ハルカの国 創作の記 その30

ハルカの国「決戦編」 進捗

現状、青写真を作っている。
あちこちから仕入れた情報を整理し、まとめ、大正時代の「愛宕」というものを形作ろうと試行錯誤、四苦八苦しているところ。

以前、浦沢直樹が漫勉という番組において「最初は無限大にも思えた作品のイメージが、創作の過程で小さくなっていく。その小さくなっていく力にどれだけ抗い、最初の大きさを保てるかが作家としての実力」的なことを言っていた記憶がある。
これを聞いて「自分とはタイプが違うな」と思ったことも記憶している。

我が輩の場合、最初は頼りないものへ肉付けしていきどっしりとさせ、ついに物語れるほど盤石なものにする過程を経るので、物語は巨大化していく。
閃きやアイディアを大切にする、あるいは閃いたものやアイディアに価値があるタイプは浦沢直樹の様に最初にこそ最大を感じるのだろう。
我が輩のように多少の閃きやアイディア程度では物にならないタイプは、三等星のようなか弱い閃きを集めて、結んで、何とかかんとか星座という体面をつくり全体性において語ろうとするがために、物語は巨大化していくのだと考える。

浅才の僻みだろうが、「よく閃き程度で物語を書こうと思うよな」とその手付けの速さを勇ましさ通り越して蛮勇にさえ思ってしまう。
本当に才能のある者はそれでも物語をまとめきるのだろうが、多くの場合は空中分解、砂上に築く楼閣のごとく瓦解してしまうのがとどのつまり。
創作が挫折に行き着く原因は、閃きやアイディアの過大評価にある気がしてならない。

インスピレーションを得て、そこからの衝撃で駆け抜けるばかりが創作ではない。
我が輩のようにか弱いものをつなぎながら、探りながら広げながら創作していくのも一つの姿であるはず。
あるはず、と肯定しておきたいのは、青写真をつくるこの過程、目に見える前進がなく心細いのだ。

シナリオ執筆であれば一日何文字だとか、ネームであればノルマ二〇枚等、「やった感」がある。本質への貢献度は別にして、とにかく今日一日サボらず真面目に生きたという達成感が得られる。
それが現状、ない。
日長一日、本を読んで終わり。そんな日もざら。
次の日も、アイディアをノートにまとめて一日が終わる。
そんな日々を一週間も続けていると、強い焦燥感に襲われる。何でもいいから形になる創作をしたい。文章でも良いし、絵でもいいし、スクリプトでもいいから「やった」感が欲しくなる。

ただここで見切り発車を行うと物語の大きさが足りず、脱線し、余計手間をくう。
物語の大きさとは物語の魅力と言い換えられるかもしれない。
十分な魅力をもった物語でないと、創作過程を走りきる燃料がないのだ。
だから焦る気持ちを「ステイ、ステイ!」と宥めながら、今は青写真を作っている。
その日読んだ本のページ数や、書いたノートのページ数などを記録し、「何もやっていないわけじゃないよ」と自分を慰める。
我が輩のような創作タイプには自慰とも呼べる技術が必要なのだ。
さもなければあまりの寂しさにSNSへ承認欲求を爆発させてしまう。これを相手にされないとメンタルがヘラるので自分の内で「慰め」は完結させたい。

現状は天狗の居住区である「谷」の景観や、その機能をどうするかで頭を使っている。
商業区である「里」との違いは何なのか。その「違い」によって何を読者に見せるのか。その見せるものは「決戦編」にとってどういう意味合いがあるのか。
やはり見せるもので物語を語りたい。であれば見えてくるものに意図がなければならない。
ユキカゼが麓の「里」から禁足地である「谷」へ登っていく空間的な移動を経て、どういう変化を見て取るのか。
このユキカゼが感じ取るであろう「感じ」の演出に悩んでいる。
谷のモデルとして考えている飛騨高山へロケハンに行きたくて仕方ない。でも行けない。
苦しい。

