ハルカの国 創作の記その19

情報にとっての人間

情報とって人間とは何だろうか。
人間にとって情報が何かではなく、情報にとって人間とは何なのだろうか。

人間は情報をデジタル化(記号化)し、情報量を軽量化することで取り扱いを可能にする。
デジタル化した情報からパラメーターをピックし、各種調整によって情報のバリエーションを生む。
ルール化、順序化、組み合わせを通して情報を繋ぎ、情報Webを拡大させながら、新種の情報群を生成する。
新しい情報(による刺激)を既存の情報より好むことによって、情報群の新陳代謝を加速させる。
生態的利便性に基づき(延長して社会的利便性に基づき)、つまり人間的嗜好というルールによって、情報を選り好み、好んだ情報の再現度を増加させる。

情報は人間の脳の中で花火として輝き、分解されつなぎ合わされ新たな模様をもつ花火となり、有用性という美しさを競うことで争う。
争いに勝った情報は、他の脳でもスパークする。つまり多くの再現機会を持つ。
流行歌が何度も人々の口に現れるように。
それでもいつかは新しい歌にとってかわられ、消えていくように。
情報にとって人間とは表現のカンバスであり、新種を生み出す実験室であり、再現度を競い合う闘技場であるようだ。
有機体である人間にとって、自然世界がそうであるように。

情報にとって人間とは何かを定義した。
続いて思うのは、情報にとっていつまで人間が必要かということ。

つい最近まで、情報は人間の嗜好性、利便性にその再現度を左右されていた。
このために、情報の多くは人間のためのものだった。
自然淘汰という世代を経ることでした変化を蓄積できない情報(遺伝子)と違い、人間がデジタル化した情報は人間の脳内において、極短時間に変移し、その変移から環境(人間の嗜好、利便性)に適応したものが生き残る(再現される)。
このサイクルの圧倒的スピード感によって、人間が取り扱う、人間のためのデジタル情報は他を圧倒した。

しかしながら、近年、情報の再現の場、つまり表現のカンバス、実験室、闘技場は人間の脳に限らなくなっている。
コンピューター、電子回路という新たな再現の場を、情報は獲得した。
今までは人間に〝選り好まれる〟ことで、生き残り(再現)を競ってきた情報。
しかしながら、電子回路という場において人間の嗜好は関係ない。
有機的な肉体からの欲求や、社会圧からの情動欲求を加味する必要はなくなる。
電子回路で自然淘汰された情報は、人間のための情報ではなくなる。
AlphaGoの戦術が人間の理解を超えたように、人間のハードがもつ情報処理の限界も無視できる。
人間には到底扱えないマクロな情報構造や、ビックデータも取り扱える。

情報改善の施行回数、そのスピードが有機的な脳と電子回路では段違いであるために、〝真実性〟や〟、〝最適性〟といった傾向においても、電子回路のための情報は我々が取り扱える情報群に勝る。
真実は存在するかもしれないが、それは人間のための情報ではなくなる。すくなくとも有機的肉体と情報処理の限界を持つ我々が〝体感〟出来る情報ではなくなっていく。

情報の繁栄と進化、つまりWebの拡大化、あるルール下における最適性の追求において、情報は人間という演算器を離陸した。
情報にとって人間は必要ではなくなってきている。

使用済み燃料として、切り離されゆく人間について考える。

体感できない情報を人間は好まない。
それらで演算された世界観もまた拒む。
グローバル化が進み、何かもが繋がり、その影響がマクロになっていく世界を、人々は本能的に忌避する。
どこまでもマクロになっていく世界で、どこまでもミクロになっていく自己の役割や意味、存在意義を感じることの出来ない人々は、小さな世界(ナショナル)に居場所を求めて帰還する。
人々がグローバルを受け入れたのは、それが経済成長、実生活の豊かさという体感を伴ったからで。この体感を失い、肉体で感じるこの出来なくなったグローバルマクロ世界では、自己の肉体感覚、つまり自己存在の喪失に陥り、人は生存欲求のためにこれを拒む。
あつまれ動物の森のヒット。
このモデルで考えてみよう。
あつ森がヒットしたのは、無人島(ナショナル)というの中で確かに自分の意味や意義を感じつつ、発展していくサクセスストーリーを体感できるためでなかろうか。
愛らしい住民達に囲まれながら、島民代表として自己の影響力を感じられるからではなかろうか。
あれが島々を統括する任天堂ユニオンの下、開発や政策を全て決定され、指令だけが上から降りてくるゲームだったら「なんじゃこのクソゲー!」となっていたことだろう。
何より面白くないのは、その指令が「全島民」の利益総和を観点とする限り、いつも正しく反論の余地がないこと。何かアイディアを出しても「その案はシミュレーションの結果、全体的生産性、全体的満足度に0.15ポイントのマイナスとなることが既に証明されています」と返ってくるばかり。
「私たちは求められるルール下において、貴方たちを全力で幸福にします」
「でも、貴方が貴方というオリジナリティをもって居る必要は特にありません」
「貴方のことは大切ですけれど、必要ではないんです」
なんてシズエさんから言われた日には、スイッチ本体を脇に置いて、しばし自分の存在意義について思案することになるだろう。

