ハルカの国・創作の記 その56

進捗報告

ネーム 370枚
シナリオ 約35000文字

春秋編の進捗状況は上記のほど。
今後、進捗状況は視覚的に分かりやすく、前回からの比較も理解しやすい様、上のようは記載をしばらく続けていきたい。

春秋編は1960年代を舞台にする「春の時代」、1970年代前半を舞台とする「夏の時代」、1970年代後半を舞台とする「秋の時代」、これら三つの時代によって描かれる。
現状、春の時代までのネームが終わった。今月はネームをシナリオへと書き出し、オブザーバーへの提出までこぎつけたい。
それぞれの時代区分で物語にオチがある。端的に言えば、春秋編は三つの物語から成り立っている。もちろん舞台である「愛宕」は共通しているし、登場人物も一貫している。ただ舞台である愛宕も人も、時代の流れのなかで移り変わる。それぞれの時代に登場した人々が次の時代ではどうなっているのか。一つ一つの物語とは別に、舞台や人の変遷も楽しんで貰えればと思っている。
昭和編は「ハルカの国」の中で最も大きな時間区分を扱う。作中の中で、二十年近い時間が流れる。この二十年という変化を、同一作品の中でいかに表現していくか。色々と試みているので、春秋編を遊ばれる皆様にも「二十年」という時を体感して頂ければと思う。いや、物語の最後を締めくくる「二十年」を通して、これまで流れ去った一世紀という時代を改めて感じて頂きたい。明治の初めから始まったこの物語、締めくくる時には皆様の中で流れた時というものを鮮やかに蘇らせてみせたい。

鎌倉殿の13人

諸事情でNHKオンデマンドから消えそうな「鎌倉殿の13人」を急いで視聴。その素晴らしさに、終始唸りとおした。近頃見た作品の中では群を抜いて優れている。
三谷幸喜作品が好きだから、放送当時から目はつけていた。ただリアルタイム視聴がまどろっこしいので、終わってしまってから一挙の視聴を予定していた。それが今回、良いやら悪いやら、例の事件で配信コンテンツから消えそうだというからこれを機会に視聴した。
三谷幸喜、やはり凄い。
前回作品「真田丸」も面白かったが、今回の「鎌倉殿の13人」は正統に進化している。多くの重要な要素において明らかに出来が良い。前作「真田丸」で我輩が短所が、全て克服されている。あまりに見事にしっかりピンポイントで改善されているので、やはり「真田丸」で我輩が感じた短所は短所だったのだと答え合わせをしてもらった気にさえなった。
そこで今回は我輩が「真田丸」に見つけ、「鎌倉殿の13人」で解決されたと感じた短所を、その見事な解決方法と合わせて列挙してみたい。

