次回作発表

先日、友人と話す機会があって早春賦のことに言及された。
「あれ結構読み返してんで」
「なんての。スルメ的な? じわじわくるものある」
「悪くないんちゃう? 顔もおもろい事描けてるし。可愛くはないけど、お前らしいなと思ったわ。ええよ、あれ。また漫画描けば?」
いや、漫画は描かん。
と首を振ったが、驚きもした。
珍しく褒めるじゃない。
「いや、良いものは褒めるよ? 俺も」
褒めるのが珍しいのは、提出物に優れたものが珍しいから、らしい。
直近にも小説を一本、ボッコボコにされている。どれくらいボッコボコかと言えば、周囲と確認をとりあい、自分の意見が個人的なものでなく、少なくとも別の人生を送ってきた二人の人間が同じ感想を抱くほどには普遍的なものであると確信し、立証し、外堀を埋め、「あきませんわ、あんなん」とさほど堅牢でもない本丸を崩しに来た。
見事に崩れ去った。
「何が駄目やったん?」
と端から復習(さら)っていくのは、張りつけにされた後、「さぁ突き殺せ!」と叫ぶほどに勇気がいる。
「いや冒頭から退屈。何回も放りだしてもうたし」
ドスウ! と加減のない一突きが脇の下に刺さる。この瞬間にほぼ絶命している。

「頭から説明きてるやん? あんなん読まされても辛いて、こっちは」
「ほんで話とぶしさ。冒頭は一つのことに集中してもらえます? はぁ? 今まで読んでた情報なんやったん? みたいな徒労感襲われて、瞬間、読むのやめるから」
「全体的にみたら話まとまってるとか知らんしな。最後まで読めないから、これ。お前の話やなかったら、投げてんで」
「ほんで作者が主人公サイド贔屓してるのがムカツクねんな。民間人巻き込むシーンあるでしょ? あれなんなん? 何の大義があるわけ?」
「家族を守るためやから仕方ない? いやいや、皆さんそうですから。世に生きてる社会人、皆そう。家族を守るために生きてんの。その中でも公共の福祉を尊重し、他人様に迷惑かけないよう法律を守ってんの。それが何なん? この主人公。自分だけ特別、みたいな」
「百歩譲って主人公が自分を特別思うのはええよ? 仲間が主人公褒めたたえんのやめて。作者まで一緒になるのやめて。読者の俺、逃げ場なくなるから。自己中なアホしかおらんのこの世界、て孤独になるから」
「アホしかいーひん世界、魅力あります? 全方位クソとか地獄やで」
「読者として身を寄せる場所のない物語、これ、マジ、キツい。渡り鳥にノンストップで太平洋横断しろ言うてるみたいなもんよ? 全編苦痛。ゴールだけが救いな耐久レースと化すから」
「話の筋は別にええよ、あれで」(死体を蹴りすぎたと思ったのか、一瞬の優しさ)
「けど冒頭のさばきが拙すぎるし、キャラに感情移入できひんし、筋云々の問題やなかったな、今回に限っては」
「もっと読者のこと考えて。我が子可愛さでは他人はついて来てくれへんで?」

聞き終える頃には五~六回生き返っては殺されているので、周回ボーナスが入り強化されているから逆に大丈夫。ここまでボコボコにされると物語との癒着が解け、かなり冷静な距離感で物語を見直すことが出来る。
有り難いことだ。
友人にも感謝するし、己の屈強さにも感謝する。

いつもがこのようであるから、早春賦に対する彼の感想を珍しく思ったのだ。
「本気で思ってるか?」
と勘ぐると
「思ってんで? めっちゃ面白い! てことにはならんけど、なんやろね。ああ、〇〇(我輩)ってこういうもん描きたいやろなって。自分の趣味とは違っても、他人のこだわりって見てて面白いやん? フェティシズムってのかね」
「日頃、好き放題したら文句言うだろ」
「文句言う時はお前の愛が足りてないんやと思うで。雑に好き放題してる。こっちに届くほどの情熱もないのに、読者への配慮もない。せやから粗ばっかりが目立つし、それで上手いこと書いてると思ってるお前に腹立つ」
らしい。
しかし愛と言われても己では全作品を愛していると思っているから困る。
それでも他所から見ると〝差〟がわかるほどに、〝有無〟と思えるほどに、我輩は差別しているらしい。

