23本目 キャラクター創作論その6

 このシリーズの最後に、何度か以前からも言っている「無意識への配慮」というものについて触れたい。

 逆説的ではあるが、我輩は「人物造形を深くするのは、掘り下げ過ぎないこと」が大切だと思っている。

 我輩がいくら格好をつけてキャラクターを人物、作るを出会うと言い換えたところで、やはり、自分のなかで作った架空の人物であることは違いない。自分が作ったのだから彼らの心中を覗きこみ、彼らの喜びや、悲しみを分析し、言葉にしてしまうことも容易にできる。

 しかし、だからこそ、我輩はそれをやってはいけないと思っている。

 自分が作ったキャラクターだったとしても、わからない、を残しておくことは大切なのだ。彼らの喜怒哀楽を顕微鏡でのぞき、心理学まで持ち出して解剖してしまう必要はない。読者は答えを知りたいわけではなく物語を楽しみたいのだ。

 何故、わからない、を残しておくことが大切なのか

 一つには人はそれほど自覚的ではないという事実による。

 常々頭の中身を文字にしている我々のような輩は別にして、一般的な人はそれほど自分の心理を言葉にしない。その機会がない。

 自分が悲しんでるとか怒っていると自覚し、それを理性で捉えなおす作業――原因を探ってみたり、意図的に気分をかえる行動をとったり――等をすることも少ないだろう。自分の現状を理解するにはメタ認識が必要であり、これはなかなか訓練がいることだ。

 自分の悲しみや喜びの在処、理由などを探ろうとする物好きは少ない。漫画や小説における心理描写が、日々、人々の心の中で行なわれているか――そんなことはない。

 多くの人はもっと一時的な感情に反射的に応じている。

 であるから、あまり人物の内面に入りすぎて彼らの内側をことごとく言葉にしてしまうと、いざ人物を物語りに現した時に奇妙な振る舞いをする。

 シーンのリズムもテンポもリアリティもぶち壊す、自分語りを始めるのだ。

 何故こんなことになるのか。それは貴方のせいだ。貴方が彼、彼女の内面に入り込み全てを解読してしまったから、彼ら彼女は言葉にされた己が心中を吐露してしまうのだ。

 本来、こんなことはない。

 我輩は立て板に水で自語りをはじめるキャラクターを見ると、「こいつ一人で練習してたのかな? ナルシストもいいところだな」と思い冷める。自分のことを語るにしても、探るように、とつとつと語って欲しいものだ。なかなか自分のことなんて口にはできないものだ。

 わからないを残しておく必要性の二つ目としては、人物をキャラクターにしてしまわないためだ。

 彼、彼女の心理を読み切り、行動原理を完全に理解した瞬間、彼らは人物ではなく物語のために動く駒となる。

 貴方は彼らの動かし方を知っているのだ。それらは少し複雑に動くにしても、チェスの駒と何か変わりはあるだろうか? ポーンは初手のみ二マスすすめる、主人公はヒロインがつかまると助けにいく――物語が完全に貴方の手の中におさまってしまう。

 その物語は扱いやすく破綻しないだろうが、実にせまい。狭すぎて、恐らく、物語として生まれてくる必要もないものになる。

 物語とは出会いなのだ。何かわからないものを、物語を書ききることで見つけようという、探求の行動そのもの。

 世界のクロサワも言っているが、言いたいことがわかっていたならそれを紙に書いて張り出せば良いだけだ。「自然を大切」だとか「命は尊い」だとか「市民には納税の義務があります」だとか。わかっていることならわざわざ物語にする必要はない。あるとすればプロパガンダか倫理を伝える教科書用かのどちらかだ。

 我輩も「国シリーズ」がどんな物語か完全にわかっていたら書かない。つまらなくて書けたものじゃない。物語と向合う度に新たな出会いや発見があるから、かれこれ八年も同じ物語とつき合っていられるのだ。