進捗
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
2026年の抱負を述べたい。
ずばり、年末での春秋編発表。これに尽きる。逆に言うと2026年のStudio・Hommageは、これ以外に予定はない。春秋編以外の事は何もしない。何故なら、全資本を注入して間に合うか、間に合わないかという瀬戸際にあるからだ。
去年末にスケジュールをたててみた。リメイクしたみすずの国の工程を判断材料とし、予定している作業量を一日の仕事量で割ると、ざっとした目処が立つ。
1月 シナリオ見直し。
2~3月 ゲーム素材の仮制作。基本立ち絵、スチルラフ(ネームからの転用)、背景、BGM、SE準備。
4~9月 スクリプト作業。ゲーム仮組み。一日5000~7000文字をスクリプト化。
10~12月 素材本制作、ブラッシュアップ。
ざっとだが、このような予定が立った。
作業日は週五を予定していて、月の稼働は平均22で計算している。週2日の非作業日は休みというわけでなく、各種作業の見直しにとっている。
作業していると必ず疑問や不安が募って手が止まる。これを「土日に見直すから今はとにかくやり切ろう」と言い聞かせてやり通す。必ず手は止まるので、手を止める日をあらかじめ設け、メンテナンスの日にあてているのだ。これは昨年からの習慣で、よく機能しているため持続したい。
前回ブログでも話した通り、速く走るためではなく、走り続け遠くに行くための予定を組んでいる。我輩にとっての速度は総走行距離/人生であり、時折スプリントを見せることではない。
一ヶ月くらいなら休みなしでも作業出来ようが、結局、サビついて後が続かない。予定通りに作業が進まないと心的ストレスが大きく、年間を通した効率性では劣るので、倒れるまで全力を出すというやり方は採用しない。
長期的な目標を達成するには瞬発的な馬力ではなく、計算出来る再現性、予定が立つスケジューリング能力が大切なのだ。
その力は昨年培ったと自負しているので、鍛えた予定遂行能力を信じて、この一年、頑張り通したい。
即売会には随時参加予定ではあるので、そちらもよろしく。
お断り
一つ、断らせて頂きたい。
昨年末、ハルカの国を全編見直した。春秋編までの流れを確認するためだが、見直してみると、それぞれ新しい感触を覚えた。
とりわけ印象的だったのが決戦編で、途中までの出来が思っていたよりもずっと良く感じられた。決戦編はある表現を試してみたがあまり機能しなかったと思えた作品だったのが、作者自身の感覚とは言え表現意図を感じられる場面が多く、決戦編への感想を一新させられた。
一方、途中からの展開が納得行かず、本当に自分が作ったのかと首を傾げるような描写が続いた。
端的に言ってしまえば雑だと感じた。
ポイントで言うと、猪達との戦い。あそこまでは繊細かつ丁寧に物語や人物心理を運んでおり、その手腕には我ながら良くやったなと感心もした。しかし猪との戦いから急に動きが激しくなり――演出で話を盛り上げようとしている感じがして、今の我輩には肌に合わなかった。
それ以後も、ラストシーンまで、へんに盛り上げようとしているというか、無理に感動させようとしているというか――作品が持っていないものを引き出そうとして、力んでいる感があり、それがどうにも今の我輩には空回りして響かなかった。
具体的に言うと、ユキカゼの反応。リアクションが大きすぎて、猪戦前までの星霜編を経た静けさを維持できていない気がした。
もちろん、命のやり取りをする場面であるから、感情的にもなるし、叫びもするし、苦痛に顔を歪めもしよう。
しかしその手前までは、どれほど追い詰められていても根底には静まりを感じられた。それが猪戦以後、やや手放してしまっている感があったのだ。以前のユキカゼに戻っている感があり、星霜編を経た変化、歴史の積み重ねを感じづらかった。
何故そう感じられたのか、推測してみると原因が浮かんでくる。
当時、決戦編は最新作だった。そこで我輩は感動させたい、という欲求と言うより、感動してもらわなければならない、という強迫観念に捕らわれていたのではないだろうか。
星霜編に勝るものを提供しなければならない。そういう作品本質とは別の目的に駆られていたのではないかと、推測された。
最新作はどうしてもその時の評価に直結する。ここで見限られたらという恐怖がある。そのためにあの静かなものを維持できなかったのではないか。最後、盛り上げる〝必要〟を感じてしまったのではないか。
決戦編で表現しようとしたものを作者自身が信じきれていなかったのじゃないか、と振り返ってみると思えた。
感動しない、泣けない作品に価値があるのか。きっとある。そう思って書き始めた。しかし最後に、我輩は臆したのだ。たぶん。
作者の目的によってユキカゼの静けさが歪められている。これはハルカの国を最前線で楽しむ読者我輩として、どうしても受け入れがたい。
その当時、苦しみ創作をした過去我輩への敬意はある。何より、あれを決戦編として受け入れてくれた皆様の読書体験に背きたくはない。
たいへん悩んだが、それでも、我輩はユキカゼという人物への欺瞞は受け入れ難い。
だから断りを入れたい。
まことに申し訳ありませんが、春秋編の発表にあわせ、決戦編の最後を調整するかもしれません。
しないかもしれない。一度の読書体験を絶対視しないために、春秋編発表前にもう一度読み通してみる。そこで相変わらず受け入れられなかったら、調整に踏み切りたい。
大きくは変えない。出来事やシーンの内容が変わることはない。ただユキカゼの立ち絵の表情のいくつか、心理描写のいくつかが、今のところ〝作者の演出〟に見えて受け入れられない。
ほとんどの読者には「何が変わった?」という程度のものかもしれない。また我輩が創作の渦中にあり、神経過敏になっている可能性も大いにある。冷静になったところで判断すれば変えるほどのものはなく、結局、何もしないかもしれない。
それでもここで断らせて頂いたのは、調整した際はほんの思いつきではなく、一年かけて検討した結果であることを、皆様に御理解して頂きたいからだ。
つまり我輩のエクスキューズであり、依然、我輩は臆病だということだ。
申し訳ない。しかし今の我輩には、いくつかの表現が耐えられない。調整の可能性を手にしていなければ前に進めない。
御理解頂ければ、幸いです。
感動にかわるもの
決戦編の時で既に、我輩はいわゆる感動を信じていなかった様に思う。泣ける、を価値あることだとは感じなくなっていたはずだ。
しかし我輩は感動にかわるもの、泣けるを越えていくものを、〝静けさ〟として感じながらも掴みきれず、不確かなそこへ物語を託すことが出来なかったようだ。
感動もなく、泣きもなく、静かなまま終える勇気が出なかったようなのだ。
振り返った我輩が勝手なことばかり言って申し訳ないけれど、一読者として眺めてみて、表現を信じ切ることが出来なかった作者の自信喪失、既存価値への阿りを感じた。
春秋編のシナリオを書き終えた今、我輩には言葉がある。
我輩は感動を目指さない。我輩が物語に求めるのは祝福と、その先にある鎮痛だ。それは泣けるような感情を大きく揺さぶるものではない。魂が静まっていく心地だ。
それがここまで生きた我輩には最も必要なものだ。故に、見つけられる可能性があるものなのだ。人は必要なものをこそ見つけるものだから。
感動ではなく鎮痛。言葉遊びだろうが、言葉は指針になる。次作こそ見つけたものを信じきりたいが、果たしてどうだろうか。自信はあるが、結果は分からない。
ただ毎日を積み重ね、完成にたどり着くよう試みてはいる。
