半分は人間

つい先日、桃太郎について考えた。
桃から生まれた桃太郎。仲間を増やし、鬼ヶ島、悪党やっつけ宝の山。
ここまで削がなくとも、簡易に語ろうとすればペラ一枚に収まる物語だと思う。
この桃太郎。
実際、見開き二ページに収めたとして。
これをフォトリーディングが出来る読者が読んだ場合、物語体験としてはどうなるのだろうか。

御存知の通り、桃太郎は時系列をもつ物語だ。
川から桃が流れきて、お爺さんお婆さんが割れば中から桃太郎、やがて成長した桃太郎は立派な青年となり――と情報の順序、つまり情報入力のタイムラグによって物語として成り立っている。
物語として成り立つ、というのは、情報入力にしたがって「読者の心が動く」ということを指す。ただ事実確認、情報認識をしている、という意味ではない。
お婆さんからもらったきび団子、これがどう桃太郎を助けるだろうか。
猿がきび団子を欲しがる――なるほど、ここでか。
次に犬が出てくる。これはさっきと同じパターンだから、ほらやっぱり。
雉が出て来た時にはもう御約束。
さて家来三匹を従えて鬼ヶ島、どんな鬼がいるのだろうか、その鬼を桃太郎たちはどう倒すのだろうか――。
まぁここまで桃太郎にハラハラドキドキ、エキサイトする読者もいないだろうが、やはり物語は情報入力の順序によって意味を成している。つまり読者の心を動かしている。

では「時系列」「情報入力のラグ」を構造的に必要とする物語が、フォトリーディングとして同時に情報取得されてしまった場合、機能するのか否か。
物語体験として、順々に読み進めていった時のようなエキサイト、心の動きというものは起こるものなのかどうか。
これについてしばし考え、Twitterでも呟き、助言も頂いた。

で。
一応、自分の中で納得した答えとしては、「情報の入力」と「取得した情報の構築」はプロセスが違うということ。
つまり、「人間は情報を取得した瞬間意味を理解するのではなく、それを構造的に組み上げていく過程で意味を理解していく」ということ。
パズルをモデルとして考えるとわかりやすかった。
2000ピースのパズル。バラバラの状態で渡されても、それがどんな絵なのかはわからない。
ピースそれぞれの関係性を理解し、組み上げ、全体を構成して「あ、アナ雪のパズルだったんだ」とわかる。
情報はパズルのピースと同じで、入力されただけでは意味をなさない。何らかのルールに従って組み上げられた〝関係性〟として意味が生じる。
そう仮定するならば。
仮にフォトリーディングによって桃太郎の情報を一瞬で入力したとしても。
その情報処理、構成していく過程で前後関係は認識され、それが物語体験として成り立つのではないか。
近未来。
人間の脳に直接情報を流し込める時代がやって来たとして。それが一秒間に1ギガバイトの情報入力を可能にしたとしても。その情報処理の際、時系列が発生してしまうために、物語体験は生き残るのではないか。
そういう答えで今のところ、我が輩は納得している。

絵本の読み聞かせが、幼児期において脳の発達を促すと聞く。
これは恐らく、情報入力の速度がスローペースであるために、情報処理、構築にたっぷりと時間をかけることが出来、構築していく過程を楽しめるからだろう。
次に何が起こるのかという期待や不安を味わう時間があるのだ。
期待や不安を味わうには、情報処理した後、自分の中で構築されたものをしばし眺め、味わう時間が必要なのではないだろうか。そういう時間が、脳には刺激的であり、かつ創造的であるために、脳の発育に貢献するのではないだろうか。

情報入力と情報処理・構築にはラグがある。入力と同時に処理し理解するわけではない。
こう考えると、絵本でなくとも、適切な情報処理の時間は必要なのだろう。
「読者の時間」を設けるのは物語とって大切なのだと改めて感じた。
メインストーリーを外すシーン、ストーリーのエンジン、その回転数を落とす瞬間、ある意味では「エキサイティングではない」シーンも物語には必要なのだ。

