ハルカの国 創作の記その22

近頃考えたことをつらつらと語ってみたい。

ダイナミクスのリアリティ

使い方として間違っているかもしれないが、物語の環境系をダイナミクスという言葉で扱いたい。
ダイナミクスには様々な次元のあらゆる要素が含まれる。時代の技術水準だとか、死生観だとか、国の経済状態といったマクロなものから、主人公の家族構成だとか、生活水準だとか、彼の通っている高校が公立なのか私立なのかだとか、友人達のほとんどが童貞なのかそれとも経験済みなのか、そもそも同性ばかりだけでなく異性の仲間もいるのかといったミクロなものまで、あらゆるもの。
もちろん、季節や舞台となる都市といったローケーションもこの中に含まれる。夏の海辺の物語なのか、それとも酷寒の雪山の物語なのか。これは大いに物語に影響するダイナミクスの一要素だ。
物語に影響を与え、物語が進展することで影響を受けるもの。相互の関係性を持つあらゆるもの。
近年、このダイナミクスに対する批評が厳しくなっている気がする。
アクチュアリティー、時局性への要求とでも言うのだろうか。
物語のダイナミクスにリアリティを感じられないと、物語への没入感が得られない。人物に感情移入出来ない。
これは我が輩が思うのではなく、エンタメを消費する人々の一般感覚としてこの傾向が増してきていると感じる。

かつての消費者と比べて、今の消費者は知識量が豊富で玉石の見分けに長けているというのではない。
ただかつて以上に人物の置かれた環境(ダイナミクス)に対し、またその環境下における人物の感じ方に対し、意識を払っていると感じる。
派手なバトルアクションだとか、萌えだとか、俺つえーだけでは誤魔化しきれない。
ちゃんと自分たちと同じ様に、世界との相対的な関係性の中にいて、その関係性の中で悩んだり苦しんだり孤独を感じたりしているだろうか。
そういう「お前は俺だろうな」「貴方は私でしょうね」という厳しい視線が、物語の登場人物には注がれているような気がする。
この視線を納得させるのが人物の置かれた環境――つまりダイナミクスのリアリティの有無ではなかろうか。
ダイナミクスの中でいかに感じ、いかに振る舞うかという人物の態度のリアリティではなかろうか。

物語において。
テーマの設定や、魅力的なキャラクターの確立は相変わらず大切であろうが。
今日日、ダイナミクスのリアリティはそれら以上に求められているのかもしれない。

馬鹿馬鹿しい夢物語を見たいわけじゃない。
けれど、現実などクソだと打ちのめされたいわけでもない。
何か。
何かリアリティのあるものが欲しい。
僅かなもの、微かなもの、信じられる小さなものが欲しい。

そういう願いが、人々の心にはあるような気がする。
気がするだけで、なんら根拠はない。

情報伝達のリアリティ

Twitterを眺めていると、よく専門家の知識が一般人にも分かり易く説明されている。それを見て、「小説のネタに使える」だとか「人物の台詞に引用できる」とコメントがついている。
確かに、専門的な知識を大衆に向け噛み砕いた後の情報は使いやすい。
だがしかし。
我が輩は「大衆向けに処理済みの情報」の再使用方法には注意を払うべきだと感じる。
と言うのも、物語は専門知識を伝える学術書ではなく、人間模様を描くことを目的とする。ガジェットとして専門知識を披露する機会があっても、視点はあくまで主人公たちのアクションを捉える。
この視点に向かって、「大衆向けに処理済みの情報」を垂れ流すのは、それを語る人物のリアリティを損なう危険があると感じるのだ。

人間模様の描写において、情報の本質はその専門性にはない。情報内容そのものが本質でもない。
本質は情報を伝搬する時に生じるエネルギー交換、アクションとリアクションにある。
情報を伝える時、伝達側にはどういう感情が芽生えるのか。相手にとって未知の情報を伝えることに快感を覚えるのか、繰り返し伝えていることが伝わらず苛立っているのか、日々更新されるパラメーター(例えば降水確率)を義務的に伝えているだけなのか
情報そのものよりも、情報が伝達されていく様こそ、物語における情報の本質と言える。
つまり物語において情報はそのものに価値があるのではなく、情報伝達を通じて行われるコミュニケーションにこそ価値があるわけだ。
このために「大衆向けに処理済みの情報」を引用するのには注意を払う必要がある。
伝える相手が「不特定多数の大衆」でない場合、例えば主人公からヒロインへ伝える場合、その関係性、互いの知識量、シーンのリズムにおいて、伝えられる情報は最適化されなければならない。