1、 昌幸と頼朝

これは「真田丸」の視聴時において欠点と感じたわけでなく、「鎌倉殿」の視聴時に「もし真田丸のままだったら欠点になる」と感じたものだ。
「鎌倉殿」と「真田丸」、主要人物の配置が似ている。結果として物語構造も似るだろうなとすぐに予測できた。
メンターと主人公の関係。物語の中心に据えられているこの二者関係が似ているどころか、そのままの構造を持ち込まれている。
「真田丸」で言うなら父・真田昌幸と息子・真田幸村。「鎌倉殿」に移れば義兄・源頼朝と義弟・北条義時。
物語前半ではメンターである年長者が、未熟な主人公を導き、教える。
この同一の構造が物語に持ち込まれたために、我輩はメンターのカリスマ、人物としての魅力が前回と同じままだとマンネリになると危惧した。
また種類として違うものを提供出来ても、魅力の程度が以前より増していないと「前回作品の方が良かった」という批判の対象になるなとも感じた。
前回作品のメンター役、真田昌幸のカリスマ、魅力をどう超えてくるか。彼と被ってマンネリ化しないように、彼を超えてさらに魅力的な人物になるように、この度はどんな人物は持ってくるのか。非情に難易度の高い挑戦だと感じた。
またその役を担う役者が、大泉洋。芸人(?)として好きだが、大泉洋にカリスマが勤まるのか。不安が尽きなかった。
しかし、源頼朝、素晴らしい。
まず完全に前作とは人物造形が違った。
草刈正雄演じる真田昌幸は老獪で胆力があり、また頭も切れる偉大な父として描かれていた。我輩も大好きで彼の活躍をおうために「真田丸」を鑑賞した。
大変魅力的なキャラクターだったが、同時に、普通にカッコイイキャラクターと言うことも出来た。普通に、当然、魅力あるキャラクター。単純に能力が優れているし、性格面はずる賢いにしても一族を思う心であったりと美徳も多い。
誰もが思いつくキャラクターとは思わないが、誰もが好きになれる魅力的なキャラクターだったと思う。
かえって「鎌倉殿」に登場した、大泉洋演じる源頼朝。
小心者で猜疑心が強く、神経質で臆病者。我儘で傲慢かつ、都人として気位が高く、田舎者を下に見ている。おおよそ魅力としては捉えがたい資質を一通り揃える。何より、アンチヒーローを目指すにしても臆病という彼一番の資質がそれさえ叶えさせない。善であれ悪であれ、ヒーローとは周りが臆するところを勇猛果敢に前進する姿によってこそ成る。なのに頼朝と言えば、周りにお膳立てされてもなお慎重で、失敗の可能性を思ってはびくびくと怯える。いざ窮地に陥れば苛立ちを露わにして周囲に当たり散らす。ヒーローとは真逆の態度で周囲を呆れさせることもしばしば。
こなん頼朝であるから、単純な小物として見えてしまいそうなものだが、どういうわけそうでもない。
彼は我々が知っている既存の美徳、魅力とは程遠い人間であるのに、どこかで迫力がある。その迫力が何で担保されているのか掴みづらい。よくわからない凄みがある。
この根拠の分かり辛い凄み。
これこそが頼朝の魅力であり、ひいては「鎌倉殿」という作品そのものの魅力にもなっている。
頼朝という複雑な人間。物語のヒーロー然としていない、俗物的で、もしかすると我々の周囲にも発見できそうな人物。
このありきたりのような人物を、どういうわけか迫力を持って描けていることの凄さ。これにまず我輩は感服した。
頼朝の魅力は、彼が仲間内を粛清し始める頃、じわじわと鎌首をもたげ、次第に我々の目に明らかになっていく。彼の保身に対する徹底ぶり、冷酷無比な手腕、自らが生き残るという一点にかけて凄まじい情熱、残酷で容赦のなさ。
言うなれば生存本能がなんら綺麗ごとを纏わず、暗い塊としてぬらりとして現れ出るその様。
この「生きようとする人間力」に、我輩は強烈な迫力を感じた。
天才や英雄ではない、我々と同じ卑しい心を持った人間の、己が生き残ろうとして生きる様。その卑劣さ、残忍さ。そこに我輩はリアリティを感じ、フィクションに溢れている既存の魅力とはまったく違った、新しく生々しい、現代にも響いてくるアクチュアルのある魅力を感じた。
この魅力をもって、源頼朝は真田昌幸とはまったく異なり、かつ、真田昌幸にならび、現代性を持っているという意味では超えてくる人物として物語の中心に座っていた。
源頼朝。
この人物によって、前回からのマンネリと、前作の超越を見事に果たしていたと我輩は思う。

女の物語

次は前作「真田丸」において、明確に欠点だと感じた点。
女性が馬鹿か善人しか登場しない。これは大きな欠点だと感じた。
馬鹿、と言ってしまうと言葉が悪い。詳しく言うならば、女性が馬鹿なのではなく、物語としての女性の描き方が「おツムの弱い善人」としてしか描いていない。一面的で、短絡的な視野しかなく、善人らしく直情的で、正論をならべては状況にあっていない説教を挟んでくる。
主要人物である茶々でさえ薄っぺらい。天真爛漫でありながら深い闇を抱えた二面性があると台詞描写されるが、台詞描写されているだけで実態に大した深みはない。ただ我儘で幸村を振り回す、物語を動かすための装置でしかなかった。
「真田丸」は徹頭徹尾男の物語で、女は男社会の被害者であったり、男をつまずかせる気まぐれな石ころという程度。明らかに男たちと比べ魅力が薄く、そもそも彼女たちを掘り下げる描写機会も少なかった。
何より我輩が「真田丸」の女性描写にがっかりしたのは、彼女達に「悪」の心がないこと。私利のために企み、計画し、男たちを利用し、邪魔者を廃絶しようとする、主体的な悪がなかった。悪を持ち、悪を成して世を変えていくのは男ばかり。女たちは男たちの能動性にリアクションをとるばかり。
本当につまらない女性描写だと感じたし、あまりの魅力のなさに見ていてイライラしたものだ。こんな無礼な女性像しか描けないなら、女性を登場させない方がまだマシだとさえ感じた。
女性がまったく恐ろしくない。恐ろしくない女に一体何の魅力がある? 女というのは腹黒く、悪い生き物だろう。男を駒に使って力へ接近していく姿こそ彼女達の本然だろう。
善人の女の一体どこにドラマがある。善人の女なんてものは、男の妄想に過ぎない。そんな都合のよい聖母なんていない。女は強烈でタフで恐ろしい生き物なのだ。彼女達の主体的「悪」にこそ、彼女達のドラマがあり、魅力がある。女は、何かを手に入れんとする願望にギラギラ輝いてこそ。
上記のような女性像を持つ我輩にとって、「真田丸」に登場した女性たちは男が描いた扱い易い女性キャラクターとしてしか映らず、おしなべてつまらないものだった。
それが「鎌倉殿」では完璧に改善されていたから驚いた。
単純な話として、「鎌倉殿」では女性のアクションが明らかに多くなっている。「鎌倉殿」に登場する女たちは何事か企み、画策し、夫や息子をたきつけ、己が願望を叶えようとする。まったく善人ではなく、夫や息子たちが尻込みするほど残酷にもなり、生き残るための悪を成そうとする。
その姿の、なんと魅力的なことだろう。
彼女達の目の色が変わる瞬間、憎しみや嫉妬、怒りでギラギラと燃える瞳を見ては、これはただじゃ済まされないぞ、なんたって女が怒ったのだからな、と期待に胸を躍らせたものだ。
「鎌倉殿」で三谷幸喜が描いた女性像。それがあまりに我輩の理想に近かったからというのもあろうが、この度の作品で登場した彼女達は前作と比べて何方様も桁違いに魅力的に思え、登場シーンを楽しめた。前作は出てくるだけでイライラしていたのだから、大きな違いである。
女は悪くてなんぼ。恐ろしくてなんぼ。怒ってなんぼ。たしか高橋留美子がそんなことを言っていたが、我輩もまったく同感。
良い女は善人にあらず。悪い女が魅力的な良い女なのだ。

