雪子の国人物評 その1

雪子の国、人物評

雪子の国初回パッケージ版通信販売。
めんどうな手順を踏んでまで注文してくださった方々には感謝の意がたえません。
また不慣れなことに皆様にはご迷惑をかけることも多かったようで、ご不便、ご迷惑をおかけしてしまった点、深くお詫び申し上げます。
日々、改善につとめてまいりますが、お手元に届いた品物に不良がありました場合はお手数ですがお知らせください。代替品、送らせていただきます。

いや、本当に。
感謝しております。
同時に感激もしております。
自分が作ったものを、誰かがお金を払って手にしてくれる。面倒な手続きをふんでまで、たのんでくれる。小説だけ書いていた頃は、あり得なかったことだ。投稿サイトにだしてみても、百人そこらが目を通してくれれば良いほうで、見向きもされなかった吾輩の作品が、ノベルゲームにしたことで待っていてくれる人々があらわれ、決して安くない金額を払ってまで遊んでくれるのだから。

凄い。奇跡、と立ち止まる度に思う。
2500円。
ぜんぜん、安くない。吾輩はかつて集金の仕事をしていたことがあり、数千円(確か1800円くらいだったと思う)払ってもらうのに相手先におしかけ、問答の末、玄関先で千円札二枚、投げられたことがある。それを拾っている時は「やっと帰れる」としか思わなかったが、帰ってコンビニ弁当食いながら「これが本気でやってることだったら嫌だなぁ」としみじみ思ったものだ。
当然の権利かもしれないが、押しかけて、投げつけられた金を拾わなければならないようなサービスはしたくないと思った。
同時に、「キリンの国つくってなかったら、泣いてたな俺」とも思った。
ノルマのある仕事においては、千円札一枚だって惜しい。頭だってほいほい下げる。杖で肩をつつかれ時は、生み育ててくれた両親に申し訳ない気持ちがして、とても見せられる姿じゃないなとも思ったが、やっぱり金は欲しいので「いやぁ」とわけのわからん笑い方をしていた。
逆に、カリスマ美容師と言われお洒落でイケイケなアンちゃんが、借金のかたに店舗にあるもの全部をトラックに詰め込まれ、足りない数万円をアシスタントの子から借りさせられ、最後にはもっていかれる休憩室の冷蔵庫を掃除させられて、「この度はありがとうございました」と頭を下げた姿も見た。
なにかわけのわからん方に話がすすみつつあるので戻すが、戻すまえに断っておくと、別に闇金の取り立てなんぞをしていたわけではない。不動産母体の介護業に雇われており、リース料と介護保険の一部負担金回収をしていただけだ。内容はライトなうしじま君みたいなことをしていたが、決してスジ者ではない。

言いたいのは、お金は尊いということ。
だから不思議にさえ思うほど感激してしまうのだ、注文メールが届くと。
これは同人作家の醍醐味なのかもしれない。自分で作ったものが、売れた。生産し、加工し、流通させたのだ。
六次産業の喜びが極まる。それが同人作家の生きる糧だろう。

さて、今回は前回「キリンの国」でもした人物評をしたためようと思う。雪子の国、クリア後の暇つぶし程度に見ていただければ幸いです。
ネタバレ含みますので、ご注意あれ。

★神崎ハルタ

キリンの国でいうところの圭介。観察対象(キリンや雪子)と比べ常識人であり、感情移入がしやすい作りを目指している。が、結局は葛藤をもっているので彼自身も物語になっていく。スカしているけど、暑苦しいところを隠し切れないというのは、みすず、圭介、ハルタ、全てのシリーズ主人公に共通する特質であるから、我輩の根幹に由来するものなのだろう。吾輩自身がそうかと問われれば違うので、そういう人物像に憧れているというのが正解だろう。プライドと慈愛をもった人物が吾輩の憧憬なのだと分析する。
外見やステータスに関しては、吾輩のコンプレックスが反映されているのではないだろうか?
背が高いことは物語と関係があるので必然的な設定なのだが、それを差し引いても我輩は長身のメンズを「カッコいい」と思っている。恐らくスラムダンクの影響だろう、カッコいい=体格が優れている、という刷り込みが吾輩にはある。
また我ながら古い感性だと思うのだが、長髪が似合う男性=カッコいい、も本能の部分に書き込まれている。キムタクとか反町、福山雅治あたりか。
高学歴で高偏差値であるのは、これは自覚があるが我輩もそうなりたかったからだ。頭良いと思われたい願望は止まない。自覚しているから御しやすい承認欲求ではあるが。
髪型は最初から三年後のイメチェンを見据えていたので、当初は「ちょっとやんちゃな高校生らしい感じ」をだそうと考えていた。それがヘアバンドというアンサーだった。高校生の頃、サッカー部の男子がやってて「洒落オツやなぁ」と思っていたのが蘇ったのである。
性格は「緩衝としての笑顔をつかう」という決め事以外は、自然体でかいた。だからこそ美鈴、圭介と似たのだと思う。特に美鈴と似ていると思うのだが、どうだろうか。
みすずの国の美鈴と、雪子の国のハルタをあわせてみたいと強く思う。何を喋るのか興味はあるが、何も喋らないかもしれない。あるいは、お互いに見抜かれる可能性を悟って、他の人以上に緩衝帯をもうけようとするか。自分と似ているから苦手、というのが落ち着く先として一番現実味がある。

