ハルカの国 創作の記 その51(お休み中・次回から始動)

近況報告

年始からの動きを考えている。
一月の頭、岐阜・長野へロケハンに出かけるつもりだ。
目的の一つは昭和編の舞台となる愛宕の街並み、山間の町屋風景を見つけるために中山道を北上してみる。島崎藤村の「夜明け前」の舞台だ。名古屋からのぼって、奈良井宿で一泊し、そのまま松本に抜けるつもり。
松本からは日本海に抜け、信濃川の下流へと出る。そこから北上するか、南下するか。
上に行けば決別編の舞台となった港町・酒田がある。最上舟歌の終着点でもある酒田。もう描いてしまった後ではあるが、本で読み知った最上川の終着点がどんなであるか、足を運んでみたくはある。
南下すると金沢がある。雪景の兼六園は、生涯の内に見納めておきたものの一つだ。金沢へ下る手前では、富山からみた冬の北アルプスにも以前から憧れていた。
北上にしろ南下にしろ、我輩積年の夢を叶える冬景色が待っているから悩む。
ロケハン、二つ目の目的としては、ユキカゼと別れた後のハルカを探しにいくつもり。机上では出来上がっているが、やはり見つけ切れていない気がする。それで彼女が〝あれから〟辿った道を、我輩も歩いてみようと思うのだ。

このロケハンは、五年前に岩手へ出かけたロケハン以来の大掛かりなもになる予定。前回もハルカの国に向けたロケハンだったが、今回もハルカの国のためのロケハン。
前回はハルカの国の着想を得るためのロケハンだったが、今回はハルカの国を締めくくるためのロケハンとなる。
あれから五年の歳月が流れたかと思うと感慨深い。
ロケハンは費用も時間もかかるが、やっておかないと創作に向き合うエネルギーを補えない。ハルカの国を創作するための身体作りが必要なのだ。
その一つが我輩にとってロケハンであり、身体を移動させ体感してくることで力が貯まっていく。

我輩の創作には地図と、身体と、企みが必要だ。
創作期間、グランドデザインに対する現在座標を把握出来る地図。動き体感し、それを記憶している身体、この物語を発表したらとんでもない事が起こるぞと思える企み。
これらを動機として創作という長い長い活動を駆動させていく。
活動にはそれを駆動させるガソリン、モチベーション、エネルギーが必要だ。これを疎かにすると創作中にガス欠をおこし、これは走行中の燃料切れと同じで、回復に時間がかかる。
誰でも遠出の前にはまずガソリンスタンドに寄るだろう。我輩もハルカの国最終章という人生をかけた作品のために、ガソスタにより、タンク満タン準備万端にしようと思う。
地図の作り方も、決戦編から近日まで手がけていたシナリオ執筆の経験を通し、多くを学んだ。
地図は都度都度にあった縮尺の物が必要とされる。ペラ一プロット、子細プロット、ネーム、楽曲用プロット、本文、と順々に物語の解像度を上げていかないとならない。この手順を省くと、迷い、迷いが混乱を生み、不安となって創作の手を止めてしまう。
面倒くさがらず、地図をつくる。地図は完璧なものにはならないが、それでも必要なものなのだ。
その必要な地図作成もロケハンは助ける。

読者にインパクトを与えるための企みは、脳味噌を絞って考えなければならない。表現したいものはシンプルだ。ハルカの国を始めた当時から変わってはいない。つまり「老いて死ぬ」という体験の演出。より抽象的に現すなら「自己像や世界観が破壊される過程の体験」となる。これをどう表現するか。技法への研究を日夜進めている。
この技術への試行錯誤も、ロケハンの最中、一人雪景を旅しながら深めてみたい。
ロケハン。楽しみと言うよりは、いよいよという心持ちだ。

年が明けて早い内に決戦編の一般公開も行うつもり。二月~三月を目指している。
来年中、国シリーズとは別に何かが発表されるかもしれないが、そちらも楽しみにして頂ければと思う。

