ハルカの国 創作の記その8

この度よりブログの執筆スタイルを変える。

今まで月一度の更新を目指していたが、今後は月に三度、1日、10日、20日の更新に変えたい。

更新は増やすが、内容は増えない。今まで一度に語っていたことを三分割するのである。

1日は時事ネタやフリートーク、10日はハルカの国進捗と今後の活動予定、20日は物語論について語りたい。

月最後の20日更新はファンティアにて公開していく予定。

 

分割の目的は「もっと活動しているように思われたい」からである。

忘れられるのが恐いのである。かまって欲しいのである。皆様の脳裏に、月三度、浮かび上がりたいのである。

許して欲しい。

 

この度語るのは、「年金崩壊」について

 

先日、朝日の一面で「政府による自助努力の推奨」が掲載され、Twitter界隈でも賑わった。

老後の備えとして年金だけでは十分とは言えない見通しがある。

そこで国民それぞれが自助努力をして人生100年時代に備えてくれ、と政府から声がかかったのだ。

これには多くの方が憤りを感じたことだろう。

 

「何のための年金なのだ」

「自助努力するから払ってきた年金返せ」

「貰えもしないもの、なんで払わなきゃならんのだ!」

 

TLを眺めていても怒りと憎しみが犇めいていた。

記事では「年金が貰えなくなる」とは書いてなかったが、ネットでは拡大解釈がすすみ「年金制度は崩壊する」という論調に発展していた。

 

日本は年金後進国と言われている。

年金制度は他の主要国と比べて、非常に脆弱だ。この根拠は後に示すが、「やべぇ」のは疑いない。

 

ではネット上で予言されているように2025年問題とともに崩壊は始まり、我々が受給者となる未来には崩れ去っているのだろうか?

 

我が輩の見解を先に述べておく。

年金制度は崩壊しない。が、貰える額は減るし、受給開始年齢は引き上げられる。

なくならないが、現状より確実に〝しょぼく〟はなる。

この結論に至った経緯と、エビデンスを以下に示す。

そんなの興味ねぇし、同人ノベル作者がブログで何語っとんじゃ!、という方は最後だけ見てくだされよ。

何故我が輩が〝こういうこと〟に興味を示すのか、「国シリーズ」に絡めて説明する。

 

年金不滅説と年金崩壊説

 

まず我が輩は両者の意見を読み進めてみた。

が、これは埒があかなかった。

 

年金不滅説の言い分として、厚生労働省の論説を眺めてみたが釈然としない。

年金について「楽しく学べる」形式の漫画が掲載されていたが、数字や制度説明がゴチャゴチャしていて理解できない。

最終的に厚生労働省を擬人化したようなキャラがニコニコして「だから大丈夫なのです!」的なことを言って、「そっかー」「なるほどぉ」と他キャラを説得しているのだが、「ぜんぜんわからん」で終わる。

 

詳しく知るために資料の閲覧ページにとび、マクロスライドやら所得代替率やらを読みときながらすすめると、大丈夫な気がしない。

出生率と経済成長の二点が年金の「大丈夫」に大きく関わってくるのだが、今後の見通しで「経済の成長率が高い場合」+「出生率が回復しそれを維持する場合」のみ、年金制度が健全に持続しそうな可能性が見える。

「経済成長率が低く」+「出生率が回復しない場合」は2052年に積立金はなくなると※で追記されていた。

我が輩はこの資料をみて、あの漫画が何を根拠として「大丈夫!」と言っていたのか、甚だ疑問であった。

 

翻って、年金崩壊説。

こちらは2025年問題(団塊の世代が後期高齢者となり、日本の社会保険費用が未曾有の領域の突入する)を中心に、「終わりだ!」「どう考えても持続の可能性はない!」と叫んでいたが、多分に感情的で「数字がねぇな……」と思い、途中で断念した。

 

第三者の見解

 

年金不滅論にしろ、崩壊論にしろ、お互いがお互いの政党を応援演説している趣があり、どちらかの肩をもとう、という気にはなれなかった。

そこで我が輩は利害関係の薄い、海外のコンサルティング会社が出している、年金評価システムを頼ることにした。

 

マーサ-と呼ばれるグローバルコンサルティング会社が、主要国の年金制度を毎年評価していたので、ここの数字を参照する。

 

2018年度のランキングでは、日本は34カ国中、29位。

現行のままでは長期的な持続可能性を疑問視される、Dランク。ちなみにその下にあるEランクには該当国はない。

マーサ-が示した表を以下に掲載しておく。

 

 

散々な評価の日本年金システムだが、喜ぶべきこともある。

2017年度より、2018年度の方が評価は上。つまり改善が見られるのだ。

コングラッチュレイション! ジャパン!

