ハルカの国 創作の記 その53

枕にAI

AI技術の興隆が凄まじく、日々話題に目を通すだけでも忙しい。
我輩もいくつか触ってみたり、調べてみたりはしている。

現状のAI技術はあくまでツールだと感じる。AI自体がコンテンツやサービスを生成出来るとは思えない。少なくとも、専門知識のない素人がAIに頼めば玄人裸足の作品が出来上がるとは感じなかった。
ただし、AIは強力なツールだ。そのため50点の能力を70~80点へと押し上げる力はあると感じた。そのため、90点以下のプロの仕事は減少するかもしれない。クオリティという防壁で身をまもるなら、トップ10%には身を置く必要がある。上位1割以下において、クオリティは他者との差別化要素ではなくなり、代替不可能性を保証しなくなる。
素人がプロを脅かすことはないが、50点くらいのアマチュアが80点くらいまでのプロと軽々しく肩を並べる事態は有り得そうだ。
ChatGPTに「canonコードで進行する都会の冬を想起する音楽を作って」と頼めば、pythonで再生できるプログラムコードを作ってくれた。参照元のアーカイブをダウンロードして再生してみると、しっかり曲になっている。
音楽作成に特化したAIに頼めば、「canonコード 都会 冬」と打ち込むとその場で聞ける曲を作ってくれる。気に入らなければアレンジもワンクリックで可能。
クオリティに関しては、ノベルゲームにおいてなら急所の楽曲には使えないが、繋ぎや雰囲気のコントロールには十分という印象。
画像生成に関しても同じで、キャラクターの顔が判別できるEVスチルには使えないが、重要度の低い汎用背景、演出用背景には十分。
そうした経験から、「素材のプライオリティを決め、重要度が高いものはプロに外注、低いものはAI生成、または自前の素材をAIアシストでブラシュアップで間に合う」と感じた。
AIに任せるか、人の手を頼るか。この二者択一的に陥ることなく、必要に応じて振り分けることによって現状のAIは既に十分使える。結果、「重要度が低くとも従来は人に頼むほかなかった」ものが「AIに処理してもらう」という代替がすすみ、重要なものだけが人手にわたる様になる。ここで選ばれるのは上位1割のクオリティや、代替性の低いオリジナリティをもった作家だろう。
70点や80点のクオリティが仕事として成立しなくなる。AI技術を触ってみて、我輩はそんな予感がした。

みすず、10周年

来年で「みすずの国」は10周年を迎える。「みすずの国」は国シリーズを皆様に公開した始まり。言わば、皆様とのご縁の始まりが10周年というわけだ。思えば遠くへきたもんだ。
2014年、「みすずの国」と「キリンの国」を発表した。反応の薄さには落胆もしたが、それでもめげずにやってきて、今年が10年目。あいかわらず、知名度は低い。
10年やってこの知名度だとあの時の我輩に知られたら、やる気を失ってやめてしまうかもしれない。人間、「きっと良いことがある」と希望を持てる未知というものが大切なのだ。作品発表の度に「きっと」を繰り返して、結局ここまできちまった。
もはや引き返せる道でなし、これより他に興味もないしで、骨を埋める覚悟でいる。結果がでないことを10年続けていられるのは立派な才能なのだと近頃は開き直った。
しかし、そうは言っても、少ないながらも国シリーズを支えてくれた人、今も支えてくれている人はいる。深く感謝している。たまにもらう感想にどれだけ励まされてこの道を歩んできたことか。この支えなくして国シリーズは成り立っていなかっただろう。
オブザーバーとして付き合ってくれてきた友人たちにも感謝したい。
本当にありがとうございました。

10周年記念として、「みすずの国」をリニューアールしようと考えている。
シナリオはそのままで(軽く補強し、現状の設定と辻褄合わせをしつつ)、ビジュアルと音楽を新しくしたい。音楽にはオリジナル楽曲をあてたいと考えている。
ビジュアルは外注するか、自分で描くか、思案中。外注して綺麗にまとめたい気もするし、もう一度みすず達を自分の手で描いてみたい気もしている。
目的としては、2027年まで通用するクオリティへのブラシュアップ。「みすずの国」は国シリーズの玄関であるから、「ハルカの国」完成に向けて整えておきたいのだ。

