ハルカの国 創作の記 その31

御礼

三月六日からスタートしたクラウドファンディング、お陰をもちまして成功と相成りました事、ご報告させて頂きます。
この度は便宜上の目標設定ではありましたが、皆様のご支援の結果、大きく上回る支援金を賜りました。
このご支援を励みにして、「ハルカの国」制作を一層の思いで取り組んで参りたいと思います。
この度のご支援に限らず、日頃からのお力添え、重ねて、幾重にも、ありがとう存じます。

クラウドファンディング報告

多くのご支援、有り難うございました。
重複するが、やはりここからしか始められない。
皆様からのご支援、大変励みになる。嬉しい。もちろん、資金であるから、金額としても嬉しい。けれどやはり一番は、「認めてもらえたのだ」という嬉しさ。これが何よりも勝る。
認められる嬉しさは、限りない。
いつまでも嬉しい。どこまでも嬉しい。
自分が作ったもの、自分がアイデンティティーを感じているものを認めてもらえたという、他者を通じての自己肯定感。この嬉しさは尽きることがない。
また頑張ろうと思った。
決戦編、良い物にする。少なくとも、星霜編に勝り、成長したと思えるもの。皆様の期待を裏切らないもの。
願わくば、皆様の期待を超え「おお、よくやったな!」と驚かすことの出来るもの。
衝撃を与えるような物語を作りたい。
作ろうと思っている。
星霜編から試みている取り組みが、形になってきている。星霜編で見つけた技術に、磨きがかかってきている。そう感じている。
今、シナリオ技術においては成長過程にあって、成長を感じる。
だから、ある程度の確信をもって「良い物になる」と言える。
良い物を作って、この度のご支援のお返しにしたいと思います。
決戦編。
ユキカゼとハルカの再会。再戦。
楽しみに待って頂ければ、幸いです。

クラウドファンディングは四月末まで。
星霜編以降の早期アクセス権が全てのリターンにつきますので、気になる方は以下よりどうぞ。

「ハルカの国」クオリティアッププロジェクト

屋号「Studio・Hommage」

この度、開業届けを提出し、屋号「Studio・Hommage」にて個人事業主となりました。
特別何かがあったわけではない。ただ納税の問題上、サークル活動を業務化することにしたのだ。
はっきり言って、まったく、これっぽちもサークル活動による利益なんて出ていないが、創作物を売って対価を得ている以上、その処理が必要となってきており、所謂白色申告で済ませると損なことも出て来た。今後、損をするだろうという予感もした。
たとえば、「ハルカの国」が完成し、広報を頑張り、Steamへの展開なども功を奏して、数百万円の売り上げが出たとする。
するとこれにまるまる税金がかかる。
2018年から創作を続け、ようやく完成したものを2023年に発表し、2024年に入った売り上げが、2024年度に出した利益として扱われ課税対象になる。
これは厳しい。
だから、今から記録を残し、「2021年、2022年、2023年にはこれだけの経費をかけ、大変な大赤字を乗り切り、ようやくここまで来たのです」という訴えの用意をしておくのである。
「ハルカの国」を数年かけて作りました、という証拠を残しておく。
要するに、損失の繰越控除を申し出られるように簿記をとっておこうと思ったのだ。

創作の記録を残し、税対策をする。
これが開業の目的である。

魂のアマチュアリズム

開業したら同人活動でなくなるのでは?
そう思い調べてみたが「同人活動」の定義が釈然としないので分からず仕舞い。
一応、事業内容としては「ゲーム開発販売と執筆業」としておいた。
となれば今後、我が輩の活動は事業であり、同人活動とは呼べないのかもしれない。
同人活動、というものに固執はしていない。
我が輩が固執しているのはアマチュアリズム。
アマチュアリズムとは「作品をつくるための活動であり食っていくための活動ではない」ということ。
「食う」すなわち「生きる」は創作に隷属するもので、「作る」に必要とされるだけ「生きて」いればそれでいいと思っている。生きることに損が出たって、作るが潤うならそれでいい。そういう活動方針である。
創作が本当に好きだから、という美談でもない。
単純に「食う」ために「作る」のは効率が悪すぎて、システムとして馬鹿げていると思っているからだ。
「食う」を第一義とし、それを潤すことを考えるならば、「作る」なんてことは効率が悪くてやってられんのである。
一度は勤め人として働いた身からすれば、やっぱり雇われて働いた方が効率は良いし、楽だ。
暮らしの向上を求めるのであれば、「作らない」が正解だろう。
だから「食う」ために「作る」はシステムとして成り立たないものであり、我が輩の中ではあり得ない。「食う」を「作る」の上に持ってくるぐらいなら、「作る」を捨てて「食う」の効率化を図る。
しかし我が輩のシステム上、「食う」即ち「生きる」を突き詰めていくと「創作」が最大の関心であり、「食う」の潤いとは即ち「創作」に転じることがわかった。