「浮き下なんぼ」
「一メートル。満ち潮じゃ、合わせながらやりや」
「昨日からだいぶ上がったの」
「昨日、人が多かったろ。撒き餌きかしたけ、上がってきよるそいね」

これは釣りの際、魚がどれくらいの深さにいるかを情報として交換しているのだが、この描写の目的は魚の居場所を読者に伝えることではない。
この二人が日頃からこういう会話しているという日常性、生活感を伝えることに注力しており、そのための方法として情報はあえて端折られ、分かり難い形をとっている。

コミュニケーションのリアリティ追求において。
「一般素人大衆向けのわかりやすい情報」は目的を助けない場合がある。
関係性が既にあったり、時や場所を同じくするという同期性が一定以上ある場合、情報はその環境に合わせ端折られ「分かり辛く」リメイクされる。
コミュニケーションを行うグループに向かって特別仕様となり、グループに属していない他者を疎外する。
突き詰めれば、情報をいかに分かり辛くするかがコミュニケーション描写において重要であり、「一般大衆向けのわかりやすい情報」の取得と引用で終わっていてはこの目的は果たせない。

情報そのものを読者に伝えたいのか。
そうではなく、情報伝達を通して行われるコミュニケーション模様を伝えたいのか。
何を描写しようとしているのか、目的をはっきりさせておくのが第一に重要で、目的に合わせて情報を処理する技術を身に着けていかなければならないだろう。
Twitterで発見した時と同じように、対不特定多数の素人大衆向けを前提としているなら問題ないが、この前提が違う場合、Twitterで得た情報は処理し直さなければならない。

進捗状況

八つある章のうち、六つのスクリプト化が終わった。
立ち絵は星霜編だけで2000パターン(雪子の国と同数)を越えたと思うが、正確な数字はわからない。と言うのも、ハルカの国からは立ち絵管理を放棄して、会話の度に新たに作る方式を採用したため、重複も一割程度あって正確な数がわからないのだ。

何故、使い回さず、重複させてまで新たに作るのか。
これは立ち絵管理の難しさに起因する。
100パターン越えると、どんな表情を作ったか覚えていない。「確かこんな表情前もつくったよな」と思い見返してみると、服装のパターンが違ったり、ボディランゲージが違ったり。わざわざ見返してみても徒労に終わることが多い。

100パターンくらいなら見つけ出すのも難ではないが、これが300パターンともなると手間になる。なにせ会話の度に「あの表情、普段着の何番だったっけ?」と見直すことになる。やっていられない。
喜怒哀楽、表情毎にフォルダを分け、検索をかける母体を減らす工夫もしてみたが、効果は薄かった。
と言うのも表情は連続するものだから、「これ」というものが見つかったら「これ」から派生していく差分を見つけなければならない。「眉と目は同じままで、口元だけ緩めた差分が欲しい」と探しまわるより、口元だけ緩めた差分を作ってしまうほうが早いのだ。
それで会話の度、新たな差分を作っている。

こういった手法がとれるのも、Unitiyと宴という開発環境のおかげ。
大量に作られた立ち絵差分は、最終的にドット単位のミキサーにかけられ、重複分は削除される。要するに全ての立ち絵を表現できる最小材料数として管理される。この方式のおかげで、重複分のデータが嵩張ることはない。
どれだけ重複差分を作っても、データ量として皆様を煩わすことがないのだ。

既存立ち絵差分を管理しなくて良い。
毎度毎度、その会話におけるLive感を重視出来る。
この方式が採用出来なかったら、ハルカの国制作は今より鈍行としていたことだろう。
過去作品よりハルカの国の会話シーン、立ち絵表現に磨きがかかったと思って頂けたのなら、開発環境の賜でもある。
自己評価としては、立ち絵表現により力を注げるようになったので、現状の開発環境には感謝、感謝している。

