キャラクターに本音を言わせてはいけない
「月が綺麗ですね」
かつて夏目漱石が「I LOVE YOU」の翻訳をたずねた学生によこした。
「私は貴方を愛す」
と訳した学生に、「そんな日本語はねぇ」と一刀両断した。
「好きです、つきあってください」なんて丸裸の欲求には情緒がない。
「彼女とかいんの?」
こっちのほうがぐっといい。
愛の告白だけでなく、本音というのは本心から漏れる音であり、それをやすやす他人に伝える馬鹿はいない。何故なら心の在処を知られれば、簡単に傷つけられるから。
「ママ、大好き!」と言えるのは何度も何度もママが自分のことを愛してくれていると確認し、確信し、自分の好意が受け入れられるとわかっているからこそ言えるのだ。
人は傷つきたくない
傷つけられない確証がもてるまでまわりを埋めていく。本音を伝えて相手が受け取ってくれる確信がもてるまで外堀を埋め続けるのだ、「月が綺麗ですね」で。
「明日ヒマー、あんたは?」
「○○ってさぁ、絶対あんたのこと好きだよね」
「でも○○とあんたがつき合ったら寂しいかも、遊べなくなるし」
「私、あんたと遊ぶのが一番楽しいかも。趣味あうもの」
「さっき教えてくれた漫画、今日とりにいっていい?」
ざっとこんな具合ではなかろうか。
キリンの国におけるアンさんの「乳さわるか?」も「月が綺麗ですね」なのだ。
乳触らせるほうが本音を言うよりずっといい。何故なら乳は減るものでないが、心は傷つくものだから。
傷つきたくない。否定されたくない
これは人間が食べないと生きていけないのと同じで生理現象である。人は傷つかないために色んな工夫をする。
誰も「好き」だなんて言わないし、言えるのなら否定される不安がないか、否定されても大して傷つかないかだ。我輩も飲み屋のネーちゃんにならいくらでも「大好き!」と言えるし、「すきー」と♥マークつきのメッセージをもらえる。お互い、嫌われようが大して傷つかないから。
察する文化、日本
もちろん性格設定にもよるが、キャラクターには本音を言わさないほうがいい。
本音があり、その本音をいかように隠し、それでも少しは知って欲しいと-わずかに醸す術は何なのか。それらの方法にこそキャラクターの個性というものはでる。
腹が減ったら食べる。傷つきたくないから隠す。
この根源は変わらないのだから、何をいかに食べるかが種々の文化であるように、どのように本音の露見を避けるかが個性なのである。
「キリンの国」の圭介は己の本音に自覚的であり、見つけられそうになると笑って誤魔化し、距離をとる。
最後、彼は本音に生きる。
しかしその瞬間から、彼は傷つき、敗北し、痛めつけられ、ボロボロになっていく。
俺は六割男児、本気なんかださない。
それが圭介なにりの本音の隠し方だったと思う。