進捗
8月も生活リズムを保つことが出来、創作を順調に進める事が出来た。
分量として大きく捗ったわけではないが、月初にたてた計画を予定通り消化出来たので、今月も上出来だったと評価したい。
要因としては起床時間を固定できたこと、体調不良からのリカバリーが早かったこと、体調を崩しても焦ることなく数日間にわたってノルマを調整出来たことが挙げられる。
また三ヶ月ほど前から始めたキヨーレオピン(熟成ニンニクエキス)の常飲も、体力の向上に貢献してくれている。体調不良時、一割~二割くらい状態がマシな気がするのだ。以前はまったく動けなかったのが、近頃は「体調悪いなりに出来ることをやろう」と思える。まず気力が湧くという点からして改善がみられる。
三十歳を過ぎてから養命酒、黒酢、各種サプリメント等、様々に試してきたが、キヨーレオピンが最も効果を感じられている。我輩にはあっているようだ。
加えて、この頃取り組み始めたのが血糖値のコントロール。血糖値の変動を抑えることで、集中力の持続が伸びた気がする。脳がへとへとになる感じ、何も考えたくなくなる状態の訪れが、2~3時間、後ろに倒れたように思うのだ。
こちらも持続して効果を計測していきたい。
気持ちだけではどうにもならない年齢になってきたと日々感じる。
旅先で立ち寄る神社で願うのは、いつも健康のことだ。健康の御守りにもつい目がいくようになった。薬局を回ってみても「元気」「活力」「疲労回復」という言葉にさそわれて、ついつい広告文句を読んでしまう。
こうまで我輩が健康に囚われているのは、創作を続けていきたいからだ。
金はなくとも、人気がなくとも、健康でさえあればなんとかやっていける。健康でなければ何があっても駄目、創作は止まってしまう。
四十を過ぎると身体は当人を助けない。
と言うのは、子供をつくる能力が落ちる四十以後は、進化圧が働いていない領域になるので身体が健康を保証してくれないのだ。
二十歳で健康不良になる遺伝子は、その者が子孫を残す確率が低いために自然淘汰され次世代に残りにくい。しかし四十歳以後で健康不良になる遺伝子、あるいは不健康に抵抗力が弱い遺伝子は、繁殖適齢期を過ぎているために次世代に残りやすい。
この様に、子作りの適齢期を過ぎた身体は進化圧の保証外であるため、若い頃と比べて健康を損ない易いそうだ。
何もしなくとも元気でいられた保証期間は終わり、言うなれば生物学的保険から外れつつある我輩の身体。
文化の力や技術を使い、己の健康法を編み出し、もうしばらく健やかに苦しみながら創作を続けていきたい。
鬼滅
映画「鬼滅の刃・無限城編」を視聴してきた。
この度の視聴体験を通して、あらためて「鬼滅は原作が強い」と感じたので、そこを語ってみたい。
前もって言っておくと、我輩は鬼滅キッズでありながら、アニメ版アンチだ。
まず映画を見てきて良かった点と、我輩には合わなかった点を列挙する。
良かった点。
・人物の台詞
・エモーショナルな回想ストーリー
・無限城において繰り広げられる、鬼と鬼滅隊の総力戦。その緊迫感。
合わなかった点
・アクションにおけるエフェクトの多さ
・テンポ
・演出
良かった点について。
鬼滅はやはり台詞が素晴らしい。我輩の好みではないが、作者の思想、無意識レベルの哲学を感じる。借り物ではない凄みを感じる台詞がいくつもある。
映画を視聴している際、我輩は退屈だと感じる間もあったのだが、そうして気が緩んでいるところに〝台詞〟が投じられ、集中力を呼び覚まされる経験を何度もした。
鬼滅の価値は台詞であり、台詞を通して感じられる作者の世界観だと改めて思わされた。
猗窩座の回想ストーリーは色々思うところもあったが、トータルではエモくて良かった。
鬼と鬼滅隊による総力決戦、この緊迫感も素晴らしい。
それぞれの者が出来ることをして参加し、消耗し、失われていく姿が、戦いの壮絶さを演出していた。
鬼滅の素晴らしさは、バトルが世界観を象徴しているところだ。傷つき、損なわれ、失ったものはもう戻ってこない、人間の脆さや儚さが戦いの中でよく表現されている。
ダメージ表現が巧みで、限りあるリソースで何とか目的を達しようとしている苦しさや辛さがよく伝わってくる。
一度傷つけば回復も難しい人間が生き残りをかけ懸命に戦う姿は、作者の人間に対する信仰が伺える。
我輩が鬼滅を読んで最も感動するところは、作者の人間に対する態度や愛情だ。我輩とは違うものだが、作者には信仰と愛がある。それを作品を通して感じられる。
作者自身の、人間としての力のようなものに我輩は感心する。
合わなかった点について。
アクションシーンのアニメーションはエフェクトが多すぎる。ピカピカ光りすぎて、アニメーションと言うより光の明滅を眺めている気がした。剣戟シーンもエフェクトに隠されアクション自体は少ない。隠されているのではなく、隠して見えない様にしているのだとは思う。(作画の省エネ)
派手なバトルアクションが売りかと思い期待していたから、誤魔化された気はした。
