進捗
ネーム 約680枚(先月+30)
シナリオ 約200000文字(先月+20000)
十月は1960~1963年のシナリオを直し、1970年万博参加までのシナリオをオブザーバーに提出した。何の話だかよく分からない、と指摘を受けていた序盤も軌道にのりつつあり、まず胸を撫でおろしている。我輩がこの度の物語で「エンタメしたい」と考えている事柄は世間では「面白い」と思われないものかもしれない、という不安を払しょくしつつある。
やはり技術や手段の問題だった。我輩が世間から孤立した感性を持っているわけではない。我輩が「面白い」と感じたものは、工夫すればちゃんと伝わる。
工夫はいつだって難しく苦しいけれど、たらんたらんは工夫がたらん、と唱えつつシナリオを直し続けている。ハルカの国、最後のシナリオである。(春秋編と永訣編は切りどころが難しいほどに一続きの物語だ)悔いの残らない努力はしたい。何度も何度も同じ場面を読み直してくれるオブザーバー達には、感謝の念がたえない。
筋と祝福
技術の問題としてこの頃考えるのは、筋と祝福の関係について。
星霜編の頃から一貫して「筋を弱めたい」と唱え続けてきた。オブザーバーにも「筋を強く出したくない」と伝え、物語に筋を感じないストーリーテリングを探って来た。
筋が強い物語は分かりやすく、感情移入もし易い。筋の強さは、本来的にメリットこそあれデメリットは少ない利点である。
しかし我輩が物語体験において目的としている祝福には、筋の強さが悪く働く。
我輩にとって祝福とは「その瞬間の肯定」であり、「いま、ここ、私」というリアリティの濃密な体感を指す。それが喜びであれ、悲しみであれ、怒りであれ何であれ、その日その場所の誰かへと描写を集中することで成立する現象なのだ。
だから祝福の瞬間には立ち止まりが必要になる。この立ち止まりを否定するのが「先にある結果を求める筋」なのだ。
筋が強いと、物語に抗いがたい速度慣性が生じ、立ち止まりが難しくなる。筋の速度に乗った読者は、先が気になるあまり祝福の停止をまどろっこしく感じてしまう。
しかし我輩は祝福という豊穣な味わいこそ物語体験の醍醐味と考える。少なくとも我輩の物語は祝福との邂逅を目的として語られる。故に、祝福の停止を否定する筋の速度を、いかに弱めるかが近年の課題だった。
筋を弱めるほど速度は落ちて、立ち止まりが容易になる。しかし筋が弱い物語は発展性に乏しく、何を追えばよいのか分かり辛く、対立構造も曖昧で感情移入もし辛い。端的に言ってつまらない。
筋を弱めると物語はつまらなくなり、筋を強めると面白くなるが祝福という独特の味わいが失せ、物語は承認欲求や拡大欲求を満たす単調なアドレナリン増幅器と化す。
このジレンマをいかに乗り越えるかを悩み続けた。いくらつまらないと言われても、筋を強める方向、物語の速度をあげる方向では修正したくなかった。
読者が十分に満足出来る面白さを保ったまま、祝福との機会を損なわないバランス感覚はどうすれば得られるものか。
考え続けた末、ふとこの頃、逆説的な案を思いついた。
筋を強めることで、逆に、筋は弱くなるのではなかろうか。
この「強くする」は、筋の緊迫性、緊急性を増すことを意味しない。筋の徹底的なリバースエンジニアリングの末、筋が生じる原因となった根源的なエモーションを理解し、それを元にして物語の全体性をデザインする、ということだ。
一つのアクションを志向していた筋を、元素還元的処置を行うことによって、具体的な行動を志向しない空気のようなものにしてしまう。
この空気的筋は、水素のようなもので、物語におけるどんな現象にも結び付きやすい。そうして、どんな現象にも〝筋感〟を帯びさせていく。単独のアクションとしては関連性がないように見え、バラバラのイベントが発展性なく並んでいるように見えるが、それぞれが筋感を帯びることで関係性が生じ、物語としての進行感が生まれる。
この「ゆるいけれど繋がっている感じ」によってじわじわと進行していく物語速度こそ、我輩が求めている「祝福に必要十分な速度」なのではないだろうか。
実は筋は、徹底的に意識されることによって、逆に、空気のようにその気配を消す。表象的な出現を控え、読者を「目的へ」と煽らなくなる。それでも筋は存在していて、物語にゆるやかな連帯感、じわじわとした進展感を与え、読者が迷うことを防ぐ。
筋が物語に速度を生じさせてしまうのは、実は筋への理解が低いために強いアクションへ筋の表現を頼ってしまい、結果としてアクションの強い志向性により速度が生じていたのではないか。
祝福のための努力は、筋を弱めることよりもむしろ筋を強めること、筋への徹底的な理解に向けるべきではないだろうか。
そんなことを、この頃考えている。
筋のリバースエンジニアリングの過程で、我輩は自己の感情の故郷をいくつも突き止め、その浅ましさや稚拙さに何度も慄いた。
物語の筋は人間の普遍的感情から生じる。筋への感表移入とはつまるところ人間への感情移入である。感情を分解し、徹底的に理解しようとする時、己の矮小さを思い知る。
この「しょうもなさ」と向き合う恐ろしさも、筋を理解する妨げになっているように感じた。
筋に眠る自己感情と向き合うというのは、一番見たくない角度の己の鏡像と向き合う気持ちとよく似ている。基本的には幻滅と落胆しかない。だからこそ、それを補おうとする力、もう一度幻を求めようとする力が大きく生じ、それが筋としてのアクションへと駆り立てる原動力にもなるのだろう。
泥沼の上にこそ咲く蓮の花のように、筋は己の泥とまみれてようやく花となるのだろうか。筋が人間の普遍的感情から生じるのであれば、そうなのだろう。人間の自分という泥沼にもぐって、ようやく花の根を見つけられるのだろう。
骨の折れることだ。
