ハルカの国 創作の記その11

コミケ会場に足を運んで下さった、諸兄姉。
暑いなか、あの人口密度のなか、ありがとうございました。
お声をかけて頂き、感無量でございました。中には「会いに来ました」とまで言ってくれる方もいて。「マジで?」とやや疑ったままではありましたが、本当に嬉しかったです。
「ブログも読んでます」とも言って頂けて。
創作活動への感想など、ほとんど頂く経験がないので心からの喜びがありました。
本当にありがとうございました。創作の励みになってものです。

CF参加者の皆様。
決別編のDL、もう少々お待ちくださいませ。
知人からバグ報告があり、それを取り除くことが叶っていません。
恐らく明日、明後日には環境が整うと思います。
約束守れず、申し訳ありません。

「ハルカの国」の今後。
次々回のブログで報告いたします。色々、報告させて頂くと思います。現状、考えていることもあり、まとめきれていないので、次々回によろしく。次章の発表予定時期とか。

以下より、本題。

虚空空間へのニーズ

コミケに参加した余波で、今まで気抜けしていた。
それほど吾輩にとって首都東京の人口密度は辛かった。コミケは言わずもがな。移動最中の駅にしろ、飲みに入った店にしろ、人の多さには目が回った。
殊に辛かったのはコミケ会場までの電車内。もはやパーソナルスペースなど贅沢なことは言ってらんねぇ。老若男女、お互い肉体というハードをもったことを後悔しつつ、申し訳なさを抱きつつ、肩と肩をぶつけ、背と背で押し合い、積載され運搬された。
あの電車に積み込まれる度、「もう二年は東京いい」と思うのだが、この度は車内にて新しい発見があり、それを嬉しく思っている。

発見とは、人間。
また新たに、人間たるものを見つけて、それを創作にいかせる気がして、今でもほくほくしている。そういう発見を皆様におすそ分けして、この度の題材としたい。

題して「虚構空間へのニーズ」。
どうぞお付き合いあれ。

過剰積載

鮨詰めの電車内。
これほど苦しいことが他にあるのかと体内で悲鳴をあげつつ揺られていると、目の前にカップルがいる。イチャついている。恐らく十代の二人で、吾輩と目的地は同じだったと思う。
この二人が実に楽しそうなのだ。
お互いの鼻をつまんだり、髪の毛を触ったり、手首の匂いを嗅いだり。その仲睦まじさたるや、周りをやや引かせるほどだったが、とうのツガイは気にせず、気づくこともなく、毛繕いを延々続けている。
ツガイと吾輩の環境は同じ。野の獣であればとても生きていけない、発狂しかねない密度で詰め込まれ、本来生存に必要なパーソナルスペースをお互いに浸食され、お互いに浸食しているこの世の地獄。
そんな中にあって、二人は幸福そうなのである。
これには深い感銘をうけた。
また、目の前でカップルがイチャつくのを意に介さず、スマフォにイヤフォンで涼しい顔をしている兄ちゃんがいる。覗くつもりはなかったが覗いてしまうと、鬼滅の刃のアニメを見ている。兄ちゃんの顔も幸せそうである。少なくとも、吾輩のように心中叫びながら阿波踊りというわけではなさそう。
ふと思いつき、顔をあげてみればやはり。
皆、各々、イヤフォンなり、スマフォなり、友人との会話なり何なり。
空間なんて1㎤も残っていないような環境で、それでも各々の空間を作り上げ、そこに心をくつろげている。
苦しそうにしているのは、吾輩のように車内という現実の三次元にばかり集中しているような輩。
肌が触れるとこと、体臭が匂ってくること、声が間近で聞こえること。こうした三次元空間における不快にとらわれ、空間を得ることが叶っていない連中ばかりが苦しそうにしている。
それで「なるほど東京人はパーソナル空間を作り上げることが、我々より上手いのだな。現実空間が過密であっても、それぞれの次元において空間をつくり心を逃す術に長けているのだな」と気づいた。
気づいて、はっ、とした。
「これこそ人間の才能なのではないか? 吾輩が物語を用いて向き合っていく相手、人間というものの最たる特質なのではないか?」