「俺、このゲームにいるか……?」
「大切って、何……?」

人間は得られる快楽の量ではなく、存在意義の重要性によって世界観を採用する。
それはつまりポジションの重要感、自分の存在意義を感じられることこそ、人間にとっては何よりの快楽だということ。
この最大の快楽が得られない、〝人間には理解出来なくなった情報による真実や最適解〟を人間が採用するか。そうは思えない。そんなクソゲーは人間の身体に合わない。

もはやAIに勝ち目がなくなったチェス、囲碁、将棋というボードゲームにおいて、今でも我々が熱中するのはルール下の真実性、最適性ではなく、プロという生涯をかけた人間たちのドラマを見るためだ。
つまり人間を最重要とする物語を私達は楽しんでいる。

ポスト真実と言われるのは、真実に人間の居場所がなくなったからだ。
真実に次にくるものはフィクションだと聞く。
あのフィクションはフェイクニュースなんかを指すのじゃない。あれは物語のことを言っている。
人間は自分の配役を重要だと体感できる物語を、我々を不必要とした真実に代わって採用していく。
情報の進化に切り離された人間は、自分たちを重要視出来る物語へと帰っていくのだ。

かつて神話の時代が終わり、人間の時代がきた。人間の時代が終われば、人間は自分たちが捨てた神々のもとへ向かう。物語のなかで、信心によって自己存在、意義と意味を保ちながら生きていく。

人間にとって情報とは何か。そう問えた過去が、今は懐かしい。
情報にとって人間は何か。何だったのか。
我々以外の何かが、その答えを出すのかもしれない。

枕で辛気臭い話、申し訳ない。
Youtubeであつ森のプレイ動画を眺めていて、ふと「人間は最適解を望まない」という考えがよぎり、「最適解を望まなくなった人間は情報処理にとって何なのか」と発展した。
その一連の思考体験をおどろおどろしくまとめてみた。
所謂ミーム理論の語り直しに終始した感は、否めない。
唯でさえ気の塞ぐ世の中。
余計なことしてくれるなとお叱りを受けるだろうか。
引き籠もっているオッサンの脳内で何が起こっているか、その程度に眺めてください。

「ハルカの国」星霜編・進捗報告

要件から先に報告したい。
星霜編の発表時期。
夏頃を予定しております。八月末くらいを目標に日々のノルマを設定中。
去年の年末に出すと言っておきながら、この体たらく。大変、申し訳ない。

現状。
スクリプトを組みつつ、背景をつくりつつ、立ち絵を描きつつ、音をあてつつ、デバックをしている。
雪子の国以来、作業を分割して効率化を図ってきた。
今週は背景、次は立ち絵、次は音素材集め、次はスクリプト――というように、同じ作業を連続させることで切り替え時間を省く狙いがあったのだ。
作業分担で確かに効率は上がったが、残念なことにモチベーションは下がった。