テンポの悪さは、高評価している感想の中においても散見されたが、我輩も同意見。回想シーンが多く、テンポは悪かったと思う。
猗窩座の回想シーンは泣けたし良かったと思っているけれど、冗長かつくどかった。
一つ一つのシーン、特に回想が長いために尺をとり、話も進まなかった。二時間以上映画を見たのに満足感が低かったのは、見たものの量が少なかったためだろう。スタッフロールが流れ出した際、「もう終わり?」と拍子抜けした。
テンポの悪さ、演出のくどさ、ここに我輩が鬼滅キッズでありながらアニメ版アンチである理由がつまっている。
表現とは不思議なものでくどくすると、逆に本質自体は薄まるもので、アニメ版は我輩にとってくどくて薄い鬼滅なのだ。
正直、我輩は作品として見るなら無限城編は微妙だった。反面、商品としてみれば見事だったと思う。
いたるところにモロCGの表現が見られたが、「いらんところに金をかけてない」ことには好感がもてた。
先にあげたアクションシーンのエフェクト多様にしても、うまいことやりくりしている工夫と努力だったと受け取っている。
制作費100億越えが当たり前のハリウッドやジブリアニメの大作映画と比べ、スモールバジェットながら何とかしている工夫は凄いと思っている。
また我輩はテンポが悪いと感じる場面も、「全部がっつりやって、めっちゃエモくする」ことで多くの人々に「わかる」ようにするのはエンタメとしては正しい態度だろう。
少人数に「刺さる」より多くの人々に「わかる」方が商品としては大切だと言われれば、我輩も異論ない。
原作の力
我輩も創作をする身なので、あまり強い言葉を使うと跳ね返ってくることだから躊躇してしまうけれど、それでも言ってしまうと、作品には明確な力差、才能の差というものがあると思っている。
上手い作品は数あれど、本物の才能を有する凄い作品は少ない。
我輩にとって鬼滅は完全に後者で、むしろ鬼滅は下手でありながら才能のために凄い作品であり得たと思っている。
作品を〝凄い〟ものたらしめる才能とは何かと問われれば、我輩は生まれだと考える。
先天的な才能があると言うのではない。どんな歴史の中に生まれ、どんな風に生きて感じてきたか、その過程でどれだけの魂を錬成出来たのかが才能の差を生んでいる。
そう仮定した上で、往々にして起こり得ることは、〝上手さ〟が〝凄さ〟を犠牲にしてしまうことだ。
上手く生きたために、凄みの獲得機会を失ってしまっている生まれが多い様に思う。
上手さは抽象能力に支えられる処理能力であり、抽象は捨象によって成り立つのだから、上手く生きることは世界を〝要するに〟と単純化してしまうことだ。ここで起こるのが、上手く生きるために世界をどんどん要約していき、情報量を乏しくすることで扱い易くする複雑さの放棄。簡単なことを上手くやる短絡な姿勢を、生きることに招いてしまう。
この短絡な姿勢によって、凄さを生む土壌である生まれや生きるが損なわれ、才能の元である魂を結実させない。
結果、凄みを作品に宿らせられないでいる。
我輩は上手さを否定したいのではない。本当は上手く生きられない連中まで、上手く生きようとして世界を乏しくし、魂を未熟にすることに否定的なのだ。
賢くない奴まで賢そうに生きるな、馬鹿みたいにこつこつ生きろ――と思う。
能力の差はどうしてもある。だから人それぞれに精一杯こつこつ生きることが重要だと我輩は思っている。
真偽はどうあれ、鬼滅の刃は「こつこつ生きてんな」と思えた。そのこつこつとした感じがあればこそ、キャラクターの台詞に凄みを感じられた。
実際、我輩は鬼滅のキャラクターに愛着を抱くことはなかったのだけど、台詞に感心することは何度もあった。
台詞がキャラクターを超えたのは、作者から放たれているものに当てられたのだ。
上記の通りで、我輩は鬼滅の価値を作者の魂や生まれにこそあると感じている。
そのために原作主義者なのだが、アニメの方が面白いという意見も受け入れられる。
と言うのも、散々語った凄みや才能は我輩の理屈でしかないからだ。
言ってしまえば、上手く生きられない者の僻み。己の人生を庇う理屈だ。
人生なかなか上手いこといかねぇなあ、ととぼとぼ生きている人間の慰めなのだ。
しかしそんな風に生きている人々も多いことだろうし、そういう連中を慰める力があるのなら、やはりそれは一つの才能だと我輩は思う。
ひねくれている故に、ヒットしているアニメアンチで、原作好み。それだけのことを、意を尽くして説明させて頂きました。
国宝も続けて見るつもりだったけれど、二時間以上の視聴に疲れたのでまた今度。
余談
映画が始まる前、予告として見た「果てしなきスカーレット」のキャラデザがあまりにも良くて大変惹かれた。
誰の作品かと思っていたら、細田守監督。
細田守作品は肌に合わないので残念。面白い、面白くないではなく、作家性と言おうか、世界観や人間への態度が受け付けない。鬼滅は「自分とは違うけれど凄みを感じる」として受け入れられるけれど、細田守監督に関しては「NO!」と身体が拒絶する。これだけ強い拒絶反応が出るのだから、細田守監督にも確固たる作家性があるのだろう。