だがそう言われてみれば、この度の「早春賦」、コンセプトからして〝好き放題〟していた。

「ジャンプ作家が羨むようなもん描いたろ」

これが「早春賦」を描くにあたって掲げた方針である。
週刊連載作家が「俺だって好き放題できるなら、時間も気にしなくていいのなら、描きたいものいっぱいあるんだ! やってみたい表現だってあるんだ! お前みたいにやりたい事が出来る身分じゃないんだ。こっちはプロなんだよ!」と怒鳴りたくなるような作品を描こう。
素人同人オリジナル作品という強みを、遺憾なく発揮してやる。
想定読者「我輩」という無限の空を自由に羽ばたく。
やりたいことやったもん勝ち青春なら(三十路)、俺は俺を楽しませるぞジョジョお! と忍たま乱太郎のオープニングにディオブランドーを登場させるほど血湧き肉躍るコンセプトでスタートさせたのが、「早春賦」なのである。(嘘です。当初は国シリーズの入り口になるような皆に優しい物語を描こうと志していました。途中から興が乗っただけ)

やりたいこと、やっていますか。
やっていることを楽しもうとしていませんか。努力していませんか。それより僕と踊りませんか。

夢のなかへ、行ってみたいと思えるほどの夢、覚えいてますか。
ンフッフ~

と言ってやりたかった。

売れ線とか考えなあかんねんやろ? 担当にもOKもらわなあかんしなぁ。読者の声も気になるし、ライバルにも負けたないし、さぞお辛いことでっしゃろな。
みてみ、俺。
自由。
今から、俺、やりたいことやったんねん。描きたいものだけ描くねん。自分が読みたい漫画描きますんや。
おたく覚えてるかなぁ。小学校の頃、ジャポニカ学習帳あったやん? あれの自由帳あったやん? 真っ新なやつ。罫線もコマもないやつ。
何描いてもええやつ。
あれの新(さら)こうてもらった時、めっちゃ嬉しなかった? バリ興奮せんかった?
半端ないガンダム描いたろとか、最強の忍者ストーリー展開したろとか、ワクワクせんかった?
あれやで、俺、今。
ごめんもっかい言わして。
自由。
コピー用紙にペン入れして線めっちゃ滲んだけど、俺、自由やから。
「漫画 かき方 簡単」とかググってるけど、俺、自由やから。
「クリップスタジオめっちゃ使えるやん!」とか興奮してたら一日の作業がフリーズって飛んだけど、俺、自由やから。
新の自由帳やから。
俺、自由やから!
雁字搦めのおたく等と違うからああ!

いかがだったか、我輩渾身の煽り。
売れ筋をひたすら恨んだクソザコナメクジが、足下で喚いていると許していただきたい。全部本心です。

冗談はさておき、早春賦は途中から「読者、我輩、オンリー」として好き放題やった。それが完成したために「誰もこんなもの読まないぃぃい……!」とバットトリップを引き越してしまったというのが、前回語ったこと。

しかし蓋を開けてみると、評価は悪くなかった。
少なくとも友人の評価は良かったと思える。
案外、いけるのか……? 好き放題。読者=我輩。ルール無視の自由帳。
よし、ならば次回作も好き放題しよう! 自分が読みたいと思うことだけ書こう! 他者のことなど考えず、世界の中心で愛を叫ぼう!

とは思っていないので安心していただきたい。ちゃんとエンターテイメントとしてお届けする。
しかしながら、どうしても不安なところがある。どうしても不安なところは、どうしてもやりたいことでもある。上記の早春賦と同じ。やりたいからこそ、不安なのだ。やっちまっていいのか。
そこらを含めて、この度は次回作について語りたい。その前に、愛媛旅行記。

愛宕~広島

愛媛に旅行へ行ってきた。
国シリーズの読者さんから「身内の寺を見学しませんか」とお誘いをうけ、「ならば頼みたい」とお願いした。先方も「マジにくんの?」と驚いたかもしれないが、我輩は興味がわけばマジに行く。特にこの度はタイミングがよく、漫画制作が終わり、次回作へと舵を切る前に一息入れたかった。良いリフレッシュになると思ったのである。

