雪子の国を終えて

道を歩いていると、よく蝉をみつけた。
腹を蟻にさらわれて、しずかに転がっている。
盆が過ぎ。
夏も終ろうとしていた。
8月16日。

そんな今日この頃、帰ってまいりました故郷山口。
やっぱいいね、故郷はさ。
老いた祖母あり、玉なしの犬あり、お化けのようなゴーヤあり。
焼き肉、お造りもいいけど、金時豆をチョコチョコつまむのもまた良しよね。

ありがとうございました

まず、礼を述べさせていただきたい。
夏コミにてブースに足を運んでいただいた方。買ってくれた方。遊んでくれた方、これから遊ぶ方。
本当にありがとうございました。
おかげさまで50部がはけまして、上々の成果でございます。
たっけー値段にかかわらず、すっと現われ、さっと買っていってくれた皆様方。
「待ってました」と告げてくれた皆様方。
何より嬉しかった、本当に。
また席を外していた折に訪ねていただいた方々には、まことに申し訳ありませんでした。
ただKAZUKIは大した顔面持ち合わせてないので、皆様の想像のなかでだけ生き続けた方が良いのかもしれない。
「このおっさんが?」となれば多少幻滅するものもあるだろうから。
冗談はさておき、本当にありがとうございました。
また既に通信販売への予約メールを寄せていただいた方、これからDL販売等を通じて購入を考えておられる方、ありがとうございます。
かけ値なしに言えるのは、皆様のおかげだということ。
好き放題している同人ノベルゲームではございますが、それでも誰かが見てくれるから完遂できる。
楽しみにしてる、待ってる、そんな言葉に引かれるようにして、頼るようにして支えられるようにして、どうにかこうにか終えることができました。
国シリーズは残り三つ。
東京オリンピックまでには無理そうだけど、五年以内には終らせたい。
まだ長い道のりですが、どうか今しばらく、おつき合い願えたらと思います。
通信販売については、ただいまどのような方法がもっともスムーズで皆さまに手間を取らせないか、思案中でございます。
二十日にはダウンロード販売もふくめて、通信販売の方法を掲載するつもりですので、もうしばしお待ちください。