現状の「みすずの国」、我輩としては愛着がある。絵も下手なりに一生懸命描いているし、拙いなりに演出も頑張っていた。何より、世に出した初めての作品だ。初めて「面白かった」と感想をもらったのも「みすずの国」。仕事が辛い時、「みすずの国」をプレイしては慰められもした。
また「みすずの国」を良いと言ってくれる方が、今でもいる。プレイした皆様にも、あの「みすずの国」に愛着を持っておられる方もいらっしゃるだろう。
だから今の「みすずの国」をなかったことにしたり、消したりするつもりは毛頭ない。
これからもあの「みすずの国」は、十年前から始まった国シリーズの原点として残していく。
ただ、10年前の作品としてどうしても古くはなった。極端な話、現環境に対応出来ず動かなくなる可能性もある。
また上記した通り「みすずの国」は国シリーズの入り口でもある。「みすずの国」の〝クオリティの低さ〟を理由に、国シリーズに触れないでいる人々もいる。「みすずの国」を見て踵を返す人がいることを報告として聞いてもいるし、我輩自身も経験している。
「見た目のクオリティ低いよね」、と言われカチーンときたことは一度や二度じゃない。
ただ悔しいかな、クオリティの向上が著しいインディゲーム業界の昨今において、確かに見劣りするのは事実。
中身で勝負している、と虚勢を張りつつも、「みすずだってビジュアルさえ良ければ」と思わなかったと言えば嘘になる。
うちの子だって綺麗な服を着せ、少しくらいの化粧をはたけば、と思う親心のような気持ちは常にあった。
そんなわけで、綺麗な服を着せて、少しくらいの化粧をほどこした「みすずの国」を作ろうかという思いに至った。
本当は「キリンの国」にも立派な衣装を仕立てやりたいのだが、時間と金がない。あくまでメインの作業は「ハルカの国」と考えているので、サブタスクとしての限界は「みすずの国」までなのだ。

今の「みすずの国」を大切に思っていてくれる方には、申し訳ない。
今の「みすずの国」を遊び、国シリーズに親しんでくれた方にも申し訳ない。
ただ我輩は「みすずの国」をもう少し世の中の人に遊んで欲しい。その先にある国シリーズにも触れて欲しい。
恐らく、評価しない人は「みすずの国」がどう変わっても評価しないだろう。「みすずの国」に興味を持たない人は、その先の国シリーズにも興味を持たないと思う。そこの縁無き縁を無理に結ぼうとは思わない。ただ、「みすずの国」や国シリーズを評価してくれる人も何処かにはいて、そこへの縁は大切にしたい。その縁を結んでいかなければ、国シリーズを続けていくことが出来なくなってしまう。
縁を求めて、もう一度「みすずの国」を作ってみようと思うのだ。

10周年に旧作のリメイクではがっかりされた方もいるかもしれない。新しいコンテンツを期待された方もいるだろう。
そんな方へ向けては「まだあるかも」と言っておきたい。
来年はまだ何かあるかもしれない。ただ今は、「みすずの国」についてご報告させて頂いた。

散々言っておきながら、「みすずの国」リニューアールも確定事項ではない。一応、動き出してはいるが、「ハルカの国」を優先しているのでタスク超過を感じた時は「みすずの国」の方を止める。
あくまでこの一年のサブタスクとして進めていきたい企画である。ハルカの国・春秋編の次くらいに期待して頂ければ幸いだ。

ハルカの国

現状、時代区分別の年表、風景スケッチを繰り返している。
区分としては以下のようになっており、

1873~1924 ハルカ・ユキカゼ再会前
1924~1945 第一次ハルカ政権期(三つの苦しい時代)
1945~1960 僧正坊の代替わりを機に、ハルカ表舞台から引退へ
1960~1970 出会いの「春の時代」
1970~1973 成長の「夏の時代」
1973~1976 別れの「秋の時代」
1976~1980 決着の「冬の時代」