出会って驚いたのは相手が我輩より十も若いこと。
絶句した。
我輩はSNSのやり取りで年上だとばかり思っていたのだ。聞けばみすずの国発表当時から遊んでくれているという。ん? なら高校生の時分から国シリーズを遊んでくれているということか? へぇ、あれをねぇ、高校生が。変わってるのな。
「変わってますね」
つい口にしてしまう。
「そうかもしれんです。でもあらすじ見て〝お〟と思ったんで」
みすずの国にしろ、キリンの国にしろ、当時の自分が「やりたい」と思う物を作った。そういうものが一世代も若い相手に届いていたのは嬉しい。

お寺では御住職からお話しを聞けた。
中でも興味深かったのは「大悲殿」と掲げられた額についてのお話で、
「これは慈悲のことについて指します」
と仰られた。
「慈悲とは、まぁ、日本式の感情で、英語のLOVEとは違うものです」
「それでは慈悲とはなんですか」
と尋ねると
「さぁ、それは難しいですな。それを表すのに慈悲という言葉がありますから」
と笑っておられた。
ああ、含蓄のある答えだなと胸に響くものがあった。

以前、ブログで生意気にも「慈悲」について説をたれたことがある。「慈」は救う愛、「悲」は救われないものと心中する愛。我輩が考え悟ったわけでなく、他人様の書いた本で読み、「なるほどねぇ」と納得するものがあったから、それを持ち歩いているに過ぎない。
「悲」はアガペーとも違う気がしている。「悲」はもっと無力な愛だ。救えない愛。救えなかったものへの愛。失ったものへの愛であり、失うものへの愛。
状況の改善という意味では、無価値な愛。
そんな気がしている。
そんな気がして安心するのは、それでようやく、隅々にまで行き渡る気がするからだ。最後の一人まで届く気がするからだ。
「悲」があってようやく、我輩も内側に入れる気がする。「慈」だけでは救われなかった時を思うと恐ろしくてしょうがない。
そんな弱気でどうする! 出来る、出来るよ、お前なら出来る! 諦めんなよ! 前向きに考えろよ! 出来る、絶対出来る! いける、いける! 絶対、救われる!
と、励ましてもらえれば、それはそれで嬉しい。しかし我輩が救われたとて、誰かが残れば同じことだ。

物語を書く以上、「誰かは救われた物語」では仕方が無い。「主人公〝は〟救われました」「ヒロイン〝は〟幸せになりました」では「お前は良かったかもしらんけど」と白ける。最後の一人にも〝答え〟を提示するものでなければ、物語が掲げたテーマ、問題は消化されたことにはならない。
主人公〝は〟強かったから、ヒロイン〝は〟可愛かったから、ハッピーエンドを迎えました。弱いやつとブスは駄目でした――なんて言われたら「ざけんな!」とならないか?
我輩はなる。
我輩は世界を二で割って優良な方に入る自信はない。いや、二分の一くらいならあるかな? 調子のいい時なら入れている気もする。自分で自分を判断する分には入れてあげたい時もある。いいっすか、入っても。いや分母の大小が問題なのではない。

救えなかった連中に対して、どう考えているのか。どういう態度をとるのかに、物語の本質はかかってくるような気がする。
「こいつは狡くて、卑怯で、残忍だから死んでもモーマンタイ! こいつがくたばれば、後は皆がハッピー!」
というのなら「なんちゅー浅い世界だ」とげんなりする。悪をつくってそれを腫瘍のように世界から切り取れば万事OKという根性は稚拙過ぎる。
かと言って昨今のカチカチ山のように「悪いタヌキも改心して、お爺さん、お婆さん、ウサギと一緒に幸せに暮らしましたとさ」では「おい待て」となる。

タヌキは婆さんを杵で叩き殺して、ババア汁にした挙げ句、爺さんに食わせたはずだろ! (我輩の知るカチカチ山はそうだった) 何故、前提条件の罪を軽くして許しやすくしてんだ!