しかし祝杯をあげるわけにもいかない。

 

注目して欲しいのは「持続性」の項目。

長期にわたって現行の年金システムが続いていくかを計る指標だが、この値は日本が最低値をたたき出している。

ランキングに載っている国のなかで、日本がもっとも「このままは続かなそ~」なのだ。

 

この結果を見て、我が輩は先に書いた見解に至った。

年金は遠くなるし、しょぼくなる。

受給開始は遅くなり、所得代替率は下がる。

崩壊というドラマティックなことにはならないだろうが、現状は維持できない。

 

我々が出来ること

 

この怒りと憎しみ、通り越して悲しみは誰にぶつければいいのか?

社会保障問題に犯人捜しをしても仕方ない、と誰かは言う。犯人を見つけて、袋だたきにしたところで、改善があるのか? 溜飲を下げるだけではないのか? と。

しかしもはや「溜飲ぐらい下げさせてくれよ、こんちくしょう! こんなのあんまりだ、こんなのあんまりだ……!」と泣きたくなるような現状ではないだろうか?

犯人捜しなんかしても仕方ない、じゃない。

こんなクソみたいな現状に正論なんかのたまって仕方ねぇんだよ! FU○K! なのだ。

特に此度の記事で年金制度の現状を知った方の衝撃と、その後に押し寄せてきた怒りと悲しさが一入であることは、察してあまりある。

 

我が輩は年金制度については元より懐疑派だ。

海外の保険を売り込む黒寄りのグレー商売にいっちょかみしていた時代もあるから、「年金制度の脆弱性」は一般の人々よりは通じていたと思う。(この脆弱性を煽って、恐怖心をふくらませ、保険を売り込むのが手口なのだ。ちなみに、我が輩は売り歩いたことはない。この保険売り込みグループはイケメンだけで構成され、出会い系サイトでナースを中心にデート商法をしかける輩であったから、イケメンではなかった我が輩ははじかれたのだ)

この度の朝日新聞の記事に関しても、「おう、知っとったで」くらいにしか思わなかった。

怒りが湧かなかったわけでもない。

前から「ふざけた制度でこっちの懐から金抜きやがって……!」と思っていたから、改めて湧くことはなかったのだ。

 

この怒りと悲しみの矛先を誰に向けようか。

年金システムなど崩壊させて、我々の金を政府から取り戻すことが一番だろうか?

我が輩は、そうは思っていない。

現行の年金システムをいきなり崩壊させたら、多くの高齢者達が生活破綻を起こす。この破綻した高齢者を支えるのは、高齢者の子供。つまり我が輩たちの世代だ。

「俺の親はまだ年金もらってないから関係ないよ~ん」ではすまない。

生活破綻者が生活保護の方に流れれば、社会負担が膨らみ、結局、それは現役世代の負担となる。

恐らく、生活破綻者を支える方が、犯罪リスクなどを考えると、年金で支えていた頃より負担は増すだろう。

年金制度を消したところで、〝国として〟支えなければならない人々は消えない。我々も国民である以上、〝国として〟振る舞い続けなければならない。

 

では我々に出来ることは無いのか?

即効性はなく、溜飲を下げるには地味だが、いくつかある。

最たることは選挙にいくこと。世代としての投票率を上げることだ。

前回の衆議選挙における世代間投票率を調べた。

10代(18才より投票可能) 40.49%

20代 33.85%

30代 44.75%

40代 53.52%

50代 63.3%

60代 72%

70代~ 60.94%

 

二十代、十代、三十代の順で少ない。

端的に言えば、「二十代は何も言わんからほっといていい」と見られている――かもしれない。少なくとも政府から見れば「一番大人しい連中」ではある。

 

どの政権に投票したらいいかわからない、どこの政権もまともに見えない、という意見はごもっとも。しかしどの政権を支持するかが大切なのかではない。世代としての投票率をあげ「我々は黙ってない。お前達をみてる。ふざけたことをしてみろ。引っ繰り返すぞ」と思わせるのが大切なのだ。投票しないくらいなら、白票でもいい。

「監視してるぞ。動く準備は出来ているぞ」とプレッシャーを与えることが肝要なのだ。

 

また選挙というものは「まともな政権を選ぶ」ものではない。

一つの格言が前回のフランス大統領選挙で生まれたので紹介しておく。

「私はマクロンに投票したが、マクロンを支持したわけじゃない。ペストとコレラ、マシな方を選んだだけだ」

民主主義政治とはそういうものだ。貴方にとって「素晴らしいもの」はない。誰もが「仕方ない」と諦められる落とし処を見つける、それが民主主義の理想なのだ。

 

世代として〝重くなる〟〝煩くなる〟。

これを行うのにもう一つ、選挙より手短で、手っ取り早い方法がある。

つぶやけばいい。

TwitterをはじめとしたSNSで〝どう思ったか〟を感情として発露させるのだ。

「むかついた」「腹がったった」「悲しくなった」「泣けてきた」

そんな単純な感情発信でいい。

 

感情を吐露したところで何の解決にもならないじゃないか。解決案も犯人も示せていないではないか、と思われるか。

 

