ハルカの国 創作の記録 その33

近況報告

現状はシナリオを進めつつ、返礼品の創作を主に進めている。発注し、届いたものを組み合わせ、印を押し、工作を続けている。
発注の関係で物が揃うのは五月末、発送開始が五月末~六月初旬になりそう。
出来る限り早くお届け出来るよう作業を進めていきたい。といって、せっかくの物だから、クオリティを最大限には保ちたい。

雑記

同人界隈の知り合いと久しぶりに話すことがあった。かれこれ二年ぶりだろうか、創作関係の方と話すのは。オブザーバーとは月一回程度話すが、他の創作者さんという意味では本当に久しぶりだったから、良い刺激になった。
オンライン飲み会で五時間、様々なことを話した。
面白かったのは、引きこもりの才能とSNSについて。
我が輩、かれこれ四年近く引き籠もっているが、別段、辛いとも思わない。何故、辛くないか。分析してみると、SNS利用頻度が低いからではないかと思われる。
SNSを覗くと、他人がいる。他人の感情がある。他人の体験が羅列されている。やっぱり、嫉む。寂しい。自分も何かが欲しいと考える。
この外への羨みが引きこもりを難しくするのではないか。比較対象があると、自他という分別が生まれ、他があればこそ自を強く意識し、自の充実を強く求めてしまう。自が他を羨んだように、他から自への羨みが欲しくなる。それで動く。
これが引きこもりを難しくする「落ち着きのなさ」に繋がっているのではないかと考えた。
そういう話しをすると、「kazukiさんはTwitterあんまやらないですしね」と御相手。と言って、相手方は我が輩に輪をかけてSNSを利用しない。
利用しない者どうし、利用過多の弊害を並べて楽しむ。
我が輩にとっての一番の弊害は、落ち着かなくなること。引き籠もっていられなくなること。
これは困る。
我が輩の創作はほとんど一人で行う。一人でいられる時間はリソースとなる。一人でいられなくなるとリソースが減る。リソースが減ると作品が完成しない。
だから一人でいられるよう、環境、精神、肉体を整える。
意図的に整える部分もある。しかし、運が良いのか悪いのか、我が輩は一人でいることが他人より容易。元来、環境が整っていることもある。自分が手にしている環境は、自分にとって何よりの才能だと近頃思う。
この環境を大切にしていきたい。
引き籠もってなお精神を安定させたい。そう願う方は、とりあえずスマフォからSNSアプリを削除しよう。パソコン、インターネットブラウザからもSNSへのショートカットアイコンを消そう。意識にSNSが持ち上がる回数が減るほど、自他という分別が消え、目の前の行動に集中出来るようになる。
最近読んだ本で面白い文句があった。
「SNSは無料で人々の注意力を掻き集め、それを企業に有料で売っている」「無料で差し出しているのは利用者の方だ」
なるほど、そういう考え方も出来よう。
注意力=集中力、それすなわち人生。
集中して何かへ取り組む。その結果の積み重ねが人生の実というものだろう。人生を形作る集中力を無料で提供していると言われれば、ちと気前が良すぎるかもしれない。
利用するからには何か見返りを〝ぶんどる〟くらい覚悟が必要か。
皆様はSNSより何をぶんどり、何を差し出していると自覚していらっしゃるだろうか。