こんなぬるい話では世間を渡る手助けにならない。何故なら、世には新タヌキのような軽犯罪者ばかりではないからだ。古タヌキのような極悪非道、鬼畜生はごまんといる。タヌキが許され、和解する毒にも薬にもならない話を読みきかせるぐらいなら、代わりにウシジマくんを音読してやればどうか。こちらの方がよほどタメになるだろう。もし本当にそんな親がいたら頭を疑う。

始末しても駄目、救っても駄目。
ならどうすればいいのか。
わからない。
わからないところに、物語の妙味があり、読む価値が発生するように思う。

お婆さんを殺し、お爺さんを絶望のどん底に陥れ、その姿を楽しんだタヌキが、やがてウサギに火をつけられ、川の底へと沈められていく様。
その姿をどう見つめるか。
その作者の姿勢に、我輩たちは何かを感じるのではないだろうか。

まぁこのタヌキほどではないにしてもだ。
物語には善良であっても救われない存在、救われ難い存在は有り得る。
我が事を例にひいて申し訳ないが、雪子にしてもそうだ。
故郷を失った天狗たちは、人間の国で幸せになれるだろうか?
という問いに対して、
「雪子ちゃんはハルタさんの嫁になるので大丈夫です」
では答えにならない。
ハルタがいなかった雪子たちは居るのである。人間の国に降りて、だいだい屋敷にも招かれず、一人きりで、それでも頑張ろうとして、挫折していった子たちは大勢いる。その存在に目を瞑っては「何の話やねん」となる。
ハルタにも出会わず、だいだい屋敷にも招かれなかった子供たち――その最後尾に雪子を並ばせ、そこからの風景を描かないことには物語のテーマは解決しない。
ラストの仕掛けはそういう意図がある。

最後の子供をどう見つめるか――それが物語に課せられた役目であり、そこに挑むのに、我輩には「悲」という無価値な愛が必要になる。
そんな気がしている。

話を戻す。

お寺見学の後は、読者の方としばし話した。
我輩が「方言フェチ」と知っていたからだろう、沢山の「愛媛弁」を披露してくれ、また殊更嬉しかったことにネイティブ発音による日常会話での使用方法を演じてもくれた。
方言くらい調べればわかる。だが使い方がネイティブに頼らない事にはしっくりこない。
関西弁の「あんじょう」「なんしか」
北海道で出会った「したっけ」
山口弁でも「よいよ」はベリーという意味合いの副詞であるが、肯定文、否定文で使うのにイントネーションが違う。
ネイティブの発音、使用方法を聞いて、始めて腑に落ちるのが方言というものであって、辞書でひいて納得できるものではない。
だからネイティブスピーカーが日常使用風景を演じてくれるなどは、我輩にとっては涙が出るような有り難き事なのである。

また我輩の未開拓ジャンルへの知識も豊富で、素人質問にも用語を平易な言葉になおし根気よく説明し、イメージが湧くように写真も見せてくれた。
釣りもして、野遊びなどもよく知っているらしく、話を聞いていて飽きない。
スマフォやパソコンがない天狗の国に行っても楽しくやっていけるのじゃないか、と思う。

楽しい時間を過ごさせてもらった後、漫画「早春賦」をお渡しして別れた。漫画を描くと発表した当初から「予約したい」と伝えてくれた相手であったから、手渡ししたかったのだ。イラストをつけてお渡ししようと考えていたのが、ついつい話込んでしまい果たせなかったのが悔やまれる。

道後温泉の事は端折りたい。
良かった悪かったの話ではなく、続く話にからんでこないから情報としての価値が少ない。単純な旅日記には皆様方も興味なかろう。一つだけ言っておきたいのは、休憩所が指定席であり、カップルに挟まれると泣きたくなるということ。湯上がりのカップルに挟まれ、浴衣からすね毛を覗かし、茶をすすり煎餅を囓る我輩を想像していただきたい。
悲惨、と言うよりはむしろ滑稽。
しかしこういうことをいちいち恐れているようでは一人旅は出来ない。