昨今では手軽に消費出来る物がもてはやされる。
が、それらは簡易に理解できるものであり、単調で味気ないものも多い。
そもそもパズルのピースが少ない。四枚しかなくて、一枚見た瞬間、後は想像がつく、とか。
パズルのピースは多いのだけど、その関係性が単純で、前と後ろに凸凹がついているだけ。これも「後はこの繰り返しでしょ?」と途中で結果がわかる、とか。
パズルのピースも多いし、関係性も多少複雑なのだけど、懇切丁寧、通り越して、お節介なほど解説がつき「体験としてつまらない」、とか。
分かり易さ、理解のし易さ、処理が簡易であること。必要なことではあるだろうが、そこに尻尾を振るあまり、物語体験として味気ないものになってはいないか。
消費しやすいけど、味わいがない。そういう進化を遂げることで、物語という体験が矮小なものになっていってはいないか。
情報処理という楽しさ。
未知のもの、見えていないものを理解しようとする人間の生理。
そういう読者、あるいは人間という力を、改めて考える機会となった。

人間という現象

情報は読者のなかで処理され、構築され、意味をなす。
とするなら、物語は物語だけでは意味をなさない。物語とは情報群であり、それらは人間という処理システムを待っていることになる。
つまり物語とは、人間との間でおこる〝体験〟を目指すものだということ。
物語と人間の間でおこる〝現象〟こそが本質であるということ。
物語だけでは「半分」だということ。
人間という「処理システム」なくして物語は目的である〝体験〟に昇華されないということだ。

人間なくして。
読者なくして。
こういう思いは昔からあった。物語(という情報群)は読者の中で完成する、と。
面白い物語を書きたいと思う。
そう願った後にとれる行動は二つ。
物語を考えることと、人間を考えること。
言い換えれば、情報群を考えることと、その情報がいかに処理されるかを考えること。
これらは表裏であり、片方を考えることはもう片方を考えるということで、一繋がりなのであるが、便宜上分けて考えた方が整理し易い。

今回、我が輩が語りたいのは「人間を考える」という方向性であり、この方向性の面白さ、味わい深さを、我が輩なりに感じてきた事柄で紹介してみたい。
上記した「桃太郎」はその一例でもある。

歯形

原著がフランス語の学術書がやたらと読みにくい。
もちろん、我が輩はフランス語はちんぷんかんぷん。翻訳されたものを読む。
が。
日本語に翻訳されていても読み辛い。
最初は翻訳家が悪いと思っていたが、トマピケティを読んでみても、エマニョエルトッドを読んでみても、同じ様に読み辛い。
「○○ということが証明されたからといって、△△であると言うには十分ではないものの、その可能性を示唆する傾向としては一定の価値がある」
とかね。
これが終始続いてるものだから「文章の中で一回否定したことを、もう一回すくってくるなよ!」と悲鳴を上げたくなる。
英語が原著だとこういうことがない。フランス語だけやたらと読み辛いのだ。

なんでだろうなぁ、と悩んでいて、最近読んだ本のなかに「あ、これかもな」と思える説があった。
曰く、「デカルトが『方法序説』をラテン語ではなくフランス語で書いたために、その後フランス語は哲学を論じることが可能な言語とされた」「そのためにフランス語は『明晰かつ判明』が指標となった」というもの。
このためにかなり細かい加減にまで言及され、繊細さを保ったまま濁りを排除しようと努める文章になったのかもしれない。
哲学という形而上的な物事を扱うには、必要な処置だったのだろう。

が、我が輩にはそういう前もっての文化がない。
文脈がない。
我が輩の処理系統が、「フランス的な」情報に適していないのだ。読んでも読んでも頭に入ってこない! 寝落ちがひどい! というわけで、「21世紀の資本論」は読むのに半年かかった。

一方で。
例えば「なろう系」と呼ばれる小説群。
異世界転生や数値化されたステータスなど、本来は相当ぶっ飛んだ設定なはずなのに、ほとんど説明もなく、なじませる過程もなく、物語のなかで当たり前のように展開していく。
それで読者の方も理解出来ている。
これは読者の情報処理系が既にそういう「型」をもっているために、複雑かつ特殊な情報を簡易に処理出来るからではないだろうか。
つまり読者の時代背景、文化背景、個人の文脈と親和性があるために、本来的には入り組んだ情報もすんなりと入ってくる。
物語と読者が合致している、情報群と情報処理系が合致しているというわけだ。

人にはそれぞれ情報処理の「癖」があると感じる。
アルゴリズムと言うよりは、もっとざっくりとしたもの。好みのようなもの。
今までの処理過程で培われてきた「癖」。
それに沿う情報はとても処理がし易い。
フランス語の背景を持ち得ないために、まどろっこしい言い回しに馴染めない我が輩。
なろう小説を読み慣れている故に、異世界転生を即座に飲み込める読者。
これは偏に情報処理の「癖」と情報が一致したかどうかで生じる違いではないだろうか。