創作には閃きの力をかりて驀進するタイプがいる。
そういう天才性が創作の印象となり、バリバリ結果物を出していく姿こそ正しいと考えられると、多くの者が苦しむ。
我が輩のように「段取り」や「青写真」にやたら時間のかかるタイプもいる。本来的には、我が輩のような創作方法にこそ相性の良い人々が多いのではないかと思う。
我が輩は才能というものを重要視していない。持ち合わせていないものを重用する嫌さかもしれいが、昔から「才能なんて能なしの言い訳だ」と思ってきた。
馬鹿と鋏は使いよう。
真の意味で「才のない人間」というのは手元の金槌を鋏と勘違いして「切れない切れない」と嘆く者であり、世間で鋏が持て囃されれば得意の槌を捨て手に合わないものを必死に求める者であろう。
才覚なんてのは道具の種類。手元にあるものと相談して、出来ることをすべきだ。
我が輩の手元にあるのは上記のような方法なのである。
経験上、ここで焦ると物にならない。
だから「ここで浮き足立つなよ」とブログにも書いて自戒している。

しかし、それにしても焦る。
Twitterを眺めてみれば、なんと他人の成果物で溢れていることよ。
自分の人生に集中したいものだ。そういう力を得たいものだ。

集中、集中!

遅読のすすめ

遅読である。
本一冊読むのに一週間近くかかる。もちろん、内容やページ数にもよるが、本腰を入れた読書になると新書くらいの厚さで一週間かかる。
都度都度立ち止まって調べ物をし、情報の補強を行うための遅れもあるが、そもそも読むのが遅い。

かつて速読技術を習得しようと励んだが、実を結ばなかった。
読む速度をあげると、情報が頭に馴染まない。頭に入ってこないのである。
一文読む度と言えば大袈裟だが、ある程度のセンテンスを読む度に間を空けないと情報処理が追いつかない。
頭の回転が遅いのだと残念に思っていたが、近頃、そうではないかもしれない、と考え直した。

結論から言うと、我が輩は新規情報と既知の情報群の関係性を築くのに時間がかかっている様なのだ。
つまり、新しい情報が入ってくる度、自分の中にあるデータベースと照らし合わせ、整合性と言おうか、「馴染む」まであれこれ考えるのである。
結果、いちいち手が止まる。
読むのが遅いのではなく、読みを通して得た情報の処理が遅いのだと最近気づいた。
しかもこの情報処理速度は年々遅くなっている。
けれど考えてみれば当然で、日々新しい情報が頭に入ってきているのだから既知のデータベースは強大化していき、そこと調和するために必要とされる間は増大していく。

以前は素直に読めていた文章が、「前に読んだあれとはどういう関係にあるんだ」と引っかかり調べる。調べて調べて、情報同士が地続きになり、点が線となって面を感じたところで納得がいき、次に進む。
次に進む前に疲れたのでちょっと休む。
こんな具合であるから読み終わるのに一週間もかかる。

ふり返ってみれば、遅読が顕著になったのは物語のための資料読みを始めてから。
思うに、それ以前は情報の刺激を楽しんでいるに過ぎなかったのだ。
知的好奇心と言えば聞こえはいいが、瞬間瞬間の情報に興奮したり満足したりと己の気分を楽しんでいるに過ぎなかった。
ニュースや新聞を見て、「世の中悪いやつばっかりやなぁ! けしからん!」と唸っているオヤジと同じで、義憤を燃やす気持ちよさに情報をくべていたに過ぎなかった。

それが物語の資料として本を読むようになってから、情報を「使う」必要が出てきた。
そのために全体性をもった理解が必要となり、新規情報が既知のデータベースに馴染むまで時間を要するようになった。結果、遅読が進んだと思われる。

迅速な情報処理

迅速に情報取得していく方法として、その情報群を独立させ、他の情報と関係を築かせない方法があると思う。
情報は掛け算と同じで、他と関係を持とうとした瞬間、一気に量が膨れあがる。七色をただ七色として扱うのと、その並びのバリエーションまで考えるのとでは、情報量がまったく違う。