広島、呉も急ごう。
大和ミュージアムに行ってきた。
我輩は兵器や乗物にはあまり興味がない。興味がないと言うよりは「細々としたことが覚えられない」ので、ガチ勢にあたり「にわか乙」の扱いを受けることを恐れ最初から手を出さないでいる。
であるから1/10大和にもさほど興味はなかった。「でっけぇプラモ」ぐらいにしか思わない。我輩は呉鎮守府の成り立ちと、明治初期、鎮守府設立当時はどんな風景が広がっていのたかが知りたかったのだ。
しかし熱心に展示物を眺めていたからだろう、ガイドのおっさんがやって来て、「暇ならおいさんが全部話してきかしちゃるよ」と申し出てくれる。
最終的には大変有用な解説を施してくれたのだが、1/10大和に関してだけは苦笑いしたくなる瞬間があった。
「あれ、なんぼしたと思う?」
と尋ねられた。
二億くらいかな、と考える。
しかし質問をしてきたおいさんの顔、その奥に、ドヤ顔が仕込まれていることも見て取っていたから考えた。
「え! 嘘! そんなかかってたんすか! マジで!」
というのが模範解答だろう。
であれば解答と正答の金額差が十倍はあったほうがいい。
「一千とか、二千万くらいっすか?」
「なんと二億」
世の中このようにして上手く回るのだと、また一つ社会勉強させてもらった。

次回作

さて、最後。
最終日は別子銅山に足を伸ばしたのだが、このことは多少詳しく語りたい。
と言うのも、これがそのまま「次回作」につながる流れにあるからである。

別子銅山は起源の古いことや、一貫して住友家(住友財閥、住友グループの起源)が経営してきたという面白い歴史がある。
だが我輩にとって何より興味深かったのは、別子銅山と言うよりも四国そのもの。その地質にあった。

四国を南北にぶった切る四国山脈。
ここは平地と地質が違い鉱床が存在する。この鉱物によって栄えたのが天狗の国の一つ、「白峰」という設定だった。
国シリーズの史実では「住友さん」が鉱山を見つけるより前、太古から山に住み着き鉱物を取り出すに優れた民族が存在し、それが〝白峰の天狗〟と呼ばれるようになっていく。
そこと住友さん(本編では住友という名前は使わないけど)が結びつき、銅座をもとにした貿易を発展させたことで白峰のお里となり、共存共栄する。(住友さん、勝手なことばっか言ってすみません。妄想なんで許してください)
であるから、白峰は鞍馬・愛宕に比べ、人間の手が結構入ってる。
中枢にまで人間の力が及んでいる。
人間たちに踊らされ、摂関政治が横行し、権力争いが絶えない。
であるから。
圭介が「掃き溜め」と唾棄したくなるような事件も多発し。
後年、天狗の国が解体されていくなかではもっとも脆く、悲惨に崩壊してしまったのだ。

鞍馬・愛宕も鉱床(こちらはほぼフィクション)をもとに発展した民族なのだが、こっちは人間の介入をほぼ許さなかったために強度があった。加えてある反乱により人間が育てていた協力者がごっそり殺されてしまった。
それで多少白峰より頑丈だったのだが……。

というのが、次回作である。
ただ「頑丈だったのだが」のその後、時系列で言えば「キリンの国」の続きを描くわけではない。
そこに至るまでの話。
天狗の国は何故滅びたのか? その萌芽はどこにあったのか。
天狗解体計画、その鍵となるキリン。
彼が何処からやって来たのか。誰の、どんな思いを彼は背負っているのか。
それを一人の女性の半生を追うことで、明らかにしていきたい。

始りは明治元年、冬。
雪深き奥羽の麓に、一匹の雌狼がいた。
彼女は〝カタクリの姫〟と呼ばれ、里の者から慕われながら、守り神として鎮座していた。
そこへ御触れが届く。
「淫祠征伐(いんしせいばつ)」
新政府が目指す「神道国家」のために、全ての社は神祇官に属し、全ての産土の神(化け)は天子によって尊卑をあらためられ、位を授からなければならない。
よって出頭し、位あらためを受けよ。
これから野の神は淫祠(間違った信仰対象)として、その存在は許されない。
要するに、都に出て、この度新しくなった政府に頭を下げにこいという。
新政府が権威付けのためにとった、宗教政策の一環だった。
「にわかに下げる頭など持ち合わせてない」
彼女は新政府からの呼び出しから逃れるため、脱郷を決意する。
「丁度いい。人間の国作りというものを、私が見定めてやろう」