人間のディメンション

まとめるとこうなる。
生物には生存に必要な空間がある。動物でいえばそれは縄張りと言える。我々人間であれば上記で繰り返したようにパーソナルスペースと言えよう。
この縄張り、もしくはパーソナルスペースを侵されると、動物は大変不快な思いをする。自分のスペースが侵されることに、人間である我々も「攻撃をうけた」とさえ感じ、交感神経が活性化し、思考に攻撃性が増し、脳が不快感を増幅させて現状の改善を命令する。
例えば、飲みの席。
隣のテーブルでリーマンが大声をあげ、飲みコールをはじめ、テーブルをバンバン叩いて爆笑し、怒声なども飛び交う。
この時、これを不快に思わない人も少ないと思うが、不快と思う理由は「煩い」「うざい」というだけではない。
音によって、会話の意味によって、こちらが金銭を払って確保しているスペースを侵されている。空間の侵食に対し、肉体が臨戦態勢をとり、臨戦態勢をとるために意識がそちらに引っ張られこっちはこっちで楽しむことが出来ない。
そうした環境にこそ我々は極めて不快な思いをしているのではないだろうか?
つまり本質は空間と、空間の侵食にある。

このように空間の確保を生理レベルで求めるのが動物であれば、我々もその確保にこそ躍起になる。
だが東京などの過密地域では、現実には人々それぞれがパーソナルスペースを確保できるだけの空間がない。
これでは常に人々はイライラし、攻撃的になり、不快感ましましの日々を送らなければならない。
そこで発達させたのが、新たな次元、フィクションというディメンションへの移行。虚構という空間にパーソナルスペースを築く技術なのではないか。
恋人、友人という関係性というフィクション。アニメ、漫画、音楽という虚構空間。あるいはこれから向かうコミケ会場での楽しい未来という在りもしない空間に、心を広げる。想像力を逃がす。
過密状態にある㎤空間から、それぞれが保持し、重なることのない次元、言うなればパーソナルな次元としての虚構空間に生存圏を築く。
現実空間では達成されないパーソナルスペース、縄張りを、フィクションというディメンションにて確保する。虚構にこそ空間を見出し、生存戦略を打ち立てる。
これが人間という生き物なのではないか。
つまり人間とは現実空間、㎤空間に横たえている肉体ではなく、虚構という次元にたゆたう心、想像力こそ本質なのではないか。
であればこそ。
虚構でしかない物語を愛し、物語を求め、物語のために生きることさえあるのではないか。
物語が提供する空間に、空間こそに、人の心は焦がれ、たゆたい、くつろぐのではないか。
本質とは空間。
価値とは空間。
物語はそれを提供する技術なのではないか。
それに気付けた時、吾輩もまたコミケ会場に向かう車内から、確かに救われたのだ。
吾輩にも空間がある。
「ハルカの国」という巨大な空間、ユキカゼとハルカという関係性の器、百年という時空間、それが吾輩にはある。
それを思った時、吾輩の心には北国の冬、雪の香りさえ香ったほどであった。