丸暗記が記憶法として有効なのは、この「独立性を保ち情報量抑える」手法のためだろう。丸暗記の丸とは、他との関係性を廃絶する情報境界線を指すのではないだろうか。

情報のインプットにおいて「関係性を断ち情報量を抑える」手法は有効だが、アウトプットにおいてもこの「関係性を断ち情報量を抑える」手法は有効のように見える。
いや、「関係性を断ち情報量を抑える」手法はアウトプットを簡易にするが、アウトプットされた内容の情報の質を著しく下げる――拙速な情報を生む苗床になっているように思う。

こんな連中を相手にしたことはないだろうか。
やたら口上が上手くて、立て板に水で喋り、こっちを論破してくる。
一切考える間や悩む間も置かず、装填されていた弾を撃ち尽くすごとく持論を展開してくる。
言っていることは間違っていないはずなのだけど、なんか納得いかない。

こういう相手は大抵、パッキングされたカプセル情報をぶっ放している輩で、時間軸を大きくとると発言が矛盾する。
言質をとって照らし合わせると矛盾するし、喋らせ続けても矛盾する。
要するに小分けしている情報を喧々諤々に捲し立てているだけで、小分けしている内では理屈が通っていても、別の小分けとは関係性を持っていないから情報カプセル間の整合性がとれていないのだ。
情報カプセルの節目、情報境界線を見つけてやり、そこを飛び越えた照会をしてやれば、大体、瓦解する。
少なくとも「どう考えてもコイツは頭が良いわけじゃない。何かやり遂げているわけでもないのに口ばっかり達者」と思えるような相手には、この方法で対処すれば概ね方がつく。

小さな情報カプセルは小さければ小さいほど理屈が単純で扱い易いが、その簡易性を助ける独立性のために、幾つか語るとカプセル間で矛盾が生じるのだ。
要するに「お前の言ってること全体として矛盾してるじゃん」になる。
これが、語るに落ちる、という状況だろう。

やったら持論を展開してマウントとろとしてきたり、いちいちこっちを否定してくる口八丁の手合いには、いくつか情報カプセルを吐かせ、それを言質にとり、その不整合性を突きつけてやるのが良い薬になる。
最も、こういう手合いに限って己の知性に自尊があり、反面、「馬鹿」あつかいされるのに強烈な拒否反応を示すので、面と向かってやるのはお勧めしない。
いくつか言質をとり「やっぱこいつ矛盾してんな。小さな理屈しか持ってないのだな」と自分の中で納得さえすれば、あとは相手が口角泡を飛ばす論調を微笑ましく眺めるのが賢明だろう。
他人に恥をかかして得なことは何一つない。
我が輩の貧しい人生経験の中でもこれだけは真と思えるから、皆様も「危険から身を守る」という意味で他人に恥をかかせるのはやめられよ。

話を大きく戻して遅読。
もっと言えば、遅い情報処理。
「大きな読書をしているのだ」「大きな構造をもった情報群を築いているのだ」と慰めながら、のそりのそりやっている。
他所と比べると焦るので、これも自分に集中しやれることをやっていきたい。

この度はブログを通して、自分の「遅さ」に向き合ってみた。
創作を困難にし、モチベーション低下を招くのは混乱、パニック。焦りはこれを生じさせるので、その焦りの元である「遅さ」と向き合う機会も必要だろうと考えたのだ。

皆様も他人と比べて「遅い」「とろい」ことがあり、焦るのならば一度「大きなものを作っているのかもしれない」と己の遅さに耳を傾けてやってもいいかもしれない。
大器晩成。
真実はどうであれ、そう慰めてやれば焦りや混乱もおさまり、手に負えること、改善できる事も増えるだろう。
焦っている内、混乱している内は何も出来ないので、まずはこれらを取り除く処置が必要だと我が輩は考える。

CFは現在、申請中。
三月初旬~四月初旬くらいを目指しております。

以下はブックレットのデザイン案。星霜編だけ表裏表紙にデザイン。(表、クリ。裏おトラ)

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