ハルカの国 創作の記その20

この度は記事をまとめる時間がなかったので、日々の考え事をスケッチとしてまとめ、並べてみた。

ノベルゲームの選択肢

「トルゥーエンド」というものが流行ってから、ヒロインに格差が出来た。
ヒロインの格差はつまり、そのヒロインルートに集約していく選択肢の格差。
第一義ではないシナリオを選択する価値の低下。
全ヒロイン攻略が、トルゥーシナリオ突入への条件であれば、選択は義務となる。
選べることの嬉しさは、網羅しなければならない務めへと代わり、ヒロインの多さは嬉しさではなく、トルゥーエンドに至るステップの多さ、ダルさに代わった。
そもそも選択に「Good」や「Bad」、「メイン」や「サブ」といった価値の格差があるのなら、そこに依拠する選択は本当に選択なのだろうか。

より根本的な問いかけとして、選択するということは、どういうことなのか。
我々にとって選ぶとはどういうことだろうか。
選べることは嬉しいことだろうか。尊いことだろうか。必要不可欠なことだろうか?
選ぶということが、イコール、選べるという情動的快に繋がっているだろうか。
選ぶ、という主体性の発揮が、我々日本人にとって特別尊いものであるようには思えない。

主体とは西欧の体験を通した「アイディア」という側面が強く、これが我々にはしっくりこない。
フランス革命から始まるアンシェンレジームからの脱却、「戦って、血を流して、自分たちで勝ち取った主権(主体)」という自負。その主権、主体が十九世紀を通して体験する近代という文脈。カント、ヘーゲルのドイツ古典哲学から、サルトルの実存主義へ、そこへのカウンターとして構造主義ブーム。その終息。
そういった一連の体験、体感を経た文化圏でこそ「主体」は肯定であれ否定であれ問題視されるほどのボリュームが生じる。

日本人は主体性がない、自分というものがないと言われて久しいが、主体性がないのではない。主体性というものを問題としていない。あってもいいし、なくてもいい。何故そこに、そこまで拘る? というクエスチョンマークが我々の態度ではなかろうか。

日本人にとっての主体の経験とは、資本主義に背中を突かれた「個人としての望みを叶えよう!」というスローガン下においてであり、つまり「一人一人が私財をもって、それぞれ所有物を持ちましょう」という消費としての経験。
一家に一台のテレビと車より、一人一台のテレビと車の方が需要のパイを大きく出来る。
資本主義の要求と、主体性を発揮する個人主義の発展は、大きなシナジーがある。
家族も一つの家に住まわすより、それぞれ別にして一つ一つの家、もしくは賃貸に住まわせる方が消費は大きくなる。
家だけでなく、家の数だけ冷蔵庫も洗濯機も掃除機も必要なわけだから。

話を戻して、日本人にとっての選択。
個人が自由意志なるものを発揮して、選択することは尊い。
同時に、宿命や運命といった自己だけでは完結しない〝引き継ぐアイデンティティ〟にも親和性がある。
家や血筋、血液型占いや星座占いも大好きな日本人。自分よりもマクロなものに決定される肌感覚を、「自由意志というものが良いものらしい」という感覚と矛盾させないまま保持していられる。

日本人にとって、と言うより「西欧体験」をしていない民族にとって、「主体性を発揮する選択」は尊いかもしれないが、何にも増して重要なわけでもないし、主体性と矛盾する運命論や決定論もまた好む。
こういった態度が、途中は色々選べるけど、最終的には「good」や「トルゥー」といったエンディングへと収束していく「真実」の尊さ、「運命」の尊さの演出としての選択肢という形をとったのではなかろうか。

選択肢はあるけど、その選択肢には格差がある。
制作者側としても「第一義はこれ」「これをもってシナリオを評価して欲しい」というものがあらかじめ設定されている上での選択肢は、収束されていくシナリオへの演出であって「主体性を発揮する」という本義での選択にはならないだろう。

いつの日か、AIが発展して、物語が自動生成されるようになり。
選択に際して、選ばなかった選択ルートが永久に消滅するというギミックが完成してこそ、ノベルゲームの選択肢は本義の選択となるのかもしれない。
選択とは選び取ることである以上に、選ばなかったものを失うという喪失体験でもあろうから。
この表裏を分けては、選択の尊さは体験出来ないだろう。

進捗状況

今月末、四分の一のスクリプト化が完了予定。
四月の二倍の速度で作業が進んでいる。
作業段取りが上手くなっているようだ。
四月は立ち絵がまったく揃っていなかったから辛かった。
五月は立ち絵が揃っているからスイスイ進む。
けれど次第に冬へと進む。(作中で)
また立ち絵を一新しないといけない。
大変辛い。

辛い時、いつも星霜編を発表した時のことを考える。
「どんな反応があるだろうか」「きっととんでもないことになる」「今までとは次元の違うものを作っているのだから、現状を打破できる」
この物語が完成したら変われる――キリンの国、雪子の国、ハルカの国、それぞれで思ってきたものだ。
毎回、それほど変わらないのだが、やはり毎回、思わずにはいられない。

ハルカの国。
1000人ぐらいの方に、遊んでもらいたいものだなあ!
現状、50人くらい?
まだ完成していないから、仕方ないけれど。
時折、自作品の知名度の低さにイライラする。
けれど、それがまたモチベーションにもなるのだから人間、不思議なものだ。
「ハルカの国」に気づけた人を、滅茶苦茶運の良い人にしたるんや。「ハルカの国」を見つけられなかった連中に、臍を噛ましたるんや!
単純な浪花節で生きているから、平和である。

広報などにも力を入れたほうがいいのだろうけれど、現状、余力がございやせん。
ハルカの国が終わったら、色々考えます。

今回は短い報告で、御無礼!