ハルカの国・創作の記 その58

進捗

ネーム 470枚(先月+60)
シナリオ 約110000文字(先月+0)

七月は進まなかった。
言い訳しても仕方ないのでまっすぐに書く。
まず既存のシナリオをどう修正するかで大いに悩み、七月の前半はシナリオ修正に時間をとられた。大いに悩み時間を使っておきながら、修正が完了していないのは痛いところ。
ある程度方向性は見えたので、残りはシナリオの続きを書きながら解決策を探っていきたい。問題の箇所に立ち止まるばかりが解決の模索ではない。あえて先に進むことで後ろの問題が明らかになることはよくある。物語は連続した情報郡。そこ、と思ったところが、あっちで解決することはある。
七月の後半は東京での仕事に疲労困憊し、ネーム作業に時間をとれなかった。
この度の仕事を通じて、過去六年分を合わせた人数よりも多くの方々と知り合った。その方々と挨拶をし、会話を交わし、意見を伝え、レスポンスを受け取り、見解が異なればすり合わせる。
土壇場でおきた問題を時間内に解決しようと努め、解決しない問題があれば居残って話し合う。
飯を食い、ホテルに帰って一日の反省をして風呂に入れば、ぶっ倒れて行動不能。英語学習アプリの連続ログイン記録が、280日で止まってしまうほど疲れ果てた。
翌日も起床すれその日の準備があり、ようやく諸々終わってネームを描き始めても二時間とれるかとれないか。
思っていた三倍くらい多忙で、読みが甘うございました。
また原因不明の咳が止まらず、体調が万全でなかったのもネーム作業の足を引っ張った。
東京遠征。色々と計算通りにはいかず、ネームは予定していた三分の一ほどしか進まなかった。
反省している。
実は八月も東京出張がある。次回は今回の反省をいかし、スケジュールをしっかり組みたい。

東京タワー

忙しい中でもロケハンだけはしてきた。
東京タワーが竣工したのは1958年の年末。春秋編が始まる1960年のおよそ一年前のこと。
この東京タワーが屹立した東京を一つの国、一つの時代としてとらえ昭和編は始まっていく。
言うなれば昭和編で描かれる人間の国の中心である。
そこに2023年を生きる我輩の足で立とうと思い、外気温が40度にせまる中出かけた。
外階段およそ600段をえっちらおっちらのぼり、最上段の展望台にも登りつめた。
そうして見上げたのは、東京タワーより明らかに高い森ビル。東京タワーの展望台から見上げるスカイスクレーパーというのも、時代の感がありなかなか趣があった。
1960年代、東京タワーだった東京は、2023年、東京タワーではなくなったのだ。
展望台から森ビルを見上げていても仕方ないのでそちらには背中を向け、眼下にひろがる東京を眺めてもみた。写真もとった。
犇めくビル群の壮観な様に圧倒されつつ、それが我輩には過去の墓にも見えた。
この風景の中にはたどり着けなかった人。いなくなった人々。ここにはいない人々を捨象した東京――そんな穿った見方をしてまうのが、今の我輩である。
時代というものは人を捨象するものだ。時代はその進歩の中で、全ての人々をこの風景の中へと連れてきたわけではない。いなくなった人々はいる。また、これからいなくなる人もいる。
過去にいなくなった人々に思いをはせ、これからいなくなる人々のことも思う。今が歴史の到達ではない。これからもまた時代は進み、人々は代謝され消えていく。そこに悲劇を感じるほどロマンティストではないが、代謝の速度があがり捨象される回数が増えたことに眩暈は覚える。
明治の奥深く、はるか昔から人々はいなくなってきた。誰かの居場所がなくなり、居場所のなくなった人々が時代に振り落とされ消えていくのは自然な風景描写だろう。ただ時代はその速度をあげ、以前より多くの人々を捨象していく。
東京タワー見学の帰り、日本橋にもよって焼夷弾の跡や、関東大震災の跡を眺めてもみた。
過去の傷跡から激動の時代が偲ばれるが、偲ぶ現代が平和で安定した時代ということもない。
我輩たちが生きる現代は、この橋にどんな傷跡を残すだろうか。分かりやすい傷跡は残せないまま、言葉にならない激動を生きて、気づけば時代に振り落とされていたということもあるだろう。
自分たちの「生きる」を言葉に出来ないままいなくなっていく。捨象されていく自分たちを言葉で言い表せない。そうした言葉にならない声が叫びのようにこだまするのまた東京だろうかと、やっぱりロマンティストでおセンチな我輩は思うのでありました。
これからいなくなる私たちへ。
鎮魂の物語を、我輩は描きたい。

ゲロほど疲れているので、この度はこのへんで。

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