雪子の国を終えて

前回と重複する内容だがそれでも言いたいのは、三年という月日が流れたということ。
長かった。
して相変わらず創作活動は辛かった。
とにかく雪子の国は作業量が滅茶苦茶だった。
第一に登場人物が多い。第二に季節が移り変わる。第三に学校、家、外出と場所が入れかわる。
かけ算なのだ。
人×季節×場所。
結果立ち絵は2000パターンをこえた。
スチルも難しいものが多かったし、量も多かった。
5月末。
一度心が折れた。
絵を描くのが心のそこから嫌になって、タブレットのペンを持てなくなった。魂が断固拒否しているのだ、絵をかくことを。
絵を描くのは嫌いじゃないが、すごく好きというわけでもない。
1日一時間程度落書きする分には楽しいが、1日8時間も絵を描いていると嫌になる。
突破して10時間絵を描いて深夜二時をまわり、未だノルマが終らない日などは布団に顔突っ込んで情けない声をあげていた。
スクリプトも会話の総数が8000回以上にのぼり、その一つ一つに立ち絵をつけていく作業は果てしなかった。
他に辛かった点として、キリンの国と違い、プレイしながら作業することが出来なかったこともあげられる。
キリンの国はワンシーンを組むたびにデバックをかけ、出来をチェックしながらすすめた。
上手くいくばかりではなかったが、それでも物語を味わえたし、楽しめてもいた。
しかし雪子の国は作業を分化して分類し、分業化してすすめていったので、ワンシーンごとに完成素材がそろっているということがなかった。
分業化は作業の効率化をすすめはしたが、極まってくると作業感が強まってきてモチベーションを保つのが難しかった。
今行っている作業の価値がわからない。達成感を得られない。
己の作品で、己が作った作業プロセスで思うのだから、大プロジェクトにおいてのモチベーション維持の困難さは相当なものだろう。
定期的にスクリプトを組んで、作った素材が物語のなかで息づいているのを確認する。
この過程はモチベーションを維持する上で重要だった。
フルマラソン、端からゴールを目指していては途方もなさすぎる。最終目的への道しるべとなる小ゴール、中間地点、そこを達成したことへのご褒美。
そういったモチベーション管理能力の大切さも思い知った。
それでも、辛くはあったが描きたかった風景がいくつかは描けた気はしている。
高村光太郎の詩に「寂しさは人の世の常、かなしさは魂の故郷」という一文がある。(記憶をたよりに書いたのでそのままでないかもしれない)
昨今、吾輩は「寂しいもの」や「かなしいもの」に強く惹かれる。
人とは哀しい風景のように思える。老いて小さくなっていく祖母や、夏草の繁茂した畑のあとや、寝ていることの多くなった犬もそう。
以前、吾輩はポジティブシンキングを心がけてきた。
夢は叶うと信じ、前向きになる言葉をかきあつめ、ネガティブな発言を躍起になって追い払っていた。
そうすることで確かに人生は明るくなったような気がするし、仕事や金銭面でもうまくいっていたように思う。
最後には報われると思うことで、頑張れる原動力にもなった。
けれどやがて疲れがでた。何より心地が悪かった。
失敗や敗北、喪失や劣化。老いや死や貧しさも、人生には存在する。
それらを締め出そうとしても徒労に終わるばかりだ。もしもそれらを人生から取り除くことができるというのなら、それは誤魔化しのある生き方だ。
吾輩は生きることに恐怖をつくりたくない。なにより誤魔化して生きたくない。
吾輩は二十歳の頃と比べたら記憶能力は落ちたし、体力もない。かなり悲しいことだが髪の毛も少なくなる傾向にある。
国シリーズはまったく当たらず、棒にも箸にもかからずに忘れられるかもしれない。
すっかり資金のなくなった吾輩はゲーム作りを続けられず、四十路を前にして職安にかよい、職場は年下先輩ばかりかもしれない。
吾妻ひでおの「失踪日記」や、花輪和一の「刑務所のなか」、つげ義春の放浪エッセイ漫画にやたらと惹かれたのは、もう一人の自分をそこに見つけるからだろう。
こんなヤクザな生き方をしているのだ、何もかもなくしてそこらでのたれ死ぬ可能性だって無きにしもあらず。
「いやだなー、なりたくないなー」とは思うけれど、可能性は零じゃない。
吾輩はそれらを否定しない。忌み嫌い恐怖することをしない。なるべくそうはなりたくないが、自分の人生のなかにそれらが潜んでいることは認める。
そうすることで、ようやく生きることの力がぬけ、恐怖でガチガチに震えていた頃には見えなかった美しさを発見できる。
吾輩はそれこそ「さみしさ」と「かなしさ」の風景のように思うのだ。
そういった風景のいくつかを、雪子の国では描けたと思う。そういってしまうと暗い陰鬱な絵のように思われるかもしれないが、そうではない。
逆にしなやかさのある、風景画のような人物たちを描けたのではないだろうか。
もしいくらかでも「しなやかな寂しさと悲しさ」を感じてもらえたなら、幸いです。

冬コミ参加します

今後の活動について。
とりあえず、昨日冬コミの申し込みを完了した。
何かしら新作を出すつもりである。申し込みのため仮として「むこうがわの礼節」シリーズ新作と申請したが、まだ決めかねている。
国シリーズの設定資料集とキリンの国の外伝として圭介のあれからを二時間程度のノベルゲームで作ろうかな、とも思案中。
圭介が人間の国に帰ったあと、どこへ行き、誰と会い、何をしたのか。美鈴の国くらいでやってみたくもある。
国シリーズ本編の新作は次回はだせない。体験版も恐らく無理だろう。シナリオが固まっていない。外伝をいくつか作りながら、本編をつめていきたい。
またファンティアを初めてみようか、とも考える。むこうがわの礼節や、国シリーズの外伝はそこで公開してみようかな、とも。
出来るならフリーでの作品発表も続けたい。むしろ資金がどうにかなりだしたらフリーに戻りたい。
国シリーズ、一人でも多くの方に体験してほしい。もしフリーにすることでそれが叶うなら、そうしたいと思うのだ。
ただ今はしばらく資金繰りの問題で本編のフリー公開は難しいと思われる。
冬コミは新作はまだ未定なので、何か「こんなのが見てみたい」というものがあれば参考にさせていただきます。