★東雲雪子

苦労した話は繰り返しになるので割愛。
我輩なりのKAWAIIを提供しようと試行錯誤したが、結局、ホオズキの延長線にいる感じは否めなかった。妹感。
台詞まわしは慣れるまで苦労したが、慣れてからはむしろよく喋ってくれたように思う。
裏話であるが、自分のことを「雪子ちゃん」と呼ぶのは、疎開先で寂しさを紛らわすために癖づいたものだ。「〇〇ちゃんはいい子ね」「〇〇は可愛いね」と親をもつ子どもたちが褒められるのを見て、試しに自分で「雪子ちゃんはいいこね」と言ってみると嬉しかった。以来、セルフ承認を習得していったのである。
雪子はこれからのシリーズ全てに登場する(のじゃないかな?)ので、バックグラウンドをかためるのが大変だった。今後の物語のつじつまを合わせるために、出来事の年表をつくって美鈴の過去やヒマワリの過去と照らし合わせていく作業は骨がおれた。
と言うより、人物が増えてきたので各々の出来事がいかにからんでいるかを把握するのが難しくなってきた。年表はつくっているが、人物ごとの年表もいる気がしている。でないと忘れる。ある人物がある時代に、愛宕にいたのか鞍馬にいたのか、こんがらがることが多くなったものだ。(特にキリンの親世代の留学時期は年表がないとわけわからんくなる)
一度整理しておきたい、という意味もふくめて、国シリーズの設定資料集を作りたいと思うのだ。
我輩が彼女のなかで一番好きなのは、身をひかないところ。
自分と一緒にいることでハルタが辛い思いをする、とわかっても、「でも一緒にいたいです」と自分からは身を引かなかったところが不器用ながらパワフルで好きだ。
ハルタもとんでもない子に惚れられたものだと書いていて思ったものだ。
誰かを不幸にするなら自分の幸せを諦める、という思考回路は嫌いだ。他人に人生の責任を押しつけている節がある。加えて他人の幸せを勝手に定義しているし、その幸せも幸せというよりは「楽」であることだったりする。最近、吾輩も他人から「kazukiは幸せだと思うよ」と言われ、確かに幸せだけどテメェが決めることがじゃねぇんだよ、と思ったことがある。吾輩はへそ曲がりなので、「楽しい?」「美味しい?」「面白い?」「好き?」とか聞かれると、うるせぇな、と思ってしまう。いわんや、「楽しいよね?」「美味しいよね?」と聞かれたら絶対に「うん」とは答えない。心の機微まで他人に決められてたまるか。「kazukiは幸せだよね」とか言われた日には、心中中指がたっている。
「私がいない方が主人公のため」と身をひくヒロインも上記ほどではないが、失礼な奴だと感じるし、それを許せるほど感情移入していたら追いかけるけど、だいたいそこまでじゃないので「ならどっかいけ」と思う。その瞬間、追いかける主人公と乖離していくので物語がつまらなくなる。
追いかけないと物語にならないのは百も承知なので、恨むのはひたすらにヒロインである。
その類のヒロインにならなかったことでも、雪子は好きだ。