このような読者がもつ情報処理の「癖」を、「歯形」と呼んでみたい。
草食動物は葉や茎をすりつぶす奥歯が発達した。
肉食動物は肉の線維を噛みきる前歯が発達した。
それぞれに発達した歯は、得意分野が違うというわけだ。
歯形は上記したように文化的背景、歴史的背景、個人文脈としての背景に大きく影響を受ける。
古典作品などを読んでいて、人物の心理を追えない時がある。これは時代背景が違うために歯形が異なり、現代に生きる我々ではすんなりと咀嚼、消化、吸収できないという場合が多い。
我が輩の経験で言えば、夏目漱石の「こころ」。
先生とKとお嬢さんの三角関係を描くのに、カルタをする場面がある。
大人がカルタ? とも思ったし、なしてカルタでKとお嬢さんが組んだくらいでジェラシーを燃やすかねとも思ったが、カルタには文化的背景があったのだ。
男女のつき合いが現代ほどカジュアルではなかった当時において、「カルタ遊び」は「許された男女の遊び」であり、そこで手が触れあったり、男女協力があったりして、関係が始まるわけだ。
現代で言うところの、出会いを求めて参加するコンパみたいなもの。「カルタ」は多少なりとも「男女」という性の匂いを帯びていた。
似たようなもので山形には昔、川原で行われる芋煮祭りの時のみ男女同席が許されるとして、学生達の出会いの場となっていたというものがある。
一見、男女や性とは関係ないようなカルタや芋煮にそういうニュアンスがあることは文化的背景、つまり歯形がなければ味わえないものであるし、その文脈を踏まえての展開も理解が難しい。
明治・大正のクラシックから更に遡り、源氏物語や枕草子を読んでみると、「出てくる連中ほとんどクソ」と思えるような倫理観のない世界に打ちのめされる。この倫理観もまた「歯形」であり、時代や文化という環境に依存するもので絶対のものではないために、こういうことが起こる。
ちなみに。
我が輩は過去の作品や過去の歴史を、現代の倫理観というサーチライトであぶり出し、裁きの場に引きずり出すような無益で無粋な真似はしない。
倫理観、道徳観はつねに変化するものであり、過去を裁くということは、未来に裁かれる覚悟をするということで、我が輩にその覚悟はない。
50年後には動物の死骸から肉片を切り取り咀嚼し、その骨を茹でて汁をすすっていたことが大変野蛮な行為で、モザイクなしには公共放送に流せない世界になっているかもしれないが、だからと言って我が輩は焼き肉を食ってビールを飲むこともやめないし、シメのトンコツラーメンを啜ることもやめない。やめるとすればそれは未来の倫理感に阿るわけではなく、単純に健康への配慮からだ。

「歯形」に話を戻そう。
「歯形」は時代、文化、個人文脈というあらゆる背景によって形成され、その噛み合わせが異なる。「歯形」によっては味わいが異なってくる情報というものがある。
つい先日、懇意にしてもらっている同人作家さんと話す機会があった。
創作論、表現について何時間も喋り続けたが、その中で「ノベルゲームの背景」について意見を交わし、その背景のために表現が制約を受けることについてお互いの主張をぶつけた。
つまり「ノベルゲームはギャルゲーという文脈があるために、非処女はカウンターカルチャーとしてしか成り立たない」というものであり、「非処女のヒロインは一般市民権を得ていない。何らかのメッセージ性を含んでしまい、否応なくそのメッセージ性において読者に捉えられる」というものが我が輩の主張だった。
御相手の名誉のために言っておくと、御相手は「そこまで神経質になること?」と我が輩ほど「処女」「非処女」について熱量を持っていなかった。
今、こうして改めて文章にしてみると、三十そこそこのオッサンが女性の性体験の有無について熱弁するというのはどの角度から眺めていても間違いなく「キモい」し、性体験の有無で女性の価値を論じるなどセクハラも甚だしいのだが、弁明させてもらえるなら言っておきたい。
我が輩個人はそんなこたぁどうでもいい。
ただギャルゲーという背景をもつノベルゲームの「ヒロイン」を扱う上では、配慮が必要な項目だと考える、というだけだ。
とは言いつつ、考えるからには我が輩も「ギャルゲーの文脈」というものを受け継いでおり、その「歯形」を口内に宿し、ノベルゲームを味わう時にはその歯でもって噛み噛みしているのは否めない。
「処女じゃないとヒロイン失格!」、なんてことは思わないが、非処女であることに「保守派」に対する何らかの挑戦を読み取ろうとしてしまいがちなのは確か。
「ギャルゲーという文脈に挑んでるのやね」というカウンターカルチャーを読み取ってしまいがちなのは確か。
純粋な人物描写として受け取ることなく、「ギャルゲー」という文化背景を客席においたパフォーマンスなのだと解釈してしまう――傾向がある。
小説や映画でなら何とも思わない「非処女」も、アニメや少年漫画、ノベルゲームで見かけると「保守への挑戦」を読み取ってしまう。これは我が輩がアニメや少年漫画、ノベルゲームを「男の子向けにつくられた娯楽という文脈がある」として捉えているからであり、つまりそういう「歯形」を持って咀嚼しているからだ。