今年は何とか生き延びた。
来年もなんとかかんとか、生き延びてみたい。

以下、雑文。

絶妙なチリちゃん

妙、という言葉が好きだ。絶妙、微妙、玄妙、どれも褒め言葉である。
我輩も好きな物については「良い」という言葉は使わず、「妙味」があるなんて言い回しを仲間内では使っている。
この妙、とはなんだろう。
我輩は程度にあると考える。良いものも山盛りではいけない。剥き出しでは品がない。
過ぎたるは及ばざるがごとし。相応を知ることは大切だ。
しかし物足りなさと食傷はいつだって紙一重。お代わりしたけれど、もう一杯では多すぎる。我々は不足と過剰の間をふらふらしていて、丁度なんてのは理想でしか成り立たないと思えるほど出会うことが少ない。
だからこそ丁度の程度に出会えばそこに賞賛が生じる。
これが絶妙。
その絶妙に近頃出会ったので紹介したい。

ポケモンのチリちゃん

彼女の名前はチリちゃん。ポケモンスカーレットヴァイオレにて登場する四天王の一人だ。
ヅカ男役さながらの中性的な出で立ちでありながら、関西弁をはなし、自らを美人さんと表して己の器量に自覚がある。笑う時は「なははは」と大口をひらき、手を叩いて笑う。つりマユで、垂れ目。その目が時おり、もの凄く冷たい印象になる。けれど関西弁なのでカッコ良すぎる瞬間がない。
全ての要素が、それぞれに引っ張り合いながら、我輩の絶妙というわずかな尺地に居残っている。
見事なまでのバランス感覚。針の穴を通された思いさえして、感服いたしました。
彼女の魅力は一言、カッコいい。
しかしこのカッコよさが曲者で、少しでも過ぎると鼻につく。作者側の「カッコよく見せたい」が先に見えてきて、いけ好かない印象を受ける。
カッコよさで押すのは大変に難しい。
だがしかし、チリちゃんは違う。良すぎる顔面を関西弁や、一人称の「チリちゃん」、「なはは」と笑う大きな笑顔で上手く誤魔化している。
良すぎる素材をうまく調理し、バランスをとっている。
あと1ミリでもカッコ良かったら食傷だったな、というギリギリまでカッコいいのだ、我輩の中で。
その技術、絶妙。
我輩はチリちゃんの造詣に、巧みの技を見る思いがした。

我輩は創作物のイケメンや美人が苦手だ。嫌い、と言ってもよいかもしれない。
理由は安っぽいから。イケメンや美人なんて作ろうと思えばいくらでも作れる。皆が作る。作った上に、文字でも「イケメンだ」とか「美人だ」とか言う。
やめてくれ、と思う。
ショートケーキの上にハチミツを絞るようなものだ。甘けりゃいいのか、甘さしか尺度はないのかと嫌んなる。
そんな糖の爆弾みないなもの口に突っ込まれても吐き気がするだけだ。
むしろケーキバイキングに添えられた漬物にこそ巧妙を感じる。ケーキをおかずにして、漬物を食う。我輩はそういう人間なのだ。
そんな中、チリちゃんは通してきた。
顔面の良さを、様々な愛嬌で消してきた。消す、というと語弊がある。カレーでもスパイスの刺激を野菜の甘みが助ける。相殺するのではなく、別の尺度を持ち込むことによって相対的にする。絶対的では過ぎたるものを、相対の中で絶妙の中に留まらせる。
辛さと甘さの幅が豊かで、美味しいカレー。
配合力、バランス感覚。
それがチリちゃんの真骨頂だと我輩は考えている。
「チリちゃん カッコイイ」で検索すればYouTubeに動画があがっているので、皆様も一度ご覧あれ。
ちなみに一次チリちゃんを見て欲しい。我輩のように貫かれた人々が描く二次チリちゃんは、やはりどうしても絶妙が崩れている。カッコ良すぎる。
チリちゃんの良さとは単純な格好良さではなく、絶妙の格好良さだ。そこを感じてもらうためにも、ぜひ、一次チリちゃんを。

カッコイイキャラ。可愛いキャラ。
斜に構えて漬物ばっかり食うのではなく、絶妙にさばききる気概をもって、今後は挑戦していきたい。
思えば雪子なんかがそうだったろうか。彼女も美人設定を消すことに色々苦労した。

今年のブログ更新はこれで最後になる。
年始のブログはロケハンから帰った後を第一弾としたいので、不定期でお送りする。
来年からはいよいよハルカの国・昭和編が始まる。2024年の終わりにはハルカの国を完成させたいと思っているが、どうだろうか。
悔いは残さない。ここまできたのだ、やりきる。
とりあえず、年始は物語風景を探して旅をしてまいります。

今年もお世話になりました。
皆様、どうぞ良いお年を。

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