ハルカの国 創作の記 その37

情報スロットの脅威

高校卒業してしばらく、ギャンブルにはまることがあった。
と言って大した事でもなく、友人たちと雀荘に通い貸し卓でうったり、まだあの頃は夢も見れていたパチンコやスロットを回していただけのこと。
背伸びしたい年頃でもあって、大人たちに混じって雀荘に出入りし「赤チップありありで」なんて遊び方を指定してみたりすることが楽しかったし、誇らしかったのだと思う。
友人とパチスロ雑誌を読み回し、アツい演出について語り合うのが粋に思えたのだと思う。
もちろん、手が入ったり入らなかったり、夢をみたり夢破れたり、わくわくしたりがっくりしたりするギャンブルの本質も楽しんでいた。
思えば最初に書いた物語もギャンブル狂いのアル中が、一発逆転をねらって女子高生とバンドを組むというサブカル臭ぷんぷんのストーリーだった。そう考えると、我が輩の創作の切っ掛けはギャンブルにあるとも言える。
徹夜で麻雀をうって大負けした時の、金と時間をドブに捨てたどうしようもない空虚な気持ち。このゴミのような気持ちを抱えて、通勤通学していく人々を横目に親に買って貰った中古のワゴンRを走らせ、パチ屋の駐車場に逃げ込み、学校が終わる時間まで眠っていた――あの退廃的気分が我が輩を創作へ向かわせたような気もする。
そんなギャンブルへの熱は、二十歳を期に冷めた。
環境がかわり、ギャンブル仲間が周囲から消えてしまうと、独りで熱心でいられるほど我が輩はギャンブル狂でも、デカダンスでもなかったのだ。我が輩のギャンブルとは、大人を楽しむファッションだったのだと思う。仲間と大人ぶる、コミュニケーションだったのだ。

さて。
ギャンブルへの衝動など忘れて久しかった、先日。
ネット環境が整わず、しばらくネットへアクセス出来ない日々が続いた。メールのチェックくらいは出来たので完全に孤立したわけではなかったが、TwitterもYoutubeもニュースサイトも見れない状況に居心地悪い思いをした。
閉塞感と言おうか。自分の中でざわつく圧力をどの方角に逃してよいものか。どこにも逃すことが出来ないような、圧迫感を感じた。
普段、それほどSNSや動画サイトを覗く方ではないのに、ネットへ繋げないだけでこれほど落ち着かないのかと自分を不思議に思ったもの。
結局、十日ほどネットサーフィン出来ない日々が続いたが、一番症状が辛かったのが三日目あたりで、何をしていても皮膚がぞわぞわするような不快感を感じた。一度はネカフェに行こうかとさえ考えたが、「Youtubu見るために? Twitterするために?」と自問するとさすがに馬鹿らしく、大人しく執筆を続け、休憩時にはアナログの本を読み、普段より多めの運動と睡眠、楽器の練習などをして過ごした。
三日目をピークに「ネットへの欲求」も治まり、ネットが復旧する頃には「ネットなしで過ごした日々は充実していた」「これからはネットと距離をとる生活を心掛けよう」なんてことまで考え、計画をノートに綴ったりもした。
そうして、いざ、復旧した日。
Twitterにメッセージ等届いていたら返信しなければいけないと、久しぶりにログインしてみる。しばらくTLを手繰っていると、ここ数日感じなかった脳の変化を知覚した。
前頭部から側頭部に向かって、ざわざわ!、と虫が這うような波状の感触が広がり、目の奥が熱くなる。途端、動悸が早くなり、胸部から肩にかけて盛り上がるような力の隆起を感じた。交感神経がバチコーン!とスイッチオンになったのが分かった。
端的に言って、興奮状態に入ったのだ。
ここ数日、穏やかな日々を過ごしていたために、興奮状態への変移がくっきりとしており自覚的に観察出来た。それは気持ちと言うより身体変化であり、脳の構造変化を確かに感じた。それ以前に使っていたネットワークと興奮状態にある今使っているネットワークが違うこと、恐らく血流のためだろう、頭の熱くなっている箇所が違うことを感じ取れたのだ。
そうして自己観察しているメタ的な自己が、一瞬一瞬、崩壊していくのを感じた。自分の変化を観察する困難が急激に増していき、興奮という体験主体へと飲み込まれていく。その最中に、我が輩は一つの実験を試み、その結果の記録をとることに決めた。

今から我が輩はTwitterのTLと、Youtubeのオススメを更新し続ける。果たしてその行動を飽きることなくどれくらい続けられるだろうか?

