今から書くことは初歩的であり、オリジナリティを欠く。
本屋に行って初心者用の小説の書き方や、シナリオHow toの本を買えば書いてあることだし、恐らく過去のブログにも書いたようなことになる。
それでも再び書こうと思うのは「ストーリー構成術」であり、わざわざ書きなおそうと言うのは、ブログで使う各種の用語を、今後のコモンセンスにしたいからである。
第1幕だとか、プロットポイント1だとか、物語の縦糸だとか横糸だとか急に言われてもわからないと注意されそうであるし、他の題目を書いている途中にいちいち注釈をいれていると流れが悪いので、ざっと、おおまかにではあるが、物語の書き方とそこに登場する語句を説明したい。
ストーリー構成術
構成する技術とは以下のように言える。
多くのシーンを目的に従って整理し、編集し、統合すること。
100カットのシーンがあったとする。これが物語の最小要素であったと仮定しよう。
一番簡単な構成とは、100カットを時系列順に並べることだ。
これでシーンの連続に筋がとおる。
ただこれだけでは楽しんでもらい、最後には驚きと感動を与えるという物語の目的を叶えられない。物語に躍動感を与えるには、構成の技術、ルールがある。
3幕構成
日本では起承転結が有名だが、我輩は「状況設定」「エンターテイメント」「解決」の3幕構成を強くおす。これが一番シンプルで扱いやすい。
まず冒頭では状況設定が始まる。
物語は「○○が○○をする話」という主語と述語で表現されなければならない。
キリンの国なら「キリンと圭介がお姫さまに会いに行く話」であるし、現在開発中の雪子の国は「ハルタが幽霊を探す話」だ。
これは物語の前提、ベクトルを指し示すことになる。
前提、ベクトルとは物語のルールだ。
これが曖昧だと目の前で起こっていることに価値判断ができない。
キリンの国でならキリンや圭介がヒマワリ姫に近づいていくことがストーリーの前進であるし、その道中を邪魔したり、ヒマワリ姫を横から連れ去ろうとする連中がいればそれらが葛藤になる――ということが物語の前提を示した時点で、読者に伝わったことになる。つまり物語の楽しみ方を伝えたのだ。
これが曖昧だと何が起こったら良いことなのか、あるいは悪いことなのか、さっぱりわからないという状況になり、目の前に垂れ流されるシーンの価値が判断できない。
人間は無意味なものを見ることに耐えられない。
物語の状況設定は物語が始まる最初の一言から始まらなければならない。
これがやたらと遅いのが初心者の物語で顕著だったりする。
さて状況設定の方法だが、これは簡単に5W1Hで行える。
上記した「○○が○○をする話」、つまり誰が何をする話なのかを明確にする。
〝いつ〟、〝どこで〟は物語りを書き始めようと思っている者ならすでに決めているだろう。貴方が物語の舞台を幕末の京都にしようか、それとも宗教戦争のおこった中世ヨーロッパにしようか迷っているのなら、まだ物語は書く段階ではない。
重要になってくるのは何故(why)、と、どのように(How)、だ。
特に何故は物語の動機であり、これは物語という列車を動かすエンジンにあたる。動機が弱いと物語が動かない。読者もその先が気にならない。
脱獄者を例に考える。
無期懲役で投獄された男と、懲役2年の男だったら、どちらが脱獄に執念を燃やすだろう。
それも無実の罪で無期懲役だったら? 塀の外では自分を嵌めた男が嘲笑い、あろうことが最愛の妻に手を伸ばそうとしていたら――このように何故(why)が強力なものであればあるほど、物語は推進力を得て目的にむかって突きすすむ。読者も先が気になる。
ただ二点注意しなければならない。
一つは動機がいくら強力でも、読者が共感できなければ意味がない、ということ。
財はだまし取られ、妻は殺され、娘はさらわれた男の復讐劇が今はじまる――と言われてもほとんどの人は共感しない。いきなり言われても「は?」という感がぬぐえない。乗ってない特急列車が目の前を通りすぎて行った。それだけのことだろう。大体、そんな不幸のどん底の人間に感情移入なんかしたくない。
動機を強力にするのは結構だが、ちゃんと読者が乗り込める動機、一緒になって達成したいと思える配慮は忘れてはならない。
もう一つに、これは作風によるのだが、あまり動機を強力にし過ぎると〝いつ〟(When)〝どこで〟(Where)という言わば物語りの風景が死ぬ。
これを我輩は縦糸と横糸の関係と言っている。
縦糸が動機というエンジンで突きすすむストーリーラインだとすると、横糸は物語ならでは風景、世界観だ。縦糸が強力すぎてマッハ3で突きすすむジェット機のような物語だと、外に広がる田園風景もなにもあったものではない。
もし「キリンの国」において、キリンが呪いのために余命一週間であり、今も激しい痛みが肉体をおそい、助かるにはヒマワリ姫がもっている秘薬を手に入れるしかない、という前提だったら動機としては強かったかもしれないが、綾野郷でのんびり蚕養を手伝っている暇はなかっただろうし、あの風景がなければ物語自体あまり意味がないものになった。
動機は弱すぎても、強すぎてもいけない。
序盤は少し強めに、中盤はゆるやかに、終盤で一気に強く、これくらいがいい。
ショーシャンクの空に、でも序盤こそ強く投獄を意識させられたが、中盤は塀のなかでの暮らしをアイディアとユーモアで楽しんでる。終盤になって一気に「もしかしたら無実の罪を晴らせるかもしれない」という加速があって、そこからエンディングへと一気にかけぬける。
見事な動機の扱い方だ。
最後にHow(どのように)だが、これはアクションの前提を示す。
キリンの国なら夏の冒険にでることだし、ショーシャンクの空になら塀のなかで希望を失わずに暮らすことにある。ジャンルがどんなものであれ、これはワクワクするようなものでないといけない。例え悲劇から始まるサスペンスでも「おお、面白そう」と思えるアクションにすべきだ。ニコラスケイジ、ジョントラボルタが主演をつとめる「フェイスオフ」なんかアイディアを聞いただけで思しそうだと思えるHowの傑作だ。