勤め人の頃、「創作をやめたらどうなるか」を考えてぞっとしたことがある。
我が輩は四季を通しての自然の移ろいが好きだし、それを求める旅行も大好きだ。旅先の料理に舌鼓をうち、そこを地の酒できゅっとしめるなんてのは、こたえられない。
温泉もいい。その土地の歌もいい。ほがらかな方言も好きだ。
歴史や地理も興味がある。
政治経済にも関心は止まない。
我が輩は恐らく、人生を愛しているし、人も好きだと思う。自分でそうだと思っているわけではないが、周りと比較した時、「ああ俺は人生という連続性の味わいや、人というものの可愛らしさが好きなのだな」と感じる。
こうしたもの全て、言うなれば我が輩の本調子とも言うべきものが、全て創作を土台として生じている。
それが「創作をやめたらどうなるか」と思考実験をした時にわかった。

面白い物語をつくろうと思うから、人や、町や、自然を見る。味わうこと、経験することを子細に感じ取ろうと努力をする。
自分自身の体感にも細やかになり、嬉しさにつけ、悲しさにつけ、喜びや悔しさもその正体を探るように見つめる。
面白い物語をつくろうと思うからこそ、これらの資質は生じ、都度都度の機会に磨かれ、そこから得られたものが我が輩を形成していった。
我が輩自身が、「面白い物語をつくろう」という行動の蓄積物だったのだ。

創作を放棄したらどうなるか、と考えてみた。
「意味ねぇわ」
と思った。
あらゆる好きだったことに、閉店のシャッターが降りた気がした。墨をぶちまけられた気がした。
創作に生かすという動機がなければ、あらゆることが、大好きだと思えたあらゆることが「めんどくせぇ」に変わったのである。
エネルギーが消えた。
「燃えるぜ!」「最高!」「素晴らしい!」「美しい!」「綺麗!」――なんでもいい、語尾にエクスクラメーションマークのつく感情。これらが喪失した。
これはねぇ、本当につまらない。
誇張かもしれないが、「痛みがないよ」と言われたら死んでもいいと思えた。死にたい、と言うよりは消えたいという感じか。エネルギーもないのに存在しているのが「めんどくせぇ」と思えたのだ。

めんどくさかったり、やる気の起きない人生は生きるのも嫌だ。
そう感じて、創作は続けようと思った。創作のために色々と犠牲になることも多いだろうけど、それは「しょうがない」と諦める覚悟は出来た。
以来、効率のようなプロフェッショナリズムを持ち出されると、必ず「俺はアマチュアだから関係ないね」と心の中で唱える。
俺にとって創作は手段じゃなくて本質なのだと見栄を張る。
であるから、「アマチュア」であることには固執したいし、こだわっている。
以前は「同人作家」という言葉を「アマチュア作家」という意味で使っていたが、もしかすると今後は「同人作家」ではなくなるのかもしれない。
しかし我が輩はあくまでアマチュアリズムに拘りたい。
我が輩は自分の創作物に飯を食わせて欲しいとは思っていない。ひたすら「やる気」「モチベーション」「幸福感」を求めている。

「やる気のない」状態は本当に嫌だ。
だから「やる気がでる」ことしかやりたくないし、それはプロフェッショナリズムとは言えない、アマチュアの遊びなのだと思っている。
我が輩はこの遊びを手放したくはない。

と言うことで、これからもStudio・Hommageとして変わらず創作していこうと思う。
変わらぬご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い致します。