二代目の魅力

散々語った前作「真田丸」だが、実は全編通して視聴していない。最終話の手前で見飽きて視聴をやめてしまった。
年上のカリスマメンターと、年下の主人公の師弟関係があることは前に記した。このカリスマメンターがとにかく魅力的で彼をおいかけるのは楽しい。が、反面、彼が物語から去ると、途端に物語が侘しくなる。
「真田丸」はメンターのカリスマが物語より消えた後、その喪失を克服する事が出来なかった。メンター去りし後の二代目、主人公が魅力的ではなかったのだ。
「真田丸」において真田昌幸はまわりを引っ張り、振りまわし、引きつれていく破天荒な魅力を持つ人物だった。その父に仕える幸村は、才覚に光るものがあるにしても常識人で、破天荒という部類の人間ではなかった。
父昌幸が去った後、幸村がカメラの中心に座ったが、明らかに画の魅力が落ちた。幸村は昌幸が存命のころのままの幸村で、偉大な父の代わりなることはなかった。
昌幸が前線を退いてから物語に躍動感がなくなったと思いつつ視聴を続け、結局、昌幸の不在に感じる物足りなさが最後まで尾を引き最終話を目の前にして飽きた。
最終話の数話前から惰性で見ていたのだが、魅力ある人物も尽き、最終シーンでカメラがおう幸村が魅力がないために耐えられなかった。
この二代目における魅力の欠落が、「鎌倉殿」では解消されている。
「鎌倉殿」でも小栗旬演じる北条泰時は、物語の序盤、魅力がなかった。頼朝にふりまわされ、頼朝の非道さに善人らしいリアクションをとるばかりの、有能な普通の苦労人という程度。
頼朝が死んだら物語つまらなくなるなあ、と最初の頃は思ったもの。
しかし次第に、頼朝の存命中から、義時の片鱗は見え始める。頼朝の命によってかつての仲間を粛正していくに従い、だんだんと思考が頼朝と似てくる。
明るく朗らかだった男の顔に、だんだんと影がさすようになり、その影が色濃くになるにつれ義時は狼狽えない太い男となっていく。
義時は頼朝から心をも学び、頼朝と同じく黒い迫力を備えていくのだ。
頼朝亡きあと、誰よりも頼朝のようになって、かつての自分が嫌った冷酷な采配をふるっていく。
笑い方、喋り方、目つき。全てがかつての善良な苦労人から変わってしまう。邪魔する者を容赦なく廃絶していく覇道の道をひたすすむ。
その闇へ闇へと力強く歩んでいく姿が、初代メンターと比べて遜色ないほど魅力的で、最後まで目が離せなかった。
上に記した女性像の話ではないが、やはり悪を成していく人間というのは魅力的だ。この覇道を進めば最後どなることか。気になって視聴をやめることが出来なかった。
人間、善人の行く末など気にならないものなのだ。
初代、頼朝の暗い迫力、黒い魅力。それをしっかりと引き継いだ二代目の義時。その最期にいたるまで、見事なドラマだった。

この他にも多くの優れた点が散見された。
たとえば瞳に映りこむハイライトの妙。人物が決意の瞬間や、運命の分かれ道に、自然な形で目に光りが入る。これが嫌らしくない程度の演出で、実に巧みだった。テレビドラマに画としての美しさや巧妙など望むべくもないと思っているが、「鎌倉殿」にはいくつも美しく巧みと思える画があった。
また頼朝の人物造詣である、既存の魅力から逸脱した新たな何かを模索した姿勢は、この作品をエンターテイメントだけではない、文学性を帯びさせることに成功していたと思う。
北条義時の最後、つまり物語の最後は実に文学的だったと思う。文学とは我輩にとっては〝穿つ姿勢〟であり、既存から抜け出し新たな何かを掘り起こそうとする挑戦にこそ見るもの。この穿とうする姿勢を、我輩は頼朝の人物像系や、ドラマの最後に感じた。

鎌倉殿の13人。
もしかすると近日動画視聴サービスからは消えるかもしれない。
本当に優れた作品なので、視聴が難しくなる前に、見逃されている方はどうぞご覧あれ。

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