ノベルゲームと小説は得意とする「人物との距離感」が違う
たまに尋ねられる。
何故、主人公まで立ち絵を表示するのですか?
と。
没入感が薄れる、視点人物と距離を感じる、主人公の気持ちの深くまで入っていけない。
とのことだ。
それでいい。
主人公と距離を感じさせるために、あえて、主人公の立ち絵も描いている。
外から見えるものにしている。
我輩が描きたいのは風景画であり、人物画ではない。
我輩のなかに、一つ押しつけがましい思想を認めるなら、次のことだ。
人間は小さく、世界は大きい。
木や空や、風や山、歴史や文化、政治は一人の人間より大きい。マクロなものはミクロなものを従わせる。小さきものは大きなものに削りあげられるのだ。
で。
我輩の描きたい「人物の大きさ」で物語を表現するのに、ノベルゲームは小説より適していた。小説よりも遠い距離で物語を描写できる。
人間をどう思っているかが作品の雰囲気をつくる
貴方が自分の物語をノベルゲームにするか、それとも小説にするか迷っているなら、良いリトマス試験紙がある。
絵が描ける、スクリプトを組める、作曲ができる、これはあまり関係ない。必要ならあとで勉強すればいい、我輩はそうだった。
適正として代え難いのは次のことだ。
貴方は人間をどう思っているか?
すなわち、人間を小さいものと思っているか、大きいものと思っているか。
この二択において、貴方がノベルゲームに向いているのか、小説に向いているのか判断できる。
貴方の物語シーンを意識した際、どんなショットが頭に浮かぶだろう。
主人公とむきあったヒロインの紅潮した顔だろうか?
それとも暮れなずむ空の下、二つの影が橋のたもとで向合う姿だろうか?
前者は主人公がカメラになっており、前者を思い浮かべる時、貴方は主人公のなかにいる。
後者は人物とは別にカメラがあり、貴方は彼らから距離がある。彼らのうえに空があり、橋をわたって帰路をつくその他の人々も見えているかもしれない。
前者は心理描写を深めることのできる小説むきであるし、後者は風景描写をビジュアル表現できるノベルゲームむきである。
作品例でみる人間の大きさ
昨今のディズニーやピクチャーの映画は人間を大きくとらえている。実にキリスト教圏のアニメだと思う。人間の力を信じているのだ。
初期ジブリ作品、「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」も人間が大きい。
比べて人間を小さく描いている作品には「もののけ姫」やつい最近公開された「この世界の片隅に」をあげたい。一人の人間の意志が何かを成し遂げるのではなく、巨大な世界のなかでいかに生きるかを描いている。
どちらが好きか、ではなく、どちらの描き方がしっくりくるかで考えていただきたい。
我輩は後者だったから小説ではいつまでもしっくりこなかった。あるいは我輩は文字媒体を使って距離感を保つのが下手くそだっただけかもしれない。
小説を書いているとついつい人物に入り込みすぎてしまい、人物が大きくなりすぎた。
ヴィジュアル表現をもつノベルゲームは「人間を小さくみる」後者に適していると考える。小説よりも外側から描きやいからだ――主人公さえ立ち絵を描くこともできるように。