物語という空間

元々、吾輩は物語を器だと感じてきたし、考えてもきた。
どれだけ読者の心をくつろげることが出来るか。読者の想像力を働かせることが出来るか。
本質は目の前のゲーム画面ではなく、読者の心の機微にこそある。誰かが吾輩の物語に夢中になってくれたり、感動してくれることがあったとしても、それは吾輩の物語が優れているのではなく、読者それぞれの心が優れている。
言ってみれば、物語という鏡に映ったそれぞれの心に人々は感動し、夢中になっている。仮に物語に優れたるところがあるとすれば、それは読者の心を引き出したその手腕であって、物語そのものが読者を夢中にさせているわけではない。彼らは彼らの心模様、心の動きに夢中になっているのだ。
そう、考えてきた。
だから、読者の力を借りる物語づくりを心掛けてもきた。
そういう考えの下、此度の「ハルカの国」にも取り組んだ。
その中で、「何を提供できるのか」を考え続けた。
涙が零れる感動が最上のものなのか。泣けることこそ読者の心が求めていることなのか。
それが物語の答えなのか。
心が求める究極の姿なのか。
何となしにそうではない気がする、そういう一元的な尺度が物語の良し悪しを決めるとは思えない。泣きゲー=良作のような狭い分野ではないはず。
少なくとも、吾輩は泣きゲーをつくりたいとは思えない。泣けることも大切だろうが、それが究極の目的、最終目標に据えることはどうにも出来ない。
吾輩が本当に夢中になれた物語は、泣けることによって吾輩の胸に残ったわけではない気がする。涙もろい吾輩であるから、泣くことは多いけれど、泣いたからといっていちいち物語を評価はしなかった。泣ける、という意味だけの感動では、記憶にも残らず、もちろん胸にも残らなかった。
逆に、ほろりともこなかったけれど、いつまでも胸に残っている物語がある。
「この世界の片隅に」も泣けなかった。「銀河鉄道の夜」も泣くことなんてなかった。小津安二郎の作品群、宮崎駿の作品、やはり顧みても泣いた覚えがない。
小学生の時分、夢中になった牧場物語。中学生でドはまりしたToHeart。Key作品。
泣けたかもしれないが、思い返してみても泣けたシーンを覚えていない。
それでも吾輩の胸に残っているし、残るだけの何かしらの「体験」がそこにはあった。
この差は何であろうか。
胸に残った物語群は、一体何を、吾輩の心に提供してくれたのだろうか。
それを突き止め、吾輩もまたそれを読者に提示したい。
そう思い続けていた。
その答えの一部を、この度、見つけた気がしている。
それが「空間」。

物語によって提供される空間。
それが豊かで広大であることが大切なのではないか。
沃野千里、豊穣の大地こそが、読者に提供できる最上のものなのではないか。
空間、といって、単純な㎤という意味だけではない。
時間軸も保持し、時空間として豊かでなければならない。
人物という器、関係性という器、それらもまた豊かであり、感情移入先として魅力的でなければならない。
つまり先に記した虚構、フィクションというディメンションでも空間は豊かでなければならない。
ストーリーラインはその空間を魅力的に演出する技術であり、同時に、その空間に向かって読者の心を導くガイドラインなのではないか。
泣くこと、笑うこと、怒ること、悲しむこと。これらは読者の心をほぐし、柔らかにし、空間にむかって広がっていく手助けをするのではないか。あるいは豊かな感情を呼び起こす空間を、読者の心もまた好むのではないか。
吾輩は吾輩らしい「空間」を提供するために、物語として演出し、ノベルゲームという形で読者の心に働きかけているのではないか。
吾輩が作りたかったのは心をくつろげる「空間」なのではないか。
それを思いつけた時、自分の中で物語がもつ意味が変わった。
物語とは技術。作っているのは空間。そこに読者の心を呼び込み、そこで読者の心が遊ぶ。その現象をもって、吾輩の目的は達成される。
吾輩が作っていたのは物語ではない。空間だったのだと思えた時、自分が試みている世界が一挙に広がった気がしたのだ。これが一つの答えだと思えるほどの爽快感があった。
ある意味では、「空間をつくる」という虚構の広さに、心が清々したのだ。これは夢中になるだけの器であると、そう思えたのだ。
吾輩は人間の心と向かい合っている。その方法として物語、中でもノベルゲームを採用している。であるから、本質はあくまで人間。その心。その仕組み。
これはもう一生付き合える命題だなと。何よりサンプルとして吾輩の心が、人間の心として手元にある。トライ&エラーを金をかけずに繰り返せる。仮説と検証を金銭面ではノーリスクで試せる。衒いと気負いをなくし、自己への誤魔化しを取り払い、本質に耳を澄ませることが出来たなら、俺は一生ものの玩具を見つけたのかもしれない。
そんな興奮があった。