かれこれ二年

ハルカの国、思い返せば、2018年の七月に制作を開始した。
思い返せば、元々半年ほどで完成させる予定だった。
思い返せば、2019年の夏コミには出品出来るはずで、総プレイ時間も八時間以内におさまる予定だった。
雪子の国の経験から、「八時間以上の物語は構成上無理がある」と悟ったはず。
あまりに長い物語は、「一つの全体としての物語に仕上げることが俺には出来ない」と痛感したはずだったが。

ハルカの国。
各編毎に終わる物語ではある。
しかし全体を通しても一つの物語として機能させるつもりだ。
その前段階として、前半三編、「越冬編」「決別編」「星霜編」を一つの物語として機能させてみたい。
機能させるつもりである。
長い物語を把握する術を模索し続けた結果、その手口を見つけつつある。気がしている。
ハルカの国、上手くいけばそこらのメソッドもまとめたい。

何故、長い物語を機能させられないのか。
記憶力と集中力の問題である。物語が大きくなればなるほど、上記したダイナミクス的なものを把握仕切れなくなってくる。
ダイナミクスは流動的なものであり、新しい要素を投げ込む度、全体に影響を与える。逆に言えば、全体に影響を与えていないものは、物語の要素として加えるに不十分だと言える。
ある人物が新しく登場することで、過去の人物の意味合いが新たになったり、別の側面が見えてきたり、重要性が増したり、ふと懐かしくなったりしなければならない。
時代や場所が移ろい行くことで、過ぎ去ったものは消えるのではなく、残響のように響き続け、新しい環境に参加し続けなければならない。
和音のように重なり、和声のように連続することで、物語の体験は掛け替えのないスペシャルなものとなる。
楽曲の内、一つの音符を取り出してもそれは何ら特別なものではない。
それ以前に積み重ねられてきた特別ではない音符の、特別な積み重ねに連なるからこそ、次の音符も特別となるのだ。そうして特別な、世界に初めての新しい楽曲が出来上がる。

積み重ねてきたものと、構造的に機能しなければならない。
故に、物語が大きくなると、その上に重ねていく新要素の扱いが難しくなる。
無駄な重複がないか、意図していない効果が生まれていないか、意図したものが過去の積み重ねと調和しているのか。
記憶力、集中力、注意力が求められ、求められる度合いは次第に増していく。
これが辛く、難しい。
難しかった。

それを補う方法やツールを模索し続け、それなりの方法論を確立しつつあるので、今回、ハルカの国、前三作を機能させてみたいと考えるのだ。
ただ、読者の視点から見れば「何が変わった?」という程度のことかもしれない。劇的な改善には繋がらない、地味な調整だとは思う。

ここで推論していても仕方ない。
ハルカの国、星霜編を発表して、皆様の判断を仰ぎたい。
その結果を受け取り、吟味し、自分のしてきたこと、ハルカの国を通した試みを一度反省してみたい。
自分が今、何をしているのか。どれだけのことをしているのか。
自己判断では現状、わからない。

星霜編発表まで

星霜編発表、二週間手前くらいまで静かにしておきたい。
進捗状況もこのブログで語る程度におさえておくつもりでいる。
「あいつ静かだけどちゃんと作ってんのか?」と心配されるかもしれないので、断っておく。

理由はメリハリをつけたいから。
広報活動にも意図を持って挑みたい。
なので散発的に、無秩序に宣伝をすることは避ける。
代わりに。
発表前はボコボコ広報活動をすると思うので、前情報を見たくない方はお手数ですがお気をつけて。

星霜編発表に合わせて、色々考えていることもある。
その一環として、「雪子の国」の販売を近々停止するつもりだ。以前、述べた様に、フリー化への手順を踏むつもりでいる。
ただ今回、いきなり完全フリー化するわけではなく、限定期間内においてフリー化する。その準備として、1~2ヶ月、販売停止期間を挟む。

星霜編発表の目処が立ち次第、色々と詳細をお伝えしたい。