ハルカの国 創作の記 その75

進捗

9月は初週崩れてしまったが、二周目以後は立て直せた。
最後はノルマ以上に捗った。
崩れてしまった要因を探ると、物語のエネルギーを把握できなくなったことに原因があったように思う。
物語には形があり、これを理解していないと流れを掴めず、物語をスムーズに動かせない。
創作する本人がどれだけやる気があっても、物語の流れが読めなかったり、流れに逆らうと創作はままならない。
時間はとられてしまうけれど、定期的な見直しによって物語や人物への理解度を磨き直すことが重要だ。
物語を振り返ることで不調を克服する度に、定期的な見直しの重要性を痛感する。しか、喉元すぎればなのか、再び調子を崩す頃には見直しを怠ってしまう。
見直したくらいで調子が戻るとはとても思えない心理状態にも陥っている。
ただ我輩は日々記録をとっているので、以前似た症状が出た時の対象方法が残っている。
その記録に従い、気持ちはのらないけれど、物語を見直してみた。すると持ち直したので、やはり記録は正しかったのだと、経験則への信頼感が増した。
気持ちがのらないことでもやってみる切欠が人生にあるかないかで、リカバリーの力は変わってくる。
気持ちで動かない、仕組みをつくる、ルールをつくる、感情以上に信頼出来る先を設けておくことは、日々の生活をずいぶん助けてくれるテクニックだろう。
我輩のおすすめは日記、記録。
生活を顧みる切欠とツールを持っておくことは、崩れた時に立て直す土台を用意するに等しく、困難が多い日々を乗り越えていくのに不可欠な回復力を養ってくれる。

シナリオの方は文字数、ネームの枚数ともに無茶苦茶なことになっているが、作りながら編集することは我輩の能力に余るので同時進行はしない。
滅茶苦茶書いて、滅茶苦茶削る方針で、とにかく手を止めない様努力している。
巧遅拙速に如かず、と言うが、我輩は遅くて巧いというものはそもそもないと思っている。
速くて拙い試行錯誤を何度も繰り返した結果、巧いものが遅く出来上がる、というのが創作の世界における巧遅拙速の真実だと考える。
頭じゃなく手数。手が止まったなら歩きながら考えた歩数、あたった資料のページ数。見直した回数も、創作の量と言えるだろう。
先日、ゲームを見直した際には、それを仕上げるために費やした労力や日々が思い返されて、胸がつまったものだ。
我輩の作品は量によって質が担保されているのだから、量にびびらず、量と向き合い、積み上げた量を削り格闘しながら、作品を仕上げたい。

もう一人の人間

人物を深堀る、という言い方をする。
何故、深堀るのだろうか? 読者からの登場人物への理解を深めるため、行動の動機に感情移入してもらうため、人物を好きになってもらうため。様々とある。
理由の一つとして、人間への探求こそが創作が担う役目の一つだということもあるだろう。
たとえ作品が面白かったとしても、全ての人物がパターンで、作中に人間に対する一切の発見や新鮮さがなく、感心する機会を得られなければ、評価は厳しいものになる。
創作の教本にも「人間は人間にしか興味がない」「人間をみせろ」と書かれる。
作品を通して作者が持ちうる人間を披露することは読者への義務であり、その課せられた使命を成すために人物を深堀るのだろう。
しかし我輩が常々思うのは、人物を――人間を深堀ったところで何が見つかるのかという疑問、と言うよりは疑念。
人間に宿る心を探るために、人間に向かって掘り進めていく技法やトレンドへの疑心は年々増してきている。
端的に言うと、人物にカメラを向け、ぐっと寄ってみて、瞳の中を覗き込んでみたって大したものは見つからないと思っているのだ。
何かは見つかるだろうが、そうしたものが大したものとは思えない。一人の人間の苦難や悲しみ、喜びを仔細に追ってみてせ、仮に細部まで捉えたとしても、それはカメラの解像度の高さの証明にこそなれ、発見したものの価値にはならないと思っている。
人間を深堀った結果表現されるものが、よく写るカメラの自慢にしか思えないのだ。

深堀って価値があるのは人間ではない。
人間の影、文化こそ深堀る先としては適当なのではないだろうか。我輩はそう考える。
喋っている人間の心よりも、むしろ言葉に集中すること。方言やイントネーションに耳をすませ、その受け継がれ、繰り返されてきた言葉によって象られ、歪められ、傷ついた人間の傷痕を見つけることこそ、人間を発見する糸口。
文化によって摩耗して、文化的に、風習的に、常識的に振る舞っている歪な姿こそ、我輩は発見すべき人間だと思っている。
服を着て人間。むしろ服をこそ人間と考える。そうすることで、服のなかにいて、服を剥がれることに怯えている何かが、ようやく面白い。
裸になるのは恥ずかしいのじゃなく恐ろしいのだ。築いてきた人間という文化から、疎外されることがあまりに辛い。
だからひん剥かれ、生まれた姿になることは屈辱なのだ。

我輩は文化を人間の影とも思うし、我々と並走してきたもう一人の人間とも思う。逆から眺めれば人間こそ文化の影とも思う。
影がどちらであるにせよ、影がなければ幽霊だ。欠ければ人間は成立しない。
文化という影に矯正された奇妙な生き物。この捉え方によって初めて人間は見つかるのじゃないか。要するにこの生き物の影までおさまる画角で捉えなければ、人間は発見できないのじゃないか。
我輩はそう考えている。
劇的なシーンでの大告白よりも、日常の中での言葉の使い方や選ばれた言葉そのものにこそ、深堀る意識の向ける価値がある。

はあよいよつかれたいね。

我輩のまわりの年寄たちがいつも口ずさむ。
畑に落花生を植えた後の一言も、ついに去った母親の葬式の後の一言も、同じ音色を口ずさむ姿にこそ、我輩は見つけるべきものが残っていると思っている。
人物を深堀るための人物描写の際には、その人物の影である文化までふくめて、捉えていきたい。