微かに残る意思で開始時間をとらえ、後は興奮状態である我が輩から綱を放した。行ってこい、存分にむさぼりたまえ。
結果。
なんと我が輩は没頭という集中力をもって、1時間半もひたすらTLとYoutubeのおすすめを更新し続けていたのだ。タブレットとPCの二画面でそれぞれ更新を続け、1時間半、止まることが出来なかった。
また止まる事ができた1時間半後にしても、雨が降り出して窓を閉めるための離席というたまたまが切っ掛けで、記録をとろうと中断したからその後は続けなかったものの、続けようと思えば恐らくまだまだ続けられた。
ここで留意して頂きたいのは、我が輩が1時間半、狂ったようにしていたことはコンテンツの消費ではない。
TwitterもYoutubeも、それぞれの記事や動画は一切見ていない。Twitterの内容が不可避的に頭に入ってくることはあったが、精読することなどしなかったし、そこに張られているリンクをクリックすることもなかった。エロい絵にもなるべくとまらず、TLを手繰り続け、失われた十日間の情報の表面に触れ続けた。Youtubeもオススメに表示されるサムネとタイトルだけを見て、ほとんど動画視聴はしていない。(衝動に負けて二つ動画を見てしまった。しかし合わせて三分も留まっていない)
とにかく、情報を更新した。
とにかく、視界に新しい情報を晒し続けた。そんな一時間半。
一体、それの何が面白いのだと思われるかもしれないが、我が輩は興奮していた。TLを捲れば捲るほど、Youtubeのオススメを更新すればするほど、脳がカッカと熱くなり、胸がせり上がるような昂揚感を覚えた。
繰り返すがコンテンツは消費していない。
すなわちポルノだとかポリコレだとかユーモアだとか、興奮する情報を摂取したわけではない。そういうものが期待出来る情報に触れていただけ。もっと言えば、そういうものが現れるかもしれない期待を胸に更新を続けていただけ。
すなわち。
我が輩は1時間半、エロいかもしれない、笑えるかもしれない、楽しいかもしれない、ムカつくかもしれない、そうしたあらゆる感情を喚起させるかもしれない情報を見つけられるかもしれない期待感によって、更新ボタンを押し続けていたのだ。
そんなことをひたすら楽しく続けていたのだ。
興奮のモラトリアムに興奮し続け、期待を達成することのない期待値によって時間を浪費していたのである。
ゾッとした。
そして、思い出したのだ。
この時の興奮はギャンブルに似ている。麻雀の配牌時、ブラックジャックのカード配布時、スロットのレバーを押した瞬間、リールの回転が始まった瞬間――何か良いことが起こるかもしれないというあのトキめきと一緒だ。
TLを手繰る時、Youtubeのおすすめを更新する時、更新結果が目の前に現れる一瞬の狭間、そのモラトリアム期間にこそ我が輩は興奮しており、それはギャンブルが与えてくれた快楽とまったく同じだった。
これは、情報ギャンブルなのだ。
Twitterを開く瞬間、TLを手繰る瞬間、Youtubeのおすすめを更新する瞬間、それは情報スロットのレバーを押す瞬間であり、そこから結果が目の前に現れる一瞬、この可能性だけの何もない一瞬を掻き集めた膨大な時間に、我が輩の時間は乗っ取られていたのだ。
恐るべき、情報ギャンブル。
情報スロット。
その後、我が輩は興奮を冷まし執筆に向かうために、5㎞のランニングと入浴を経て、脳の火照りと興奮の疲労を取り除かなければならなかった。

上記、仰々しく観察結果を記した。
しかし情報ギャンブル、情報スロットのアイディアは「スマートフォンが脳を壊す」という最近ベストセラーになった新書から借用しており、上記観察結果はあらかじめ予想されていた。こう言うと期待していた結果を誇張して取り上げただけではないか、と思われるかもしれない。プラシーボ効果だってあっただろ、と思われるかもしれない。
実際、そうかもしれない。
我が輩は「スマートフォンは脳を壊す」という本の内容を面白く思っており、機会があれば実感してみたいものだと常々思っていて、この度、しばらくネットに触れられないというチャンスがあったために試してみたまでのこと。
実験ではなく体験と言うべきだったかもしれない。
しかしこの体験のおかげで、自分がどれほど情報ギャンブルへの耐性が低いか、また情報スロットの快楽的仕組みを理解できた。今後ネットを使用する上での課題も、それはそれは沢山見つかった。
ちなみに本の中ではTwitterやSNSの情報更新が意図的に遅らせてあり、興奮状態が高まるモラトリアム期間が設けられていることも書かれている。通信速度にかかわらず、SNSの情報更新は〝若干〟時間がかかり、その期間ユーザーを興奮させる使用になっているのだ。その興奮がSNSサービスを使い続ける原動力になっている。
これからは皆様もSNSを触れる度、「情報スロットを回すぞ!」という意気込みで触れてみてはどうか。そうすれば、自分がしていることの本質がいくらか実感出来るだろう。

