節目におもう

節目

「ノベルゲーム100本ノック」と題して、ノベルゲームづくりに必要なノウハウを連載しようという大それた企画、そろそろクォーターの二十五回目をむかえる。
ふり返ってみると、題目からして偉そうだし、文体もどこの大御所かというなりで、皆様方のなかには読んでいるうちにむかっ腹がたった方も多いかと思う。芸風である。許していただきたい。何も本当にこれほど偉いと思っていない。馬鹿にされるため、誹りを甘んじてうけるため、ピエロの覚悟で「我輩は猫である」猫もびっくりの学者気取りをしている。大先生を気取って小学生だって間違いそうにない誤字を見つけると死にたくなる。本当に恥ずかしい連載だ。しかし完遂はするゆえ、しばらくおつき合い願いたい。

さてこの度。
久しぶりに徒然なるままに駄文を記したいと思いたち、それを実行に移すのは区切りからである。
2017年の始まり。吾輩にとって様々な区切りであった。
第一に二年間勤めあげた仕事を前年末で寿退社した。
嫁さんをもらったわけではない。
この度はバッくれることなく、勤め上げて花束をいただき、円満に送り出していただいたので寿退社なのである。
去年の年始から「一年後の退職」を口にして、紆余曲折はあったがよくたどり着いたと自分を褒めたい。
客は増えスタッフは減り、ベテランがぬけて新米のみの職場とかした。誰しもの心のなかに「こんな状況でよくやめれますね」との声があっただろうが、あえて、吾輩は鈍感であった。満面の笑みで花束をうけとり、送別会では焼肉をしっかり食べ、「これからもお客様に愛される素敵な職場にしてください!」と涙を浮かべて手をふった。

我輩は他人の人生を生きるつもりはない。
誰かが悲しむから、辛い思いをするから、苦しむから。訴えられれば大いに心は痛む。
しかし良心の呵責と、吾輩の人生とは関係ない。
心が塗炭の苦しみに悲鳴をあげようとも、成すべきことを完遂する義務とはまったく関係ないのだ。
「国シリーズ」を完成させるというのは、我輩の決意である。
決意の以前には感情も大いに役目があるが、決意の後には関係ない。
決意とは何をするかを決めることでなく、何をしないかを決めることだ。
我輩は物語の他で他人を楽しませること、喜ばせることをやめたのだ。

人生はシンプルな方がいい。歳をとるほど一層そうだ。
あっちでもモテて、こっちでもモテる。三十路も届くと八面六臂は半可につうじ、付け焼刃がぽろりぽろりと取れる頃。
色々諦め時だろう。
だいたい、様々な価値やルールのなかで生きれば、それだけ傷つく機会も多い。
とかく世の中褒められるよりはけなされることのほうが多く、また褒められたことよりけなされたことの方が胸に残るのも常。
価値観を一つきめて、あとは「いやあ、立派なもんだ」と興味のない品評会の菊をながめる程度に生きるのがいい。
その方が素直に人を褒められる。我輩もノベルゲームにかけては他人様を素直に褒められないが、隣家の犬の毛並みなら手放しで褒められる。そこは譲ろう、そう思えるのだ。

仕事をやめたのも区切りであるなら、今年の二月に三十回目の誕生日をむかえたのも一つの区切りであった。
三十路。
しんじられなーい。
と、二十歳の頃は思っていた。と言うより、三十歳になったらさすがに何かしらの事をやり遂げ、何者かになっていると思っていた。
が、結果で言えば未だモラトリアム。
何者でもなく、未だ全ては未遂。
まいった、まいった。

しかしながら。
周りを眺めて見ると、我輩と同じく彷徨える蒼い弾丸のなんと多いことか。
類は友を呼ぶでそうなのか、世間おしなべて皆そうなのか、誰も彼も生き方に迷っているように思われる。
資本主義と自由経済のエラーによって、フランシスフクヤマが論じた歴史の終りは先延ばしにされ、我輩たちは答えなき時代にほっぽり出された。
別に恨み節は言わないが、もはや前世紀的な考え方では乗り切れない世の中になっているのだと感じる。
親父たちの大好きな言葉「一所懸命」は命をかけるに値する一所たればこそ価値があるが、もはや我輩たちは何が命をかけるに値する一所なのかさえわからないのだ。
鎌倉時代にはご恩と奉公による封建制度が成り立った。終身雇用と専業主婦による子育てが可能だった前時代も成り立ったと言える。御上に従い粉骨砕身の努力を惜しまなければ幸せになれたのだ――少なくとも経済的には。

しかし室町時代から「御上はあてにならぬ」ということで下克上の風潮がうまれたと同じように、我輩たちも「親父たちの言うとおりにしたって人生は買えない」と気づいた。
気づいたが、一体どうすれば幸せになれるのか、時代の変わり目のなかで未だ模索中である。
ふと不安になるのは、我々世代が時代の狭間なのではないか、という悪寒。
前時代の価値観を享受できず、しかし影響はされたゆえに、新時代からはロウトルとしてつまはじきにされる。
よる時代なき迷い子の蒼い弾丸。
モラトリアムのまま、幸せな帰巣先を見いだせないまま、彷徨い続けるのだろうか……。

「いつかこの国で幸せになれるかな? なりたいな」

雪子ちゃんの台詞だが、雪子ちゃんだけの台詞ではないと思っている。

くわえて三つ目の区切りとして、十年目ということがある。
何がか。
物語がである。
二十歳より物語をつくりはじめて十年。結果もでないのによくも飽きずにやってきたと我ながら感心する。

元来、飽きやすい性質だ。熱しやすく冷めやすかった性格が、近頃熱しにくく冷めやすくなってきたから恐ろしい。
習い事にしろ趣味にしろ、長く続いた試しがない。
今になって思い返せば一年と続いたものがないことに驚いた。
しかし物語づくりだけは十年やって未だ飽きない。楽しくて仕方ない! とも思えないが、人より苦にならず毎日机に向えるので性に合っているのだろう。

つい先日、雪子の国シナリオをオブザーバーに見てもらった。やはり駄目だしがでた。
しかも結構大きい。未だ解決策を見いだせず、頭を抱えている次第である。
十年やっても、未だに物語は上手く扱えない。
それでも十年の歳月のなか培ったのは、「まぁなんとかなるだろう」という根拠なき自身への信頼である。
すぐに答えが見つからないことでも、今の自分には解決できないことでも、そのうち何とかなるだろうという自信が今はある。
初稿を否定されたからって慌てふためくことなく、持ちうる限りのリテラシーをもって感想に耳を傾けることができるようになったのは大きい。

今の自分を絶対視して信じ過ぎると、現在の結果は決して動かせないもののように思えるので挫折感も大きい。
半分くらい信じて、半分くらいは疑って、改善できることを信じることができると、物語だけでなく色々生きやすい。

十年、そればかりが得ることのできた財産のように思う。

さてこのように様々な区切りであり、新しい幕開けでもある2017年の年度初め。
偏に願うのは「雪子の国」の無事完成と、皆様の手元にとどいて楽しんでいただくことばかりだ。

国シーズ第三弾。
雪子の国は夏コミにて発表予定なので乞うご期待。
一月後くらいにダウンロード販売もする予定なので、そちらもよろしく。