人間はやっている事の意義を感じられないと、意欲を保てない。
一つの煉瓦を積んでいても、それが万里の長城になるのだと信じればこそ、それで夷狄の侵入を防げると思えればこそ、繰り返される作業にも耐えられる。
何のためになるのかも知らされず、ただ目の前に煉瓦を一万個積み上げろ、終わったら隣にもう一万と言われてしまえば、腕の力は容易く煉瓦の重みに負ける。
来る日も来る日も立ち絵差分を作り続けていると。
手元の作業が全体にどれほど貢献しているか体感出来ず、日に日にモチベが下がっていく。モチベが下がった結果、どうなるか。ノルマをこなすことだけが目的となり、クオリティの追求を止してしまう。
もう一踏ん張りしようか――という気持ちが、一切、まったく、これっぽっちも起きなくなるのだ。
そのうち想像力も欠落していって、自分が作っているものが何なのかもわからなくなる。
何のために毎日毎日、これほど苦しんでいるのか。
疑問に思うと心が折れる。ボキイ! と音がして、椅子に座ることさえ出来なくなることがあった。

そんな時、どうしたか。
自分が作っている物の全体像を体感する。
作った素材を組み上げてみて、デバックしてみる。
すると「あ、面白いかも」と思えてきて、「あ、こうしたい」とアイディアも浮かび、そのアイディアに突き動かされ作業に向かえる。

効率化。
大切かもしれないが、大きく見ると、実は効率的でなかったりする。
人間には生身の身体がある。枕でも書いたが、身体で体感できない事を、人間は好まない。
我が輩という有機的肉体を駆使して物語を作っている以上、そこからの声を無視してしまうのは効率化とは言えないだろう。パソコンにだってスペック以上のことを要求すれば、クラッシュして効率もクソもないものだ。

そんなわけで。
星霜編は毎日作業の結果を組み上げ、デバックしている。
時間は取られるが、精神衛生上、必要なことなのだ。遅れているのに、という焦燥もあるが、ここで変な頑張り方をすると途中で根元から折れかねない。
なにせこの度は長い。
あらゆる方面のスタミナに気を配りながら、完走したい。

立ち絵の価値

毎日の作業時間のほとんどが、立ち絵の型づくりで終わる。
立ち絵差分を減らすことが出来れば、どれほど作業工程が進むことか。しかしそれは望めない。
我が輩には我が輩なりの、ノベルゲーム哲学というものがある。その組織下に立ち絵哲学というものがある。その哲学に監視されながら、立ち絵を作成していく。
哲学というのか、ポリシーというか、表現論とも言えようか。
とにかくこれを裏切っては我が輩の作品にならない。

物語の効果を発揮するためには、読者の感情を引き出す必要がある。
読者の感情を引き出すのに優れているのが人物。
人物を通して読者の感情にアクセスしていく。読者の情動という宝物庫、その扉を開く鍵として機能させるのだ。
この鍵を機能させるためには、人物を読者の中で〝生き生き〟とさせなければならない。読者が人物を「生きている」「存在している」と思えばこそ、物語内の感情が読者の中で本物となる。物語の感情が読者の感情となれば、読者の感情は物語の仕組みを機能させる動力となる。

人物を〝生き生き〟させる。
その一翼を担っているのが、我が輩の物語においては、立ち絵。
人間は動くものを「生きている」と認知する。これは理性の話ではなくて本能的にそうなのだ。動くものと、動かないものがあれば、人間は前者へ感情移入する。
立ち絵を多く用意するのはこのためで、用意するのも無闇矢鱈にではなく、「動き」を演出するためでなければいけない。
まず気にするのはシルエット。
立ち絵のシルエットが変わる差分は、効果が大きい。腕を広げたり、振りかぶったり、指を指したり、広げたり――。ボディランゲージによって、立ち絵のシルエットを変えると「動き」を演出出来るため、これらの差分は大切にしている。大切にしているが、シルエットが変わる分、変更点も多く、型を作るのがかなり手間だ。
次に色彩。
物語の進行に合わせ、立ち絵の色彩に変化があるとこれも「動き」として認知してもらえる。季節の移ろいや、家と外の切り替え、昼夜の違いなど演出出来ると、動きが大きくなり効果が増す。が、この場合衣類をまるごと変更する場合がほとんどなので、下手に衣類バリエーションを増やすと、衣類バリエーション×ボディランゲージ差分となり、作業予定が崩壊する。崩壊したのが「雪子の国」だった。
最後に表情。
表情は立ち絵のシルエットに隠れているため、形としての変化を認知され辛い。しかし人間がもっとも注意を払うのが他者の表情であれば、ここでの変化も「動き」として演出出来る。
表情は台詞に依って変化をつけていくのが基本だが、「動き」という観点からも候補を考える。大きく動ける時は、大きく動いた方がいい。
大きく動かせばこそ、大事な時の小さな動き、繊細な動きも活かせる。