★猪飼優

こいつは化けたな、と思っている。当初はいなかったキャラだけにそう思う。
雪子とのラブコメはいいけれど、女の子とじゃれ合ってるだけじゃ胸やけするやろしな、オブザーバーも煩いやろし、箸休め的な奴いれよと考えたのが猪飼である。
元々は職場の先輩をモデルにしていたが、いつしかかけ離れた。方言を使いはじめたあたりから、一人歩きし始めたように思う。
方言は山口弁と広島弁のミックスであるから、ほぼネイティブとして喋れるので難しさはなかった。ただ関西弁が混じる時があり、たまに弱った。
長期にわたる大阪滞在のせいで、吾輩は今でも山口弁と関西弁のミックスだ。
「あんラーメン屋うもうないけ、いかんほんがええよ」(山口弁)
「あのラーメン屋うまないし、いかんほうがええで」(関西弁)
山口弁は「ま」を「もう」とわけることがある。「しまった」が「しもうた」になったりね。牧歌的で柔らかい響きになるので、吾輩は好きだ。
関東圏に人からすれば、「何が違うんだ?」と思われるかもしれないが、違うんですよ。
猪飼は当初、委員長くらいのサブキャラで、学校でしか会わないクラスメイトにする予定だった。
それが「闇で商売をしている」「クラスでは鼻つまみ者」という設定に対し「なんでやろか?」と思いを巡らせていくと、ああなった。
もう一つ、猪飼のウエイトが増した理由としては、「東京のハルタと、天狗の雪子のラブコメディ」だけでは「山陰の城下町でやる必要あるか?」という疑問が拭えなかったことが挙げられる。
語学留学時代、よく日本人同士がくっついて延々日本語しか喋らずにそのまま日本へ帰国していく様を見て、妬み嫉み八割、「こいつら何しにきたんだ?」と思わずにはいられなかった。否、元をただせば「愛のり」という番組企画がかつてあり、日本人をワゴンにつめこんで世界各地を旅し、日本人同士が恋に芽生え、恋に悩み、恋に泣いた姿をみていた頃から感じた疑問が起点のように思う。たまにカメラに映り込む原住民の「なんだこいつら?」感がすごく印象に残っていた。ハルタと雪子のラブロマンスに終始してしまえば、カメラの外にあるクラスメイトや町の人々の「なんだこいつら?」感が物語のなかに匂ってきてしまうと思ったのだ。
他所でやれよ、鬱陶しい。
そう思われたら嫌だ。
だからこの町とハルタたちを強くつなぐラインが欲しいなと考え、それが猪飼を育てていったように思う。
猪飼のストーリーは祖母のことが今の自分と丸かぶりなので、しかも名前も同じにしたので、ラストシーンへの感情移入は一入だった。
ただデバック時には「猪飼に力入れ過ぎ!」とまわりから怒られた。
猪飼も今後ともハルタと雪子の物語に絡んでくるし、猪飼が東京に行った後何をしたのか考えてあるので外伝なんかでやってみたくもある。

★藤田ユリ

ヒロイン一人だと焼き餅やかせたりできないな、と思い作ったと言えばあまりに投げやりだろうか。
しかし着想当時は皆、そんなものなのだ。ヒロインが焼き餅やいてしまう、お姉さまキャラを作ろう、それぐらいだった。
アンさんに似ているのは、もはや我輩の趣味なのだろう。ああいうサバサバした感じの姐さんキャラが好きなのだ、たぶん。
彼女は猪飼にくらべ、割をくったなと思っている。ユリが何故あの町にきたのか、来る前に何があったのか、彼女の人間関係は――。
考えていたのだが、今回はやる暇がなかった。すまぬ。窯元の先輩たちとも物語の外で色々あったのだが、描けなかった。すまん。
我輩は急ぐ癖というか、物語が停滞するのが我慢ならない性質なので、同じレベルのことを何度もするのが許せないのだ。
だから単純に、猪飼編があって、ユリ編があって、雪子編があって、ハルタ編がある、ということはやりたくなかった。
外伝というか、短編小説くらいに出来たらなと思っている。
彼女自身の物語は満足に描けなかったが、ハルタという少年を掘り出していくのにユリというノミは非常に有用だった。
「悲しい方向に流される」というのは後々大切になるワードなのだが、自己解析で「俺は悲しいものに流されてしまうのだ」と言ったらクソ寒いなと思っていたので、ユリのポジションは有り難かった。自覚的であるハルタのそういった部分を、カモフラージュされている上からさらに見つけ出す観察眼を備えるには、年上のわけあり女性というキャラポジはもってこいだった。
ユリには兄がいて、義姉との離婚の際、慰謝料でわりをくったことがユリのトラウマになっているという過去がある。
「人がいいから足元を見られた」「つけこまれて、ふりまわされて、食い散らかされた」「いい人なんて、都合のいい人でしかない」
気弱だが優しい兄が大好きなユリだったから、悲しくて悔しくて仕方なかったのだが、兄が恨み言一つ言わないから耐えられず、兄を「どうしようもない馬鹿だ。私はああはならない」と切り捨てて心のバランスを保った。
それが彼女の人間関係、特に男女関係に影を落としている。
ユリは兄と似た少年ハルタを見つけて、何を思い感じたのか。吾輩もなんとなく「こうじゃないかな」という雲のように不確かな絵は浮かんでいるが、そこはつめないでおいた。
皆様も想像して楽しんでいただきたい。

次回に続く