ハルカの国創作の記 その41

進捗状況

決戦編は九つの区分けからなる。

幻痛
燃え石
迷い路
土人形
天空回廊
幽霊の森
青き墓
風立ち
淡雪

上記のように区分だ。このような区分の何が役立つかと言えば、まずスケジュール管理に役立つ。
次に各区分の離散性の調整に役立つ。
たとえば幻痛は独立したシークエンスを持っていて、この区分だけで起承転結がある。
幻痛の結に訪れた一段落感を受け止めるように、燃え石はゆったりとしたリズムの日常描写から始まる。その中で、予期される旅立ちへの期待を積み重ねていく。
その行程は迷い路にも受け継がれ、迷い路の最後に積み重ねてきた期待のカタルシスとして出発する。
燃え石~迷い路は物語における役目としては同じだが、情報量が多いために二つの区分に分けた。燃え石は盛夏の昼、お里という商業区の雑踏の中で情報展開がなされ、迷い道は夕刻~夜の間、閑静な御山の禁足地で情報展開がなされる。
燃え石~迷い路は物語における役目は同じながら、背景色のコントラストをくっきりさせることで連続することへの飽きを解消しようという試みがある。段々と積み重ねられていく期待を保持しながら、見た目や雰囲気のバリエーションを変えることで新鮮さを保とうという狙いだ。言うなれば、食ってる大盛りラーメンを途中で味変してもらいたいわけだ。
こういう演出の調整をするのに、読者の集中力が持続するだろう区分を設けるのは役立つ。区分間で「何が連続していて」「何が転調するのか」という意識をもつことは、演出の方向性を決める方針になる。

現状、上記の区分において、七つ目の「青き墓」のスクリプト作業を行っている。決戦編の決戦編たる所以、決戦がこの区間において生じる。
戦うのはアカハギとハルカばかりではない。あらゆるものが、あらゆる相手と戦う。それぞれが多頭の蛇のように、お互いを飲み込もうと試みる。自分の生きてきた歴史、選んできた選択、つまり存在という全質量をかけて相手に激突する。
多頭の蛇は源を同じくする、途中枝分かれした存在。同じでありながら、決定的に違う選択をしたそれぞれである。よく似ているが、はっきりと違う。これらが睨み合う時、どちらが正しかったのかをお互いを問い質す決戦に至るのは、必然だろう。
鏡合わせのような幻のなかで、それぞれだったかもしれないそれぞれが、それぞれではなかったそれぞれと衝突する。
そこに価値の判断を持ち込みたくはない。誰が正しくて、誰が間違っていたのかなんて言いたくない。となれば、出来ることは衝突というエネルギーの描写しかない。
この決戦という人々の衝突エネルギーを描写していくのには、こっちもエネルギーを要求される。
単純な話、素材がメッチャいる。準備してる段階で疲れる。準備そのものに疲れるのではなく、準備によって予想される本作業を想像して疲れるのだ。
これを乗り切るには、第一に体力が必要だろう。
暦の上では春。我が輩の苦手とする冬が終わろうとしている。(寒くて朝起きられない)
春は名のみの風の寒さだけれども、その寒さのなかに力づけていく春を感じ、春を目指して、乗り越えていきたい。
冬の間はさぼっていたランニングを再開するのだ。

最近、読んだ本についての雑文。思いついたことの列挙

浅田彰の「構造と力」を読んだ。「ニューアカ」時代に流行った本だそうで。
構造主義の本を読むことの困難は、構造主義が言語学、記号論を下敷きにしているために、構造主義の記述に既存の記号をそのまま使用出来ないことに起因していると感じる。
日常の中で使われているニュアンスを帯びてしまっている記号、名詞は、構造という日常のメタ描写に向かない。日常を抜け出した感覚で記述したいところ、既存の記号にはどうしても日常で吸い上げたニュアンスというものが匂ってしまい、著者が意図するものと別のものが想起されてしまう。
そこで既存の記号に対し、新たに明確な意味定義を行い、「濁りのない描写」を試みるわけだが、構造主義で言うところの「交換」だとか、構造主義で言うところの「贈与」だとか、括弧つきの新定義記号で記述される世界観は、新定義に慣れていない読者には大変苦しい。
いわんや、新定義記号どうしの関係性などは理解の難度に拍車をかける。
さらに加えて、著者の中での記号用法が明確化されていないと、読者からしてみると記述に飛躍がおこり理解がおいつかない。
同じ内容のことを違う記号で表現したり、新たな記号定義の中に、前回定義したばかりの記号が登場したりするのは、大きな混乱の元になる。
プログラムでいうところ、クラス外と思っていた変数が持ち込まれているような感覚。
著者の中では、新たに定義された記号たちの分布図、類似による距離感が把握されているのだと思うが、その記号どうしの関係図を共有できない読者には、一つ一つの単語の意味は理解できても、それぞれの記号の関係性を〝前提〟とした記述にはなかなか追いつけない。振り落とされる。
この新定義記号と、それら記号の関係性が著者依存である割合が多いために、構造主義の本はマジで読み辛い。
日本人が書いた本も読み辛いが、本場フランスの翻訳本は輪をかけて読み辛い。