考え続けること。試み続けること。それを許す空間。

毎日、毎日、来る日も来る日も一人で作業している。
と言って、一分一秒を惜しんで机に噛り付くのは、締め切り前の三日程度だ。
100%という意味で本気を出すのは、最後の最後だけである。普段は六割くらいの力で走り続け、最後の追い込みに向かって環境を整える。

日々の作業の中で、吾輩は作業前の二時間程度、考え事をする。散歩をする時もあるし、コピー用紙に書き物をする時もあるし、本を読むこともある。何かをしながらぼけーっと考えるのである。
考えるのに、毎日テーマを決める。
「こういうことが知りたいな。あそこを理解したいな」と思うテーマを一度意識し、その後、ふにゃふにゃと取り留めもなく考える。
正直、この考える時間を作業時間に回した方が良いのでは? と思わないでもない。
実際、そう思い、この度途中、やめてみた。すると途端にモチベーションが低下した。
どうもこの思考時間、作業前の暖機運転は必要なものだったらしい。
まったく取りやめるのが難しいなら、せめて時間を30分~Ⅰ時間に減らせないものかと試してみたが、これも難しい。どうしても一段落つくのに最低一時間、長くて三時間を要する時もある。調べものなどを交えていると、午前中まったくノルマに手をつけないということさえある。
取りやめも駄目。短縮も駄目。
では何故、この暖機運転、思考時間が必要なのか。それを考えてみることにした。
その必要性を理解し、腑に落とすことが出来れば、「時間を無駄に使っている」という焦りも軽減されると考えたからだ。
自分がやっていることの意義を定義することは、一人作業を繰り返していく日々において重要なことなのだ。これを手間に思って蔑ろにすると、末端作業で不調が訪れた時、活動の本質にまで不安や疑惑を呼び込んでしまう。
だから、思考時間とは吾輩にとって何なのか、それを問い直すことは吾輩の活動根本を支える意味でも必要なことだった。
そこまで考えると、答えは自ずと出た。
作業前の思考時間、暖機運転は、その日一日の意味、一日を重ねていくことの意味、究極的には自分が何をしているのかを確認するために、つまりは生きていることの意味付けのために必要な時間だったのだ。
色々考える。
考えたなかで仮説をたてる。それを物語として試したり、既に思いつて実証している人がいないか検索したりする。駄目な時もある。が、上手くいく時もある。吾輩の前を行き、その有用性を立証している誰かを見つけることもある。この喜びや興奮が、吾輩にとって一里塚、この道であっているのだと強く確証を持てる瞬間、一人で行く旅路でほっとする時。精神が深く深く安定する瞬間だったのだ。
同時に。
日々歩いている足元から、ふと目線をあげる瞬間。自分がこれから歩む先を体感する瞬間。この道を弛まず行けば、いつか素晴らしい景色に出会えるのではないか、途方もない感動が待っているのではないか、と思える瞬間。
であればこそ。
ここに投資していいのだと、ここは吾輩を飲み込むだけの十分な器があるのだと、どこまで行っても虚しさはないのだと思える瞬間だったのだ。
オープンワールドのゲームで、毎日新たなステージを発見するような喜びだろうか。向こうに山が見える。さすがに限界だろう、もう続きはないだろう、あそこまででも十分に楽しめたからいいんだけど――と思い、山を越える。すると眼下に新しい街並みが広がる。その先には帆船が行き交う水平線。もしかしたら、海の向こうにもマップあるの?
このゲーム、一生遊べるじゃん!
という興奮。
こういうものを、毎日、毎日、自分なりに感じる。
毎日毎日、己で己のプレイグラウンドをアプデする。更新する。
アプデしても、更新しても、「まだまだ広げもらって大丈夫」というポテンシャルを感じることが出来る。
ここからの喜びが、創作の原動力になっている。自分がやっていることは、世界で一番面白いことなのだと思える。あらゆるリソースの投資、課金を続けていこうと思える切っ掛けとなっていたのだ。