ノベルゲームにおける「処女性」の話は脇に置き。
興味深いのは個人で差のある「歯形」が、個人間だけではなく、何を食べようかという前置きが違っても「歯形」が異なるようだということ。
上記したように一般文系だったら何とも思わない「非処女」も、ノベルゲームだと「意味深」なものとして味わってしまう。
他にも「純文学」だったら評価される描写が、「エンタメ」だと退屈だとして貶されたり。
同じ人が読むにしても、少年誌に求めるものと、青年誌に求めるものが違ったり。
まるで入れ歯をかえるように、これから何を食べるかによって前もって「歯形」を取り替える。そういう傾向が我々にはあるのではないか。
もう一度確認しておきたいのは、「歯形」とは情報処理の方法。
人はいくつかの「歯形」を持っていて、向き合うものに従って「歯形」をかえ、咀嚼を開始する。
こういう傾向があるように我が輩は感じる。
このためにも、「歯形」を意識することは作品づくりにおいて重要であると我が輩は考えるのだ。

何も「歯形」に合わせたものだけ作れというのではない。カウンターカルチャーのように、歯形に合わずゴリっと口内に違和感を残し、「おや?」と思わせるのもテクニックだろう。
どうするにしても相手の歯形を意識しなければ、〝効果〟を期待できない。
物語をもって目的の〝体験〟へと読者を導くことは出来ない。

人間への探求

読者の研究。
歯形の研究。
つまりは時代や文化という文脈を研究すること、読者がおかれた環境を多角的に観察してみるということ。
人間を考えてみるということ。
これが物語づくりと同じくらい、面白い。

考えても考えても手元で物語が出来上がっていくわけではないし、成果は実感し難いが、いざ作品をつくる時に読者を感じながら創作出来る――時がある。
如何せん、他人の考えていることはわからないので、ほとんど自分の感情をサンプルとしているが、「何故、俺はこう感じたのか」「どうしてこれが好きなのか」「嫌いなのか」を突き詰めていくと、ある瞬間、はっと「人間がわかった」と思える瞬間があり、この瞬間、自分だけが使える魔法を思いつけたような興奮がある。
興奮は三十分後くらいに消えてなくなるが、興奮が冷めた後でも「魔法」を駆使して物語を紡いでみるのは「実験」をしているような楽しさがある。
こういう「試みる楽しさ」なくしては、一人黙々と作業する創作はなかなか耐えられないのではないかと我が輩は思うのだが、他の方々はどうなのだろうか。

最近は冒頭で語ったように、「受け立った情報がいかにして読者のなかで組み上げられるか」ということを主に考えている。
三幕構成だったり、起承転結だったりと、物語内における情報デザインが、どう読者の情報処理を助けるかを考えている。
専門家でもないし、専門家になりたいとも思っていないので、我が輩のなかで納得出来ればそれでいい。独自の感覚として腑に落ちれば満足であり、自分の仮説を証明するつもりもない。
「こうだ!」と思っていたことがひっくり返ることなど頻繁なので、あまり声高に独自理論を展開すると恥をかく。
だからひっそりと「俺はこう思ってるんだけどなぁ」と腹の底に抱えている。

間違うかもしれないが、止めることも出来ない「人間への探求」。
物語創作だけではなく、人の世に生きる限りは必要な挑戦だとも思っている。

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