それぞれ明確に違う時代背景にしたいと考えている。
昭和編の本編として描くのは「春の時代」「夏の時代」「秋の時代」「冬の時代」としての、1960~1980年の二十年間に限られるが、その背後もしっかり設定しておかないと描きたい二十年を迫力をもって描くことは出来ない。
ハルカの国、最後の章、昭和編。ただただ昭和の物語を描くわけではない。明治越冬編から始まった物語の結末として描く。連続していなければならない。そのためには、描かないところを埋めなければならない。
そのために昭和編以前の時間にも年表をつくり、そこで何があったのかをスケッチしている。
決戦編の後、いかにして外様であるハルカが愛宕の政を手中におさめていったか。その苦労はどれほどだったか。またユキカゼがどのように支えたか。
ユキカゼはお里にて里年寄りという役目につき、寄り合いの重役としてお里の狗賓たちをまとめていく。狗賓たちに細やかに気を配り、人々を助けていくユキカゼは、やがてお里の「守り人」として親しまれる。その姿は、かつて東京神田で立ち働いたオトラにも重なる――そんなスケッチを今は進めている。
1873~1924年、決戦編前のスケッチをするのは、ハルカという人を見抜くためだ。
明治六年、何故、ハルカはユキカゼと別れたのか。
決戦編でも書いてみたが、あまりにもチープになって止めた。あの別れを言葉で語っては駄目なのだと思い、ただ「巓だ。見届けてくれ」の一連に込めた。
あれで語り切れたとは思っていない。結果、分かり辛い物語になったとも思っている。
だが、あの別れはハルカそのものを表わす。ハルカという、決して「誰にも負けない御仁」ではなかった人を表わす。
それを表現するには、もう少しの時間が必要だったのだ。
1980年、そこまでご一緒して頂ければ、ハルカがという人を皆様にも見てもらえると思う。彼女の恐怖や、寂しさというものを昭和編では描ききりたい。その恐怖や寂しさの故郷として、ユキカゼと別れていた半世紀もやはり、埋める必要があるのだ。

昭和編は春秋編、永訣編に分かれる。
春秋編では1960~1976年まで、「春の時代」~「秋の時代」を描きたい。
永訣編では1973~1980年まで、「秋の時代」~「冬の時代」を描きたい。
重複している期間があるのは、ある時代を異なる視点で描くからだ。愛宕に残るハルカとユキカゼの視点と、人間の国へとわたるもう一人の子の視点。二つの視点を体験することで、昭和編の結末を理解して頂けると思っている。
「キリンの国」で触れられているのでネタバレでもないから言ってしまうが、1980年にキリンの父親、イカズチ丸が処刑される。
イカズチ丸とは誰だったのか。何故、彼は天狗でありながら鬼と呼ばれるに至ったのか。彼は誰と戦ったのか。彼が守ろうとしたものは何だったのか。
ハルカとユキカゼは、彼にとって何だったのか。
「春の時代」から「冬の時代」にかけて描ききろうと思う。鬼となった一人の青年の一生を通して、明治維新より始まった近代日本、その日本の中にいながら日本人ではなかった人々の結末を描ききろうと思う。
国を探した人。国を失っていく人。国を守ろうとした人。
その姿を、「春の時代」から「冬の時代」の二十年間で描く。彼の背後には、ハルカやユキカゼはもちろん、国を求め、国に憧れて消えていった他の人々の姿も見てもらえると思う。
そうして最後に、もう一度巡ってくる春のなかで、ハルカの国を閉じたい。

ハルカの国を終えれば国シリーズの土台が完成する。何故、キリンが生まれたのか。何故、雪子は国を失ったのか。全ての物語に貫通する「流れ」が設定される。
ハルカの国を終えた後に他の物語に立ち戻れば、ハルカとユキカゼを見つけられるだろう。あるいはこれからの物語に触れた時にも、あらゆるところに彼女達の気配を見つけてもらえると思う。
彼女達がいなくなった後でも、彼女達が歩み、彼女達を貫いていった歴史や国というものは続いていく。決して切り離せないものとして、ハルカの国は鳴り響きつづけるのだ。
そういう物語にして、ハルカの国は終えたい。

もう今から気合い入りまくりですだ!

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