ハルカの国 創作の記 その43

進捗報告

現状はテストプレイを繰り返しながら、全体的な調整を行っている。
調整をしていて難しいのは、ストーリーラインの強度をコントロールすることだ。ストーリーラインが強すぎると、目的に向かう力が大きすぎるあまり、狙った印象を達成できない。
逆説的なようだが、目的を持つということはあくまで手段であり、目的へ向かおうとする動きを利用することで、そこから印象というものを抽出している。それが演出の本質的な狙いだ。
たとえるなら、目的地へ向かう移動中、車窓の風景を楽しむ体験に似ていよう。あまりにも目的地への意識が強く、そこへ向かう力が大きいと、移動という運動のスピードがあがり、車窓の風景など楽しむ余裕がなくなる。
車窓の風景は目的ではないが、目的へと向かう運動の渦中において、印象となる。この印象のオーケストレーションのために、ストーリーラインの強度をコントロールしなければならない。わざと逸散させ、物語を遅くさせたり、弱くさせたり、ある意味では面白くない状態を保たなければならない。遅くて弱くて面白くないのに、心地良い。物語のリズムにおいて必要な間を確保すること。これがなかなか難しい。

漫才でも落語でも「ずっと面白いは面白くない」という。緩急と言おうか、「面白い」がやってくるまでの期待と、「面白い」が炸裂したあとの余音が必要で、これが省かれると「面白さ」はぼやけてしまう。花火だって「ひゅー」とあがって、「ドン!」となって、「しん」とする余音があっての味わいだろう。あれが「ドンドンドンドンドン!」だったら、カラフルな爆撃だ。耳を塞いで目を瞑りたくなる。
物事の「感じ」というものを成立させるには、その物事のピーク的印象を外す間というものがいる。ピーク的印象とは、物語なら面白さであり、漫才なら笑い、花火なら「ドン!」と炸裂する華やかさ、つまり「それ」と言えば「これ」という印象のこと。この当たり前の印象というやつは、実はその反対の性質との隣接によって成り立っている。
だからこそ、物語には「面白くない間」「退屈な間」をいかに上手く扱えるかという技術が必要なのである。その技術の一つが、ストーリーラインのコントロール、それも散逸させぼやけさせるテクニックだったりする。
この技術は、ストーリーラインを強めて面白いシーンを描くよりずっと難しい、と我が輩は感じる。

決戦編。
テストプレイを繰り返している我が輩としては、面白いような気がする。たまにテンションがあがってTwitterで漏らしてしまう程度には、面白いような気がしている。
ただそれはエキサイティングな興奮とは違う。
星霜編を体験してもらった読者になら届くのじゃないかという面白さ、ここまで物語を追ってきてくれた人の心には再現できるのじゃないかという印象だ。
我が輩は読者との間に、「ハルカの国・前三部作」という共通体験があると思っている。その体験の記憶を前提として、そこからさらに深めた体験を提供できればと思っている。そういう体験の深化が、固有の味わいにつながり、皆様にとっても「体験するに足るもの」になるのではないかと思っております。

決戦編。形を整えてお届けしますので、しばしお待ちを。

孤独に憩う

世代別に見ると30代が、最も孤独感を感じることが多いそうだ。
理由を推察するに、この年代が同年代との比較において一番格差を感じるからではないだろうか。結婚や就職、給料等、比較したときに彼我において持つ者と持たざるものをくっきり感じやすい世代なのだろう。
また20代とは違い、「これから変わっていく」という未来における好転への期待も薄くなっていく。そのために「現状」が固定的に感じられ、結果として「今」の比較において格差を感じると未来永劫の格差のように感じられ、その「差」というものより生ずる輪郭によって孤独感を募らせていくのではないかと推察する。
また男女両方ともホルモンバランスが崩れる時期にもさしかかる。体調不良の影響から、かつての自分が失われていく、自己像からの孤独感もあるだろう。
我が輩も孤独感を感じることは多々あるが、我が輩は孤独であることよりも他者と過ごすことの方が苦痛なので、孤独を最悪の状態とは感じない。
これは我が輩ばかりではなかろう。孤独や劣等感、嫉妬やコンプレックスを感じながらも、それを「最悪」とは思わず、甘んじて受け入れている人々は多いと思う。
あるいは「受け入れている」からこそ、「孤独を感じる」と答えることが出来ているのかもしれない。自分を「孤独だ」と認知出来ているのは、十分な冷静さをもって見つめている証拠だろう。

30代ともなると「孤独」よりも恐ろしくて、忌避すべき状態が見つかってくる。その「最悪」を避けられている見返りに「孤独」が隣にいることを、大人は潔く諦めることが出来るのではないだろうか。
「自分は孤独だ」と答えることが出来た人は、実は真に孤独ではないのかもしれない。真に孤独な人とは、人々のなかにあって「孤独ではない」ことを必死に証明しようとしている、混乱した人なのではないだろうか。
寂しさは人の世の常、悲しさは人生の故郷と言う。
孤独よりも最悪なものと出会ったことがあれば、寂寞として響いてくる孤独にも憩うことが出来るだろう。
30代とは孤独に生きることが出来ることが可能になる、そんな年頃なのかもしれない。

