今回は背景を描くことについて論じたい。
背景画、つまりキャラクター立ち絵の後ろに配置される風景画としての背景はもちろんのこと。文章や台詞にも存在する背景、全てにおける多義的な背景を描く難しさについて触れていきたいと思う。
背景はむずい。絵を描くにしたって、キャラクター絵と比べて格段に難しい。
我輩も絵描きのはしくれだから、その難しさはわかる。
パースとかそういうの、嫌いだ。
しかし何より難しいのは、背景を描くのに必要とされる知識の獲得だ。
単純に絵を描くことに絞っても、キャラクターを描くより俄然、背景画は教養というものが必要になってくる。
住宅地を描くにしたって……
例えば住宅地を描くのに、庭の植木が何であるか理解しなければならないし、森を描くのにだって緯度を意識しなければならない。白樺(シラカバ)は関西にはないし、楠(クスノキ)は東北にはない。南にある木と書いて楠、その所以である。
民家の作りだって違う。先祖代々続いている由緒正しき家の娘が、ヒロインだったとする。その娘の家を描くのに、家の作りというものを理解しなければならない。平成に建てられたマンションならいざしらず、100年も続いている名家ならその土地の家造りというものがある。
障子だって積雪のある地方、それも豪雪地帯なのか、それとも雪見酒を楽しめる程度の平地なのか、それだけで違う。雪見障子という存在にとびついて、積雪数メートルはあるような豪雪地帯にそんなものを配置すれば「雪国のことなんもしらん」と誹りをうける。
現地にいってロケハンをし、その写真からおこせばある程度はカバーできるが、写しただけでは再現できないこともある。我が故郷萩にきて、武家屋敷になっている柑橘類を蜜柑と思うなかれ。あれは橙(だいだい)だ。
雪子は庭になっている果実を一つ手にとって、口にはこんだ。
「甘い」
なんてやった日には終りなのだ。
馬鹿が書いた物語として見向きもされなくなるだろう。
必要とされるリアリティ
リアルとリアリティは違うものであり、物語に必要なのはリアリティ。現実の模写である必要はない。
必要はないからこそリアルを知っておかなければならない。リアリティとはリアルを劣化させることを許すのではなく、リアルを捉え、捉えたうえで物語にあわせてデフォルメーションすることなのである。
背景を描くには勉強が必要だ。
まず物事には意味があることを意識する。
冬になれば庭先に赤い実をつける南天であるが、どこの庭先をのぞいても植えてあることが多い。これはたまたまではない。玄関先に植えることにおいて「なんてん」つまり「難を転じる」にかけた魔除けになっているのだ。あれがグミの実であってはいけない。
家や庭木、神社や公共機関、あらゆるアーティファクトには人々の願いや思い、長い歴史のなかで培われてきた利便性というものが息づいている。
それらに敬意を払わなければ背景は描けない。だから難しい。
我輩もよくやらかしてオブザーバー達の失笑をかう。
恐らくどれだけ気をつけても間違いはなくらないだろうが、そういうことに敬意をはらうことは忘れてはならないし、敬意を払うには知識がいる。
また次のことを頭に留めておくことも大切だろう。
自分が知っているのはわずかなことで、知らないことが多くある。
めんどくさがらず、しっかり勉強したい。勉強しても知識を鼻にかけず、謙虚でありたい。