするに値する、許されるクオリティになるのだと信じている。

失敗したくない。
臆面もなく言えば、これに尽きる。
つくづく自分を臆病、ザコメンタルなのだとこの頃痛感する。

怯えてばかりもいられない。
ジャッジを恐れて、保留を続けては負け犬だ。ジリ貧だ。
何処かで踏ん切りをつけ、信じることを決意する必要がある。

とりあえず、明日より広島、尾道にロケハンへ出る。
東京へ行くかはその最中に決めたい。今でも迷っている。
こんなに迷うのは「雪子の国」において、雪子を探して以来だ。
あの頃は、雪子とは何かと考えて悶えた。
今は、大正東京とは何かを考えて悶えている。

ああ。
それにつけても自信が欲しい。
自分を徹底的に信じられる力が欲しいものだ。
恐怖に負けて、自分を信じ切って仕舞えば、終わりなのだけど。
それでも信じ切ってしまいたい衝動に、時折、かられる。

年末。
2019年、令和初年が終わるというプレッシャーに、心臓をおろし金にかけられている思いがしまさ。

俺は乗り越えるぞ。
絶対に見つける、物語の迫力を……!

“ハルカの国 創作の記15” への2件の返信

  1. kazukiさんの作る物語りが本当に、堪らなく、狂おしい程、好きです。

    だからこそ、kazukiさんの納得がいくまで物語りをこねくり回して下さい。

    ハルカの国、勿論早く早くにプレイしたいです。でも、待ちます。ずっとずっと待てます。だから、kazukiさんの全身全霊のハルカの国、きっと作って下さい。

    お金に困るようなら、またCFやって下さい。微力ながら、手助けさせて頂きます。
    きっと、私以外のファンも力を貸してくれる筈です。

    kazukiさん、応援してます。
    そして、尊敬してます。めげないで下さい。

    ハルカの国、いつまでだって待ってます。

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