化けとなって五十年目の春。
ハルカは旅に出る。

激動の明治を漂流し、大正、昭和と愛宕にて教鞭をとったハルカ。
彼女が出会い、別れていったものとは。見つめてきた風景とは。
物語の最後、ハルカとキリンの隠された絆が明かされる。

というわけで、次回作。

「ハルカの国」

今年の冬、もしくは来年の春、発表します。
もしかすると資金不足で出稼ぎに出て、作業が中断する可能性もありますが、大丈夫、完成しますよ。遅くとも来年夏までには何とか。

制作にあたって既に難所が見えている。
背景。
明治時代の写真がない。
写真加工じゃ限界がある。例えば呉鎮台。大和ミュージアムで見てきたけど、当初は今のような港じゃなかった。浜ぽかった。
ハルカの旅路である奥州街道、日光街道、東海道、中国道の風景もどうするか。
描くか? 自分で。
いやいや、一生終わりませんよ? ハルカの国。
背景描くの、なんぼほど時間かかると思ってんの。
野党に反対され、打開策を思案中である。

シナリオ。
設定は大体固まってきたし、ロケハンも大枠は済んだ。時代考証の資料も手元にそろえたし、いける気はしてる。問題は演出。どこまでやりたい事が出来るのか。Unityの勉強が望まれる。
終わらせ方は不安がある。許される終わり方なのだろうか。けどこういう切り方をこの度は試みてみたい。いやこうする他ないというのが適当だろう。今までのシリーズとは違う後味になると思われる。
と言うのもハルカは大人なのだ。
旅のお伴として「ユキカゼ」という白狐がつく。これもまた大人である。

青春、朱夏、白秋、玄冬。
人生を四つの区分に分ける。
我輩がこれまで描いてきたのは青春であり、その期間内での変移であった。青春の盛り、無限に思えた少年の国、やがて訪れる大人への入り口――。
これらは全て、青春という時代のなかで起った出来事。登場人物には幅を持たせたつもりだが、視点としては一貫して〝青春期にある少年・少女〟を貫いてきた。
それがこの度、かわる。
ハルカは少女ではない。

物語のスタートは青春と呼べるかもしれない。齢50を超えているが、化けの年齢で言えばまだ若い。田舎に閉じこもっていたために、外の世界に対する好奇心も旺盛。悪戯っぽく、茶目っ気もある。
しかし物語の最後は歳を重ね、150に届こうかという頃。「みすずの国」にて美鈴と出会う十五年ほど前のことだが、もはや全盛期の力もなく、身体の衰えを感じている。
人生の盛りを終えた、白秋の時代。
ここで物語が終わる。
だから今までとは見える風景が違うはずだし、今、我輩の頭に飛来しているイメージも前作までとは風合が違う。後味が違う。

あれ? 味噌かえた?
ぐらいの衝撃が皆様を襲うかもしれない。
期待していた味が舌の上にひろがってこない、あの感じ。
クオリティの差は生まないよう努力したい。むしろ前作よりも高めていきたい所存である。しかし延長線にはないかもしれない。わからない。結局、我輩は我輩でしかたなく、何を作ってもKAZUKIっぽいものが生まれてしまうのかもしれない。

何をしても我輩の程度を抜けきれない結果も、不安ではある。変わってしまって愛想を尽かされるのも不安。しかし試みがなければやる気がでない事は、前回お話しした。

「へぇ、こういう風合もあるんだね、こういう風景もあるんだね」

と言って頂けるような、国シリーズの懐が広がるような作品に出来れば、最上。
そこを目指して精進していきたいと思います故、よろしくお願い致します。

プレイ時間 5~8時間
毎度のことながら選択肢なし
初回限定パッケージ版・ちょっとしたオマケつき 1500~2000円
DL版 パッケージ版から-500円
発表 今冬~来春・夏くらいのコミティア・booth・DLsite・steam

コミケは疲れるので引退します。即売会はコミティアで頑張っていきまさ。名古屋、関西、九州コミティアも参加してみたい。
いっそそこらのフリマで新作発表を行なってみたい気もする。誰が一人でも買ってくれんかの。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。