時間による混乱

近頃、絶好調から絶不調に陥ることがあり、その原因と過程を分析したのでここに記す。
決戦編の演出まわりを調整していて、山岳地帯の越境に力を入れた。と言っても、それほど凝った事をしたわけでもない。それでも、かつて過ごした山小屋時代を振り返りながら、二千㍍を越える高嶺での体験はどうだったかを思い出し、それが少しでもゲーム体験として蘇るように工夫をした。
そうして出来上がったシーンに大満足して、よく頑張ったなと自分を労ったのだが、仕事量に換算すると1日で終えるべき分量に3日もかけていて、それに気づくやいなや焦りに焦った。
以後、全ての作業に「こんなことしている場合か?」「もっと効率の良い方法はないのか」と時間感覚が忍び込んでしまい、作業そのものに熱中する集中力が失われてしまった。結果、何もかもが悠長な作業に思え、何もかも手が着かないという悪循環に陥り、かえって作業時間を浪費してしまった。何より、作業しなければならないのに、「こんなことしている場合じゃない」という矛盾からくる混乱で、モチベーションを大きく削がれたことには苦しんだ。

我が輩は時間というものに弱い。
没頭している作業から顔をあげ、時計を見た時にはいつも混乱してしまう。
「こんなに時間が経ってるのに、これだけしか出来てないの!?」
結果、焦るあまり集中力が落ち、余計に作業効率が落ちることを何度も繰り返している。それで以前、部屋中の時計を止めて対処していたほどだ。

時計的時間というものは、資本主義の大きな発明と思う。
本来的には質が違う比較不可能なものを、単位時間という欠片に切り刻み、その欠片どうしを比較することで質の越境を果たした。
本来、絵を描くことと、文章を書くことは比較出来る事ではないはずなのに、一時間の作業量、成果物によって仕事量という比較が可能になった。
絵と文章は比較出来ないけれど、その創造過程に必要とする時間は共通のものだから、それを元に比較してしまう。一義的な価値の尺度にはめ込んでしまう。
一義的な価値へ還元する。質の越境、定量化こそが資本主義の本質であり、その一義的価値の増大、量の増加を促すことが資本主義に備わる根源的力。
単位時間あたりで出来るだけの多くのものを――それが資本主義のテーマだ。
貨幣という一義的な価値が資本主義の本質と見られがちだが、我が輩はむしろ「皆の中で同期的に流れているとした時間」の方がグロテスクなまでに力強い資本主義の能力だと感じる。

このグロテスクな資本主義的時間というものにあらゆるものは噛み砕かれ、噛み砕かれた破片として全ては比較可能となり、本来的な質を超えて関係をもてる。
単位時間あたりの作業量という概念を経ることで、絵をかくことも、文章を書くことも、保険の更新をすることも、確定申告のレシートを整理することも、読みかけの本のページ数や、ついつい眺めてしまったTweetリストも何もかも、関係性を持つことが出来る。つまり「これやるくらいだったら、あれやったほうが生産的だった」という効率という関係性において。
このすべてとことごとく関係を持ててしまう資本主義的時間によって、全ては錯乱する。
絵を描くこと、文章を書くことはとてもシンプルなのに、時間を考えるとあらゆるものが比較対象にあがり効率や優先度を競い合う戦争が勃発して混乱する。この混乱は一度作業を始めても「あっちをやった方が良かったかも」というオルタナティブをいつまでもチラつかせ、作業への没頭を妨げる。
作業そのものではなく、時間を考えると何もかもが現れて混乱してしまう。
渾身の演出も作業量に還元され、その量の多寡によって冷たく評価される。その冷たさに、さっきまでは「良く出来た!」と手を叩いていたところ、「どうしてこれだけのものに、こんなに時間をかけたんだ!」と瞬く間に掌を返す。
資本主義的時間というやつは、とかく質というものを嫌い、還元しやすい量という尺度で物事を計りたがる。結果、出来ではなくて、枚数や文字数というカウンタブルな量で作業は評価されてしまう。出来や質をもとめた努力は非効率として否定されがちなのだ。

全てを噛み砕く資本主義的時間から、どうやって身を守るか。質や出来への献身をいかに擁護するか。
我が輩も色々と苦心している。その苦心の一つとして、部屋中の時計から電池を抜き取ったりもした。
近頃は量ではなく距離によって仕事量を計ることで、資本主義的時間からの「非効率」という否定を逃れている。
どれだけの量を創作したかではなく、既存の表現からどれだけ遠くへこれたか。今までとは「違う」ものを作ることが出来たか。バリエーションとしてどれだけズラすことが出来たか。
この差異化の努力に価値をおき、差異としての変化率を「距離」として捉え、量よりも重きをおいて評価している。
量が少なくとも、「今までとは違う表現を試みたのだ」として時間からの否定をかわしているのだ。

全てを噛み砕き、ごちゃ混ぜにしては混乱をもたらす恐るべき資本主義時間。
皆様も、何か混乱することがあれば、時間の暴力性に起因していることを疑ってみて、それぞれの対処方法を探ってみてくだされよ。

我が輩はもう、長いことコイツと戦っております。

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