11本目 誰でもできる三幕構成術その5

 プロットポイント2

 神は試練を耐えることのできる者に与える。

 聖書の一節なのかどうかは知らないが、そういう言葉を聞いたことがある。

 借金と同じだ。銀行は返済能力のある者に、返済できるだけの額しか与えない。

 プロットポイント1で変身をとげ、第2幕では大いに活躍を遂げた主人公。力をつけ、名声さえ手に入れているかもしれない。彼は、明らかに、物語の当初より成長を遂げ、強力な存在になった。

 もう一つ大切なことに、観客もまた物語の当初より成長している。物語への理解、主人公への共感は増し、主人公が大切なものは観客にとっても大切なものとなった。

 だからこそ、真の試練が彼を襲うのだ。

 プロットポイント2~喪失と本当の変化~

 ここでは二つの事がおきる。

 一つは「喪失」。もう一つは「本当の変身」。

 喪失は読んで字の如く、主人公は全てを失う。

「キリンの国」において圭介は親友のキリンと別れ、一人にもどる。楽しかった日々は遠く背後に去り、目の前には味気ないかつての日々。わ心を分かち合い、苦楽をともにした、自分の半身はもういない。

 スパイダーマンでは何より大切だったMJ(ヒロインの女の子)が攫われ、最大のピンチに晒される。

 偽りの変身で得た全ては失われる。それらは仮初めの力で得たものであり、幸運としてもたらされたものだからだ。与えられたものは奪われる。

 主人公は再び一人になる。状況は物語の最初より悪い。頼れる仲間も、無敵に思えた力も今はない。ただ己がいるのみ。

 これは個人的な意見かもしれないが、プロットポイント2では主人公を一人にするべきだ。孤独と無援、人生で味わうあの背骨が氷るような瞬間を演出する。

 人生でそういう瞬間はある。何も人は冷酷で、友情は信頼に値せず、愛情もまた誠実さを望むべくもない――とペシミストと気取っているわけではない。

 しかし、孤独の時はやってくる。何故なら世界は我輩や貴方のために存在するわけでもなく、友や恋人、家族でさえもそれぞれの人生があるからだ。

 国破れて山河あり

 人の世が争っていても自然はただ自然であるように。

 貴方の人生最悪な日は、誰かにとって日常でしかなく、ピクニック日和のいい天気かもしれない。

 誰か一人のために、自然も、世間も、人々も、その顔色を変えたりはしない。

 あるいは本当に辛い時でさえ、幸運にも良き理解者やパートナーにめぐまれ、手に手をとって乗り越えることができる人もいるかもしれない。

 一生を、孤独や絶望とは無縁のまま過ごす人も、いるかもしれない。

 しかしその幸運を描いてしまえば、救われない人もいるのではないか?

 世の中には運の悪い人もいる。普通の人が当たり前にできることを、当たり前にもっているものを、できなかったり、持っていなかったりする誰かはいるのだ。

 置いていくわけにはいかない。エンターテイメントとはそういうものだと我輩は考える。

 主人公は孤立無援

 かつてない圧力が、主人公を押し潰さんとしてかかる。

 だからこそ、主人公はもっとも尊い選択をする。

 決意するのだ。

 真の勇気は、真の困難のなかでこそ認められる。

 恐い物知らずな人間が夜の森に飛びこんでいくよりも。

 日頃は泣き虫で恐がりな少女が、迷子になって妹のために闇がたちこめる森に飛びこんでいく時にこそ、我々は勇気を見出す。

 勇気とは逆境をのりこえる魂の力だ。人間がそのひ弱な力のなかで、それでも選び取ることのできる、震えながら選び取ることのできる自由だ。

 真の決意によって選び取られた自由は、何よりも尊い。

 この「魂の自由」を選び取ったとき、プロットポイント2では二つ目の出来事がおこる。

 「真の変身」、本当のヒーローへの変身だ。

 主人公のベクトルは決まった。あとは戦うのみ。

 目的の達成が具現化された最後の敵にむかって、主人公は突きすすむ。

 注釈

 ここまで勇気だ自由だと書いておいてお茶を濁すようで恐縮なのだが、それでも書かずにおれないので書く。

 我輩は人がもしかしたら持ち合わせているかもしれない勇気や底力のようなものに憧れる。「夜と霧」のなかで示されたような、毒ガス室のなか最後まで人間の尊厳と、他者の幸せを願う心に憧れる。

 しかし本当のところ、勇気はでないかもしれないし、悲しみは悲しみのまま終ることだってあるように思う。そうした、どうしようもなかった時によりそってくれる何かが我輩は尊いように思う。

 仏教用語で「慈悲」という言葉がある。

 日常でも「慈悲の心」などと使うが、本来、慈悲とは「慈しみ」と「憐れみ」という別々の意味をもつ言葉だ。

 五木寛之の著書「他力」のなかで、この二字が解説されており、次のように例をあげられていた。

「慈悲」の「慈」は父親の愛である。罪を犯した息子がいたのなら、叱り、殴り、更正させ、立ち直らせ、導く愛。

「慈悲」の「悲」は母親の愛である。罪を犯した息子と涙をながし、息子が死ぬのなら自分も死に、地獄に落ちるのなら一緒におちてあげる、添い遂げる愛、孤独にしない愛。

 どちらも素晴らしいが、我輩は「悲」の心に強くひかれた。

 何故なら、この世にはやり直しのきかない過ちもあるし、どうしようもないことも沢山あるから。

 産業革命以来、人間の力は拡大している。克服し、可能にし、解決することが善とされてきた。「YES WE CAN」がアメリカだけでなく世界の、日本のエンターテイメントのなかでさえ最大の美徳とされた。漫画もアニメもポップソングも、「YES WE CAN」思想の子供たちであり、伝道者だ。

 それが悪いわけじゃない。しかしそれだけでは救えない未来が、いやもはや現実が目の前にあるのではないかと我輩はヒシヒシと感じる。

 上では人は孤独だと書いた。それをまた矛盾するようなことを書いて悪いが、我輩はどうしようもない時に寄り添ってくれる優しさに憧れる。

 一緒に負けてくれる誰かがいたら、どんなに嬉しいだろうと思う。

 全ての物語が勝利することで得られるハッピーエンドばかり書いていたら、救われない心もあるのじゃないか。我輩はそう思う。

 今、ブログで書いているのはあくまで方法論であるから、我輩の現実の取り組みとは多少異なることをご理解いただければ幸いだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。