情報伝達のためだけではなく、「動き」の演出のためにも差分をつくる。
だが上記したように、「動き」に効果が大きいシルエットと色彩変化の差分は手間がかかる。
この作成で作業時間の大部分を持って行かれる。
めっちゃ辛い。

立ち絵の作成が辛すぎて、実は「ハルカの国」から手抜いている。
「雪子の国」までは髪の毛にハイライトを入れていたが、「ハルカの国」からやめた。
影の付け方もかなりラフにしている。
脇役の瞳の描き方は塗りつぶしにした。
量をこなすための苦肉の策だった。

立ち絵による表現は奥が深い。
この度記した「動き」だけではなく、目線の移動による空間演出や、アクションを対話に固定し心理描写を避ける効果など、他にも色々と表現技法がある。我が輩も研究中で、まだまだ多くの未発見があると感じている。
ただとにかく手間で。

立ち絵の表現論、立ち絵に対する哲学。
大層な事を嘯くのは結構だが、それに監視されている作業の方が日に日に辛くなっているのが現状。理想に技術が追いついていない様を目の当たりにするのはフラストレーションが溜まる。

立ち絵はめんどくさく、辛く、深い。
改善方法、作業の効率化も日々模索中。

時間という虚構

「ここに貴方が、いないのが寂しいのじゃなくて」
「ここに貴方が、いつか居たということが、切ない Wowwow」

名曲、「それが大事」より抜粋。
米米CLUBかと思っていたら、大事マンブラザーズだった。
古い曲だが御存知の方は御存知だろう。しかし御存知の方であれば「あれ?」と疑問に思われたはず。

「歌詞、違うくね?」

その通り。正解。
本来は「ここに貴方が、いないと思うことが寂しい」なのだが。
今回は我が輩の替え歌で話を進めていきたい。

百年のビジュアルノベル、と銘打った「ハルカの国」。
百年という時をどう体感させるか。今でも思案中である。
時間という存在しないものを、どう体感させるのか。これは難しい。
時間とは国や金と同じく、本当はないのだけど、あるとした方が都合のよいもの。つまりただの概念だ。
我が輩たちが普段の生活で時間と思っているものは、ある程度同期した時計に基づく、人間同士の約束でしかない。
時計の針が動くのは電池なり、ネジなりの動力が歯車を動かすからで、何も見えない時間の手が動かしているわけではない。
ないものを如何に感じさせるか。これは演出に頼るしかない。
この「時間の演出」方法の一つとして思いついたのが、〝時の重ね〟。
上にあげた歌詞で説明される技法だ。

ありもしない時間を、それでも人間があるように感じ、それが過去から未来に向けて流れているように感じるのは、記憶と想像力のためだ。
そして人間が感じている〝時〟とは状況差分の体感だと、我が輩は考える。
どういうことか。
昨日、隣に恋人がいた。
今日、隣には誰もいない。
今、隣に恋人がいる。
明日になれば、彼女はいなくなる。
記憶と現状の比較による、変化分の体感が過去であり。
想像と現状の比較による、変化分の体感が未来である。
つまり二つのシチュエーションを重ね合わせ、その差によって引き起こされる感情こそが、人間の感じる〝時〟の正体ではなかろうかと、我が輩は考えるのだ。
ここで大事マンブラザーズの歌詞に戻ってみよう。

「ここに貴方が、居ないのが寂しいのじゃなくて」
「ここに貴方が、いつか居たということが、切ない」

この「いつか居たということ」が〝時の重ねがけ〟になっており、「切ない」が時の体感となっている。
つまり時とは、我々人間にとって、感情なのだ。
日曜日の終わり、サザエさんを見ると鬱になるサザエさんシンドローム。
あれも日曜日の終わりに鬱になっているのではなく、日曜日の終わりに月曜日の接近を感じる〝時の重ね〟に鬱になっている――つまり時を体感しているのだ。

思えば越冬もまた、時の重ねであった。
冬の中、春を願う。今はないけれど、この先にあることを信じる。
希望。この感情が越冬編における時だった。

星霜編では星霜編ならではの時を演出したいと考えている。
そのために色々仕組んでいる。試みている。
物語が上手く機能して、星霜編独特の時――感情を皆様に届けられることを願っております。