器を持つことの喜び。

上記したように、人間は虚構というディメンションに自分のスペースを築く特性がある。その特性に長けることによって、人間は過酷な環境下であっても心の幸福を得ることが可能だ。
この独自空間が安定している、中長期を通じてその空間を利用出来る、空間を拡大成長させることが出来る。
この状態にある人を、吾輩は「器を持っている」と捉える。
吾輩は今、「器をもつ」ということが大切なことの一つであると感じている。東京への遠征を終えて、その思いは強くなった。
器、空間。
それは恋人でもいいし、ペットのワンコロでもいいし、ノベルゲームでもいい。大好きなミュージシャンでもいいし、アイドルのファン活動でもいい。
とにかく、自分のなかで絶対的な空間、他者に浸食されない空間を持つということが、精神衛生上不可欠のように思えるのだ。
またこの空間を独自で更新し、アプデを続けること、その技術に磨きをかけることも同じくらい重要であろう。
器をもつ、器を広げる、器を保つ。
これが人間の心にとってどれほど大切なことか。
どれほど幸福なことか。
この度の東京遠征で、骨身に染みた。

巨大な心という荷を抱え。

「国シリーズ」をプレイして下さる諸兄姉の中には、東京都在住の方もあろう。
凄い。
かつて札幌生まれの先輩が言っていた。
「名古屋、大阪、福岡、東京。全部働いたことあるけど、東京だけはヤバいね。逃げ出したもん。ていうか、たぶん、押し出された」
やはり東京は別格なのである。我が輩も大阪梅田近辺に二年住んだが、比べても東京はエグい。
そりゃこんな環境で日々過ごしてたら独自進化もするわ、と頷けるくらい厳しい環境にある。
才能が東京に集まるのではない。東京という魔境が才能を生むのだ――そんな風にさえ思えた。東京こそ、虚構というディメンションが最も発達する場所なのだろう。
東京都在住の方々。いらっしゃいましたら、お疲れ様でございます。
我が輩は西の果てで、空間を作って参ります。
皆様方の御心をくつろげる、一時の休憩所にでもなれば幸いと思います。

東京在住でなくとも、㎣空間に苦しさを覚える方々。
何故こんなに苦しいのか。何故自分ばかりがこんなに苦しいのかと疑問に思われる方々よ。
貴方はきっと、人より心が巨大なのだ。心が強いのだ。繊細でありながら、豊かなのだ。
そのために、他者以上に空間を求めてしまうのだ。
お疲れ様でございます。
人より大きな心を持つと、苦労は多いものですね。
そういう心を幾らかくつろげる空間を、これからも作り続けていく所存ですので、良ければお使いくださいませ。

我が輩はこれからも我が輩なりの空間を作り続けてまいりまさ。

“ハルカの国 創作の記その11” への4件の返信

  1. カズキ様
    ハルカの国の製作おつかれさまです。
    ここはこうしてほしいなと思っていたためブログのコメントを失礼します。「漢字が難しく読みづらいから難しい漢字にふりがなをつけてほしい」「スペースキーを押して文章を読み進めたい」「マウスホイールの文字送りの高速化」「オートセーブ」の三点を検討していただけないでしょうか。

    1. この度はハルカの国を遊んで頂き、ありがとうございます。
      また貴重なご意見、感謝いたします。
      難読漢字へのふりがなの件、次回から気をつけて製作していきます。
      スペースキー、マウスホイールの速度、オートセーブに関しまして、現段階では改善を確約出来ませんが、取り組んで参りたいと思います。

      これからもよろしくお願い致します。

      1. こちらこそいつも楽しい物語をありがとうございます。
        特に今回ハルカの国は歴史が舞台で読みづらい漢字が多く「読み仮名」をふってくれたらストレスなく読めると思っていました。あと「方言」は何を話してるのかわからないものもあるので文字送りの場所などに標準語を書いてもらえると助かるなと思いました。こちらも検討していただけると幸いです。

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