ただ、感じるのは、「とてつもなく読み辛いが、難しいことを言っているわけじゃない」ということ。と言うより、たぶん、構造主義~脱構造主義の文脈は日本人の肌にあう。
ソクラテスから始まり、キリストを経由する西欧価値観に本質的には浸かっていない我々には「自明の理」を語っている内容が多い気がする。
ソーカル事件の揶揄によって躓いた構造主義にとって、「衒学的とも見える小難しい記述はおいといて、言ってることは感覚として理解できる」という日本文化、と言うより西欧とはオルタナティブに生きてきたアジア文化圏は、構造主義が目指した脱構造主義が大衆に染みていく苗床としてはもってこいなのではなかろうか。
ちなみに、我が輩が解釈する構造主義と脱構造主義の違いは、構造主義は綺麗な星空を見ては星々の配置を描き留めることであり、脱構造主義とは星々が〝そのような配置になった〟運動法則を記述すること。
風景を静的に描写する構造主義、風景の動きを記述する脱構造主義、と言った所か。端的に言えば、脱構造主義は構造主義より一段階メタなのである。
脱構造主義が大衆的に、肌感覚として理解されるようになれば、我が輩が希求する「祭」の文化の到来もありうるのじゃなかろうか。逆から言えば、一気に熱狂し、瞬く間に覚める「祭」文化が根底にある日本人には、脱構造主義という感覚が分かるのじゃないか。この円循環的な関係が期待される日本においては、我が輩は「難しいことを言わない、衒わない構造主義」が望まれるのではないかと考えている。
たとえば、エンタメとして、感情移入できる構造主義とか。
まぁ、結局それは家族物語になるのだけど、既存の家族物語とは距離をおくために家族を批判する目、家族的感情を相対化する目を持つことによって、新たなエンタメになり得るのではないかと感じる。
我が輩も、そういうものを目指している。

家族という構造への、吐き気と感動。ゲロと涙。
この両者を描き出し、しっかりとオーケストレーションし、エンタメとして「気持ちのよいもの」として消化できるか否かが、次世代の表現に求められていることではなかろうか――と本を読んでいて感じた。
家族を翼賛するでもなく、否定するのでもなく、家族という愛と猛毒のなかでゲロと感動の涙に塗れつつ、そのウェットなものの中にはまりきらない、からっと生きていける軽妙さを備えていく。ゲロと涙の両方を笑ってしまえる腹、タフネスを持つこと。それが未来の人間に求められる資質とも感じた。

究極に言えば、我が輩にとって脱構造主義の利用、援用によって目指す先とは、「飽きることの肯定」「永遠性=良いこと」の否定であり、それは結局、家族の解散可能性の肯定にいきつく。
永遠の家族によって価値観を学ぶために、「良いもの・本物=永続するもの」となり、「永続しないもの・一時的なもの=価値のないもの・偽物」となる。
この永遠の家族、スタティックかつ普遍への信望を解消しない限り、今後必要となってくる「瞬間の価値」をいつまでも認められず、環境変化のノリにノリ遅れてしまう。
だから我が輩にとって最大のテーマは、日本における神聖不可侵の価値、家族をいかに解散させるか、いかに弔うかがテーマになっている。
家族は途中解散しても良い、途中で解散しても十分価値があって良いものだったことに出来ること。永遠の「家族」を弔い、瞬間の価値として「家族」を認めることが出来る価値文化の獲得が必要なんだと、我が輩は2022年という構造の中で体感しております。

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