進捗
春秋編には大きくわけて三つの物語があり、便宜上、それらを春の時代、夏の時代、秋の時代と分けている。背景となる年代も1960年代、1970年代前半、1970年代後半と異なる。
時代を隔て、長い期間で描くのは、成長と衰退という二つのトランジションをよく表現するためだ。
晩秋には小春という別称があり、秋には春と重なる頃がある。しかしながら秋は玄冬に向かい、春は朱夏に向かって、それぞれ向かい先を異にする。
春秋はその動きを捉えてこそ表現される〝味わい〟だと思うので、今回の物語は変化をよく描こうと志している。そのための時代区分と、時間の長さだ。
夏の時代は、エスタブリッシュメント候補である四人の少年少女が、1970年の万国博覧会に参加して始まる。
司や王族の血筋にある保守本流の天狗として、それぞれの幼少世界(伝統的価値観)を生きていた彼らは、万国博覧会にて月の石や威容を誇るパビリオン群を目の当たりにし、住み慣れた世界観を破壊される。
そのアポカリプス的時代における新たな価値体系の創造、開かれた世界との格闘を、破壊からの再生への努力という流れで捉え、青春時代を通して必死に積み上げたものが再び崩壊するまでを描く。
破壊と再生と敗北によって彩られる、くさいほどのど直球、古典的青春ドラマだ。
これを白状してしまうことはネタバレでも何でもない。描かれる青春ドラマは〝浮き彫りにしたいもの〟の補色であり、技法であって、物語の種ではないからだ。
伝統的青春を配色することで、隣接している青春ではないものを浮かび上がらせたい。そういう技法。
技法を明かすのは、青春ドラマに夢中になりすぎてバランスを崩していないかと心配しているから。
物語執筆は地上絵に似ていて、描いている本人の画角を越えるため執筆中にはバランスをとり辛い。たまには描いているものから離れ、全体を見渡す必要がある。
ここで当初の目的や技法を記すと、物語へのメタ意識が育ち、物語に近づき過ぎていた身体を引き離すことが出来る。
今、我輩は、春秋というバランス感覚に苦心している。
エスタブリッシュメントの系譜を持つ四人は、それぞれ愛宕、鞍馬、白峰、英彦と出自が異なる。そのために伝統的価値観にもバリエーションがある。
それらが破壊されたことへのリアクションも異なるし、いかに再生していくかという方法や方向性にも違いがでてくる。
事を複雑にしているのは、この4つのバリエーションが何度も集い、コミュニケーションをとることで、相互に摩擦し、影響を与え合うことだ。それでいて、和解や調和は成されず、4つという独立性は保たれる。
伝統的青春に和解や調和は似合わないし、そもそも我輩は止揚という対立関係の解消に懐疑的だ。信じていないものを物語の簡易化のために使用するわけにはいかない。
こうして4つの独立した変化に意識を割いていると、上記したようなもっと大きなところでのバランスを失っている気がして不安になる。
対象とのバランス感覚は、物語創作に必要とされる能力の一つだろう。
その能力を養うのに、ブログでの白状が役に立っていると思う。人様に読まれる文章として物語の概要や、課題をアウトプットすることで、我輩は屋上にのぼり描いている地上絵を見下ろしているのだと思う。
情報の優位で物語を楽しむ
以前、ツイッター(新X)で以下のような内容が流れていた。
新人の子が同期の子に、ミステリー小説の概要を伝えていた。結末がわかるネタバレを含んでいたので、ネタバレは良くないと注意した。すると、「〇〇さんの頃はそうだったんですね。今は結末知ってから読むのも、普通ですよ」と返されて驚いた。ネタバレありで読むならミステリーの意味とは何なのか。
昨今の若者はネタバレを忌避しないと言う話を聞く。
本当にそうなのか、真相への探求は棚にあげ、そうだと仮定して「何故、若者はネタバレを忌避しないのか」を考察してみたい。
一つには技術によって区分されるジェネレーションというものがあるだろう。
スマホネイティブな世代にとって、スマフォは身体的なものであり、インターネットを通じたアーカイブへのアクセスを自己能力とみなす傾向があるように思う。
つまり考えて推測するという行為が読者の能力として許可されるように、彼らの世代にとって調べて知るという行為は当然認められるべき読書体験(消費体験)の一部と見なされているのではないだろうか。
そのために調べればわかること、万人にアクセスが可能な情報の公開を控えるという感覚が乏しく、情報を公開される受動の立場になった際も、ネタバレによって体験が損なわれる
ことへの忌避感が薄いのかもしれない。
またエンタメが多い時代であるから、何事にもカジュアルに向き合う若者が多く、自主的な情報の統制や知的好奇心の欲求をコントロールしてまで読書に向き合う労力を疎んじる傾向もあると思う。
加えて感じるのは、情報の不利を背負いたくない、という被情報マウントへの忌避感だ。
昨今のエンタメは主人公と読者によって共有された秘密情報が、物語社会に対し情報の優位をつくり、その優位性によって受益したり、他の登場人物から驚愕を引き出し承認欲求を得る形式が多い。
本当は実力があるのに過小評価され~というリベンジ物は、この情報優位によって生じる期待感を推進力としている。
この情報優位の快感が好まれる傾向において、形式上、情報の不利を背負わされるミステリーは、純粋な形のままでは受け入れられないのかもしれない。
情報有利の快によって物語を楽しんできた読者にとって、情報不利を背負わされることは不快であり、その不快を解消するために第四の壁をこえ情報を取得することは自然な成り行きとも考えられる。
そうだとするなら、情報の不利を背負わないために、調べて知っておく、というネタバレ歓迎の姿勢も不自然ではない。
物語体験を通して感動を得たい、驚きたいという欲求は世代にかかわらずあると思う。
しかし、エンタメがあふれ、カジュアルに作品へ参加していきたい消費者にとって、フォーマット上「知らないがわ」としての参加を求められるミステリーは、情報不利という不快からのスタートと感じられる。
その不快をメタ的に解決してなお面白そうであれば選択肢にあがってくる、というのがカジュアル層における選択行動なのではなかろうか。
ネタバレを嫌がらない精神構造とは、検索による情報取得への親和性、カジュアルな消費傾向、情報不利への忌避感、これらによって成り立っているのではないかと推察する。
ちなみに。
我輩もミステリーを読む時は、本当にそれがミステリーなのかは調べる。ミステリーと思って楽しんでいたら、前提条件が崩れ幽霊や宇宙人、超能力が出てきた、なんて経験をしたために培われた予防策だ。
ネタバレを踏むよりも、無駄に楽しんだ末に失望を感じることを避けたいという、これもまた〝無駄〟を嫌うカジュアル層の感覚だろう。
本でも映画でも、嫌な体験をすると媒体そのものにしばらく拒否反応がでるので、本気で楽しんで良いものかどうかは気にしてしまう。
楽しめなかった時に怯え、エンタメに予防線をはるなど、つくづく臆病になったものだと思う。