進捗報告

改善執筆は今も続いている。
改善方針としては、

風子、キリという新たな人物造形をしっかり書く。
逆に、ユキカゼ、ハルカは子細な描写を避ける。

この調整によって、書いていたものを消し、書かなかったものを書いている状態である。

改めて感じたのは、これはユキカゼの物語ではないということ。ユキカゼの物語は、星霜編で終わっていた。ユキカゼは以前のように揺れ動いたり、動揺したりしない。ユキカゼは決意のなかにいて、一つの行動の直中にいる。その行動を果たさんとする彼女に、困難はあっても迷いはないのだ。
彼女は未来の結果を求めていない。
過去を裏切らないために、決意に殉じるだけである。
己というものを踏破しようと試みており、その挑戦にだけ意味が残っている。
そういう姿は、一つの激しい現象ではあっても、物語ではない。物語とは揺れ動くものであり、人物のアクションによって描かれるから。人物のアクションとはバトルだとかそういう見た目の問題ではなく、行動原理の揺れ動き、人物という体系そのものの揺れ惑いを指す。
そういうものが、今回のユキカゼにはない。
なかったのだと、改めて見直してみて感じた。
冒険の体験者としてユキカゼの体感を描写している箇所が多かったが、そのほとんどが滑っていたように感じた。その理由が、「この旅の体験主体がユキカゼではないから」だったと思う。
ユキカゼにとって愛宕の旅は障害であっても、リアリティではない。
そこでの息切れや痛み、疲れ空腹はユキカゼの〝瑞々しい体験〟には成り得ないのだ。
言ってみれば、この度の物語において青春の最中にあり、旅の体験の一瞬一瞬を人生に新たな意味として刻んでいく主体者はユキカゼではなかった。
ユキカゼにとって、この旅の体験は彼女の人生に新たな意味を与えたり、上書きすることはなかった。
別のもう一人が、この旅の主体者、リアリティの体験者だったのだ。
彼女を描写することで、今回の物語は血が通ったと思う。
同時に、彼女を描写することで、ユキカゼを描写していては描けなかったユキカゼを描写出来る気がしている。
この度の物語には、四人の主要人物がいる。
彼女たちはそれぞれに鏡合わせであり、それぞれが、それぞれではなかったそれぞれなのだ。皆、同じ分岐点に立ち、違う選択をして、異なる道を歩んでいく。
ユキカゼはこの度、静かな観察点として、自分ではなかった自分たちを見つめる。そうして、自分とは違う結果を辿るそれぞれを見送る。
この物語はそういう体なのだと、改善を試みながら感じている。

カメラを置き換えるような改善作業だ。
今まで撮っていた角度では写らなかったものを映すために、カメラを動かした。今まで描写されていたものが退き、あらたなものが現れる。
結構、大変です。
それでも初稿に比べ瑞々しさが増した。けれどその瑞々しさはユキカゼの過去、歩んできた道を穢す瑞々しさではない。彼女が疲れ老いたことを否定するものではない。もう一度振り出しに戻るようなものにはならない。
ユキカゼ、ハルカという読者からすれば気になる二人の描写を抑えながら、一層、彼女たちを描くことが出来たのではないかと思う。逆説的だが、書きすぎなかったから、この二人の再会に意味を与えることが出来た気がする。
まだ改善は完遂しておらず、オブザーバーからの判断も挙げていない状態。予断は許されないが、苦しみながらも前進を感じる。
九月末にはスクリプトを開始したい。

ちなみに。
シナリオばかりやっているわけではなく、立ち絵を作ったり素材をそろえたり、シナリオの変更にも対応がきく細々としたことも同時進行でやっとりまさ。

次回は改善したシナリオの結果をお知らせ出来ればと思う。

では!