今回のことに解決案などない。犯人もいない。

いるとすれば「世代間格差」くらいで、出来ることは「世代間格差を横行させないように」見張ることだけ。

日々の生活のなかで政府を見張るには気力がいる。動機がいる。感情がいる。

だから自分がどう思ったかを発信していけばいいのだ。

 

実際、我が輩は朝日の記事を見てもどうも思わなかった。上記した通り、「だろうよ」と前々からのいらつきを再認しただけで終わった。

しかしTLに反響を巻き起こしていたので、この度はブログにまとめてみることにしたのだ。物語作者としても、「世代間格差」を改めて考えなければならないとも思った。

Twitterに吐露された感情が、少なくとも我が輩を動かしたのである。

 

悪しき方法かもしれないが、人は理屈より感情で揺すった方が動きやすい。

(だから保険売り込みではエビデンスっぽいことをべらべらーっと喋った後、ねっちりと恐怖を脹らませるようなエピソードトークをする)

これは人が馬鹿だからではなく、感情を受容する能力に長けているためだ。怒り、悲しみというネガティブイメージは生存本能に直結するので、伝搬しやすい造りになっている。

 

これを悪用してはならないが、自分の気持ちを主張することは悪用にはあたらないと思う。

その主張に賛同してくれる者、そこからエネルギーを得るもの、問題意識を持ち始める者、多くの反応があるはず。

 

SNSやら何やらで、どこまでも繋がりあっている世界である。

我が輩は〝共有〟が煩わしくして、適度に〝非共有〟の時間と空間を設ける。

何故煩わしいかと言えば、我々が繋がっているのは〝感情〟に依ってだからだ。

他者の感情を受容してしまうがために、心の中が煩くなって、我が輩には煩わしいのだ。

が、そういうマイナス面はともかく、SNSとは感情という磁力を帯びた〝貴方〟を発露し、他者に影響を与えることが出来る場であることは確かだ。

反発する者もいるだろうが、引きつけられる者もいる。

強く引きつけられなくても、貴方の登場でポジショニングが変わる者は少なくないだろう。

人は人に影響を与えずにはいられないし、影響を受けないことも出来ない。

 

我々の発信が磁石で、世論は砂鉄が描く模様。

それくらいに考えていいと思う。

リツイート、いいね、もされないけど、磁場に影響は与えているのだ、確実に。

 

何故、語る?

 

同人ノベゲー作者がブログに綴るネタか? と思うかもしれない。

そもそもこんな事気にしてる暇あるならゲーム創作に集中しろよ、と思われる方もいるかもしれない。

ただ社会問題、時事ネタをこちゃこちゃ弄くり、データを集めたりするのは、同人作者として無駄にはしていない自負がある。

 

物事を調べる、エビデンスを揃える、数字を探す、弄くり回すというのは、「ごっこ遊び」なのである。

今回のことも、「ハルタごっこ」「猪飼ごっこ」「トシさんごっこ」「三十代の美鈴ごっこ」としての、ロールプレイングでもあった。

 

ハルタだったらこういう数字を調べるのじゃないか、猪飼だったらこういう情報はチェックしておくのじゃないか、トシさんだったら、美鈴だったら。

そんな風にキャラをシミュレートし、素地というか、〝土〟を肥やしておく。

土が肥えていれば、キャラの種を蒔いた後、育ちが違う。

 

国シリーズの最終は、どうしたって「天狗というバックグランドが違う少数派移民を、どう単一国民国家である日本が消化していくのか、また出来るのか」という観点が持ち上がってくる。

社会保障制度の適用だったり、選挙権だったり、結婚、出産、教育、就職、エトセトラ、エトセトラの問題意識を抜きにしては、天狗の国崩壊後の世界をリアリティをもって描けない。

そういった問題へモロにぶつかっていくのがハルタと雪子なのだ。

 

そこへの練習として、我が輩は「ごっこ」遊びをしている。

この度のようにあえて発表する必要はないだろうが、我が輩にとっては社会の問題を「ごっこ遊び」で消化していくことは重要なのである。

重要であると同時に、不謹慎ながら、楽しいことであったりもする。

救いでもある。

 

キャラを通して読み解いていくことで、激情に囚われなくて済む。怒りや悲しさに拘泥し、パニックに陥り、不安を育て苦しまないで済む。また問題観察への客観性も増す。

 

わけてもパニックに陥らず、不安にならないのは精神衛生上、大変有り難い。

皆様の昨今の暗いニュースで苦しむことがあれば、心のなかで自キャラに向かい、「お前、どう思よ?」と問いかけてみてはいかがか。

彼等が彼等らしく論じて、悩み、葛藤する姿を観察してみてはいかがか。

それを見つめていると、ふと思いつく答えもあるし、また物語のいいネタにもなったりする。

 

〝彼等〟と対話する。〝彼等〟になって、束の間、自分を忘れられる。

物語作者の特権だろうと思う。

一度お試しあれ。

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