ハルカの国 創作の記 その70

進捗

執筆のために筑豊炭田を旅した。これで二回目、この度は7泊8日と長くとった。石炭を掘った場所をめぐり、石炭を運んだ川をたどり、石炭を積み込んだ港を山の上から見下ろした。時間をかけて巡れたので急ぐこともなく良かった。おかげですっかり日焼けした。

これはロケハンの旅ではない。我輩の近代を補完するために巡った旅だ。近代――時間でみれば僅かな期間だが、そのわずかな時間で黒ダイヤとも言われた石炭を強烈に掘り、強烈に消費し、鉄を焼いた。鉄鋼は産業の米という時代である。20世紀、鋼鉄の保有量がその国の国力だった。日本の鉄を焼いた石炭の半分は、筑豊から掘り出されたものである。

我輩の父方は炭住をわたる物売りだったし、母方は瀬戸内海の塩焼きで、塩を焼くのには筑豊の五平太――石炭が使われた。
つまり我輩も、石炭の周囲にわいた歴史の末端。筑豊には縁がある。
石炭を運んだ河川、遠賀などを土手沿いに歩くと、己の歴史の血管を辿るような気もした。

己に由来のある物語を書こうとしているのではなく、書いていると由来に寄っていくのだ。何故かと言えば、物語を書き続けていると自分一人の趣味趣向というものは早晩尽きる。それでも書くものを求めると、やがて昔に聞いた祖父母の思い出話や、親戚たちが幼い我輩の頭上で交わしていた濃い方言の語りの中を探すようになる。自由意志の通じない、生まれ、というものに辿り着くのだ。
その行程を経て、我輩は遠賀の土手をぷらぷら歩いた。

筑豊ゆかりの作家のエッセイのなかで、三井三池争議を戦った一人の炭鉱夫の語りがでてくる。
「わたしの家は、この百二十年間、ずーっとこの三池で働いてきたとですけん」
これに作家は、どう振り返っても、彼らの歴史に百年以上の時間が流れているとは考えられず、そこを疑問に思い尋ねると、
「昨日も数えてみたばかりですけん」
と間違いないことを主張する。そうして指折りながら、死んだ親父が何十年、死んだ母が何十年、この自分が何十年、死んだ妻が十何年、息子が十何年、と数える。
そうしてから、
「間違いなかです。やっぱり、百二十年でした」
と疑いが晴れたことにほっとした顔をあげる。
この炭鉱夫にとっての時間とは、彼らがかけてきた命の総量なのだ。

時のなかで、重複することのない生命。
束にしてみれば一千年、二千年にもなる生活感情と営みは、生活史という言葉では片付けられない迫力がある。ここを無視してはどんな歴史も成り立たない根源を我輩は感じる。
昔語りとして、酔いにまかせた方言の嵐として、幼い我輩を吹き抜けていった生活感情たちも、筑豊よりわいて歩いた日々は一千年をこえる。
この質量こそは、我輩がもっている資源のなかで最大のものだ。これをテコとして物語を書きたい。自分の中の最も大きな物として利用したい。
自分以上のものを頼み、利用しないことには、進めないところまできている気がする。

なんでもかんでも利用して、とにかく書き進めております。

叶わないみすずの夢

先日、みすずの国のリメイクを発表出来た。作り始めた当初は、ビジュアルやBGMの外注であったり、UIの規格変更であったりと、手間が重なり完成する予感さえしなかった。いざゲームが完成すると今度はSteamの登録、終わればゲーム本体の登録、英語で説明をよこせと英語で帰ってくるレビュー、翻訳しても意味が分からない画像登録の説明――よく乗り切ったと我ながら思う。
英語や簡体字の翻訳がないと伸びないという話だが、まずは一つ、前進を刻みたい。
我輩は創作より他のモチベが低い。あまり大きく頑張ろうとすると、挫折してしまう。
よくぞやりきったと、一区切りした今を褒めている。

十年前の作品をあらためて眺めると、他人の作品のようにも思えるし、やはり自分の作品だとも思う。
昔からひねくれていたのだなと思ったのは、みすずの夢を、「立派なお医者さん」なんて表していたことだ。
立派な、と枕につく夢ほど空虚な夢もない。立派な、なんてものは他人の価値だ。社会道徳の価値、外部に照合させればよく輝くという見てくれの良いもの。
そんな夢を叶えることなど、運の悪い少女に出来るわけがない。運の悪い人間は、自分の人生感情に呪われながら、なかば復讐心のような気持ちを募らせ生きる他ないのだ。運良く転ばない人生は、本人の怒りこそがリアリティ。立派な社会道徳などくそくらえ、そんなものをたてに何か言ってきてみろぶん殴ってやる、というところで生きていく。
そういう場所へ、みすずという少女を引きずりおろした十年前の己に、怨念めいたものを感じた。
なにより今も変わっていない自分を怨霊のようにも思った。

怨霊と言って、ルサンチマンを募らせているわけではない。我輩は、成功や才能というものに魅力を感じないだけだ。成功や才能が転がり込めば、どんな輩でも何者かのように見えてしまう。成功や才能は本物を見分けるふるいにはならない。
成功や才能を物語としておってみても虚しい。ただ感情の満足が得られるだけだ。ありもしない虚構によって。
物語内の成功なんてしょうもない、物語のなかで輝く才能なんて下らない。
そういうひねくれた感覚は十年前からあったのだなと、この度のリメイクで再発見した。

物語のなかくらい良い思いをしたい、そういう気持ちも分かる。
が、我輩はむしろ、物語のなかだからこそ、自分の人生では避けて通りたくなるような、本物の迫力への接近を体験してみたい。
ありきたりな、我輩たちとよく似る並の人間の、ふつうの心が、営みの線上にある本当の冬と対面した時、どうなるか。我輩の好奇心はそこにある。