ハルカの国 創作の記その42

進捗状況

☑幻痛
☑燃え石
☑迷い路
☑土人形
☑天空回廊
☑幽霊の森
☑青き墓
風立ち←作業中
淡雪

決戦編の肝となる章が終わり、残りは物語を収束させる章だけとなった。ようやく終わりが見えてきたが、スチル制作と諸々の編集が残っているので、まだまだ予断は許されない。
三月一杯で立ち絵制作とスクリプト作業を終わらせ、四月からは大詰めに入っていく予定だ。
確定申告やら免許更新やら、なんやらかんやら煩雑なことを三月頭に終えたので、あらためて決戦編完成までは集中して作業をしていきたい。
ただこの頃、体調が安定しない。季節の変わり目で、寒いのやら暑いのやら、身体の理解が追いつかず疲れてしまう。待ち望んだ春だというのに、身体が季節にノリ遅れている様子。年々、季節の変わり目に遅れをとるようになってきた気がするのは、やはり歳をとったということだろう。
もちろん、我が輩は老いたと言えるほどはまだ歳をとっていない。が、二十代の時とは違う身体を、三十代も中頃に差し掛かってつくづく感じる。
我が輩はまだ老いてはいない。が、かつての我が輩とも違う。変わっていく自分の身体を、お前は俺なのかと、ぎこちなく認めながら生きている今日この頃である。
しかしいけない、大正編以後、半世紀以上生きている人物たちばかり書いているから、どうにも視点が萎びてくる。
ハルカの国が終われば、再び若人の物語へ戻る。その時、ハルカの国で染みついた老いが抜けるのか、今から心配だ。

国シリーズの後

先日、「日本教科書体系」というシ図鑑リーズを探し求めたら総額百万近くしたので断念した。
DVD形態の電子書籍として七万円近くでもあったが、図鑑の類いの電子書籍は避けている。インデックスをクリックして、望む情報だけ閲覧するには長ける電子図鑑だが、「何を望んでるやらわからないが、パラパラめくり、面白そうなものを見つけては芋づる式に知識を得ていく」という、多方面からの情報の蚕食には壊滅的に向いていない。
近頃の電子図鑑はそれが改善された傾向もあるが、古い電子書籍は情報のぶつ切り感が強く、知的欲求の牽引力が乏しい。我が輩はこの経験を「日本の食事聞き書」全書における電子書籍版でくらっているので、電子図鑑に対する不信は根強い。まして七万円も払ってまで「試してみる」勇気はない。
余談になるが、我が輩は前世紀の図鑑の収集癖がある。ブックオフなどに、故人の遺品整理としてそのまま運び込まれたような、昭和中頃の図鑑の数々などは、生活の匂いも染みついて実に良い。油紙がまかれた、買われてから一度も開かれていないような大きな図鑑が、一冊数百円ほどで売られているのだから有り難い話である。前世紀の古い情報や、古い時代からの未来(現代)に対する予言や、期待、懸念などを読むと、「それはこうなりましたよ」「残念、そうはなりませんでした」「なかなかの慧眼をおもちで」と他所の匂いの染みついた文字と対話出来て面白い。
「歴史とは、過去と現代の尽きることのない対話であり、決して凝り固まった記録ではない。Live感のある現象なのだ」的なことを「歴史とはなにか」の著者であるE・H・カーが言っていたような気がするが、前世紀末の本など読むと、前世紀人の不安や期待との会話は実によく弾む。彼等の予言に対して、こちらだけ答えを知っている優越感もあって楽しいものだ。
皆様もブックオフに立ち寄ることがあれば「彼等」との対話を求めて、古ぼけた図鑑を求められてはいかがか。

逸れた話を戻すと、何故百万もするような図鑑シリーズを求めたかと言えば、日本人がここ百年間で何を教えられてきたのかが気になったからだ。何を幼少期に「正しさ」として教えられ、常識として社会のヘゲモニーを形成してきたか。それはどう移り変わったか。移り変わりの力学とは何か。それらを知るのに、「ざーっと眺めていて面白そうなもの」と思い、「日本教科書体系」が欲しかったのだ。