現実といアイディア

シンエヴァの話しにもなって、そこから「現実」というアイディは、今、どうだろうかという話にもなった。
シンエヴァのラストに対し、あれは90年代的表現だと思う、という意見が交わされたのだ。
90年代。まだアニメや漫画がオタク文化であり、その対立構造として現実があった時代。
もっと言えば、現実の対立として、現実を否定した者、あるいは現実に否定された者の居場所としてアニメや漫画が成り立っていた時代。
「現実」「世間一般」「普通」というアイディアがあまりにくっきりとしていて、そうではないものたちもまたくっきりとしていた。そういう「はっきり、くっきり」とした構造の中で青春を過ごし、アニメや漫画を隠れて消費してきた人たちにしかラストの意味は深々とは刺さらないのではないかと話した。
だって、もはや。
現実に戻ったところで、周囲の誰もがスマフォでゲームやってるし、Youtubeで動画みてるし、漫画読んでるし。当時は虚構と言われた世界で金を稼いでいる人がいっぱいるし、そういう人がキラキラしているし。小学生のなりたい職業ランキング上位がYouTuberだったりゲーム実況者だったりプロゲーマーだったりするし。
現実に帰ったところで現実ってなんなのって話で、そもそも現実なんてものがないのじゃないかという時代である。
現実がくっきりしていない以上、その対立構造である虚構もくっきりとはしない。だからその越境にも意味が生じない。アニメや漫画を嗜好したとして、それで現実側から差別的扱いを受けたことのない若者には越境の意味がわからない。
現実なんてものは所詮、アイディア、概念なのである。世間の同意に基づく、フィクションなのである。
この現実、世間一般、普通というアイディアが、90年代ほど強くない。
そういう2021年という時代において、あの表現は現代の若者には「?」だったのではないかと思うのだ。
その上で、やはり庵野監督の言う通り、あれは「全てのエヴァンゲリオン」――90年代に現実との相克で苦しんだ者達に向けたラストだったのだと思う。
エヴァどうのこうのと言うよりも、現実というアイディア。
これが上記したように弱い。くっきりしていない。
空間において座標を同じくしていても、それぞれがスマフォの世界に没頭しているのだから、空間の同期性は現実を規定しない。遠くにいても繋がっていられるし、近くにいても違う世界を見ている。インターネットは時空間座標の同期性を解体し、その意味を弱めた。
何をしていることが「現実的」なのだろうか。どう生きることが「普通」で、どんな暮らしが「世間一般」なのか。
それら国民共通のアイディアが不明である。そしてもはや、求めてもいない。
先述した通り、インターネットが地理的同期性の意味を解体した。これはつまり、地理空間によるナショナルの解体でもある。近くに住んでいることに、かつてほど意味はない。むしろ任意の共通項で繋がった相手との関係にこそ人はアイデンティティを感じる。
生活のことだって、隣人との関係よりむしろ仕事先の相手――海外の動向なんかが密接に結びついてくる。隣人は法律遵守という最低限を守ってくれる透明人間でさえあればいい。自分もまた隣人にとってそう努めればいい。
近くに住んでるからって俺等関係ないよね、という同意で生きている。
近さって意味なくない?
この感覚が地理空間によるナショナルを解体していく。結果、地理空間におけるナショナルなアイディア、国民、県民、在所民という意識が薄れ、それらの同意によって成り立つ「世間一般」「普通」つまり「現実」というアイディアが揺らぐ。
距離や地理の無力化が今後もすすめば、かつてはそれらによって規定されていたナショナルが失われ、ナショナルの同意によって生まれた「現実」も消える。
「現実」が消えたのが現代ではなかろうか。あるいは、消えていく過程が現代ではなかろうか。
従来の精製法による「現実」はもはや望まれまい。
今更隣保組合が再起するとも思えない。現代人の空間座標への無関心は、ディスプレイを見つめている時間と見つめていない時間の対比をすれば一目瞭然。座標に興味ないのである。
この態度を非現実と攻めるのも間違っている。
技術というものは常に現代に対し精神的課題を提供する。
つまり「現実」とは何か、「現実的」とは何か、ということ。
歴史を紐解いても文字がある時代とそれ以前の「現実」は違うし、印刷技術の発達も「現実」というアイディアを一新した。通信技術の発達も「現実」を変える。要するに前世代的なものを「現実」とし、次世代的なものを「フィクション」とするのは間違いで、どんな時代も漸次技術の革新によって現実は革新されてきたのだ。
今、我々が立っているのは現実と虚構の相克ではなく、新たな技術によって生じた環境において、現実とは何かを規定する場面なのではなかろうか。
それはとりもなおさず、人間とは何かを革新し、規定するということだろう。
空間座標の意味を解体された人間が、果たして何をもって「その人」たりえるのか。新しい人間像の上に、新しい現実というアイディアは共有されるはず。
現実は、今、どうか。
若い世代に「何が現実って感じる?」と尋ねてみたいものだ。

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