国シリーズがいつ終わるかは未だ予定がたたないが、死ぬまでかかるとも思っていない。国シリーズが終わったら何をしようかと時折考える。考えるのは時折だが、このトピックについては国シリーズの創作を本格化した五年前よりずっと考えている。
端的に表すならば「死ぬまで何をしようか」という題目。
物語を書き始めたのが二十歳の頃で、以来、ずっと「物語のために何か」をしてきた。旅行も読書も仕事選びも、「物語のため」と思って選択し、決断し、実行した。
「物語のため」と思っているからこそ、我が輩の過去は積み重なっている。このパースペクティブがなければ、我が輩の経験は川原の礫石のごとくバラついていて、取り留めが無い。我が輩は律儀なA型人間なので、物事が煩雑だと落ち着かない。部屋は汚くても構わないが、自分の過去が散らかっていると不安になる。その整理術としても、やはり目的という視点、ここから眺めれば散らばっているように見える石ころも模様をつくる、という観測点が必要なのである。そういう眺めを「安心」としてかれこれ十年以上生きているので、そういうものがなくなると大変不安だ。
そういうわけで、国シリーズからふと頭をあげた時など、「これが終わったら次は何をしよう」「どんなことに夢中になろう」と考えるのである。
そう考えた時、やはりこの頃感じるのは、「大きいのは、次が最後じゃないか」ということ。
国シリーズも「みすずの国」の発表からそろそろ十年が経つ。二十年ものにはしたくないが、十年以内に終わらせるという当初の目標は大きく裏切りそうだ。
そう考えると、国シリーズの後、まだ創作を続けられる環境が続いていたとしても、長編は次が最後だろうと思うのだ。いくら環境が許しても、我が輩自身のリソースが無限ではない。
そう感じるからこそ、「国シリーズが終わったら何をしようか」というトピックには、都度都度真剣に思い悩む。

現状は「○○の歌」というシリーズで、日本のある時代、ある場所、ある人の一年間の暮らしを切り取り、物語的ではないかもしれないけれどとにかく一年間を描写してみたいと考えている。日本の歴史という四次元空間に散らばる一年という印象を一つの単位とし、その印象をつなげて「感じ」を出す。そういう物語に興味がある。
それは1987年に地方で生まれた我が輩にとって、「俺が見たり聞いたりしてきたものは何だったのだ?」という総括にもなる。たぶん総括がしたいのだろうと思う。ただし、「営み」という強い主観を転がしながら、中心を作らないリゾーム的な体系としての総括を。
と言って、我が輩にも限界があって、やはり前後五〇年くらいまでしか体感を伸ばせない。昭和初期~令和の終わりくらまでが、我が輩にとってリアリティのある営みを描ける限界だろう。

国シリーズ以後については、年々、アイディアは移り変わっていくので上記した通りのことが達成されることはまずないだろう。
国シリーズを終えて力尽きることも十分考えられるし、現状、「国シリーズさえ完成すればあとは野となれ山となれ」という精神状態なので、都度都度真剣に考えるにしても、その度忘れるくらいのことだ。
ただ「国シリーズが終わってもまだやる気が残っていたらどうしよう」と考える時、上記のようなものなら「集中できるのじゃないか」と思うわけだ。
どちらかと言うと「諦めがつく」という感じに近いか。

ポケットモンスター、旅の初まりに三つのポケモンが一つを選ぶ。所謂御三家の選択。今では何を選んだってその後に他の二匹を獲得出来る機会も増えたが、我が輩が遊んだ初代は「最初の選択」は「最後の選択」でもあった。マジで「そいつ」を選んだら「こいつと旅にでる」わけで、「こいつと旅を終える」ゲームだった。少なくとも小学生だった我が輩にはそうだった。
その選択はむしろ「一つを選ぶ」というより「二つを諦める」という決意であり、これから歩く道の両脇をそぎ落とす覚悟だった。
国シリーズの後を考える、というのは、我が輩にとっては「最後なにに懸けるか」を考えることであり、描写の角度をかえれば「どの物語を諦めるか」ということだ。
他の創作者もそうだろうが、我が輩だってアイディアだけなら結構ある。しかしその全てを形に出来るリソースは我が輩にはないだろう。
諦めることで成せることがある。
しかしやはり、諦めるというのは覚悟がいる。

いつかその時が来た時には、指針を持っておく。
そのためにも、今のうち、本懐の脇で「ヒトカゲはこんなか」「ゼニガメはこんなか」「フシギダネはこうか」と色々妄想にふける。そのための参考資料として「日本教科書体系」を求めたのだった。
もっとも、本懐の脇で色々調べることも、大方は本懐である国シリーズに吸われてしまい、「国シリーズでやったからもういいや」とアイディア自体が没になることがほとんどだ。

三十路を過ぎると何が出来るかではなく、何をしないかが人生の質を決めよう。
皆様も「他の二匹を諦めるための努力」していらっしゃるだろうか。

決戦編は予定では五月末に完成する。発表は余裕をもって六月初頭~七月と見積もっておきたい。今回の物語は皆様にどう思われるだろうか。意図したことが成功したとして、それが皆様にとって「何か」になるか。不安のような、期待のような、気持ちでおります。

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