進捗
二月から立ち絵の制作を始めた。いよいよ春秋編のビジュアルを組み立てていく段階に入り、緊張してきている。
我輩にとって創作は楽しいものではなく、緊迫し、その心地に苦しみ、逃げ出したくなるものだ。それだからこそ、ライフスタイルの中心にあり、ライフワークにまで至れた。
不可解だと思われるかもしれないが、楽しみや喜びは人生の中心には成り得ない。人生の中心に留まれるのは、いつまでもその人にとって苦しくあれるものだ。
畏怖を伴う緊張と向き合う苦しみ、そこからの解放のリズムが、人生に躍動をもたらす。
楽しみを探すよりも、恐ろしいほどの苦しさを見つめた方がいい。
人生経験としてそう思う。創作は我輩にとっていつまでも、いや、いよいよ恐ろしいものだ。
この度は立ち絵制作にも段取りを立てた。
決戦編では手当たり次第、端から端まで、思いつくやいなや立ち絵を作成した。この最初から始めて順々に、とにかく全部、余すことなくという方法は春秋編に通用しない。
物量があまりに多すぎるのだ。全てことごとくやるは春秋編では無理だ。
そこでまずは仮組みをつくり、全体の調子を確かめられるようにして、後にデザイン意図に従い、重要度の軽重を考えつつ加算していく方針をとっていく。
そのための段取りとして、
第一段階:基本素体+服装バリエーションの立ち絵
第二段階:表情基本差分
仮組み
第三段階:ジェスチャー差分+追加表情差分
第四段階:特殊立ち絵
というスケジュールをたてた。三月中に第二段階まで進み、四月から半年間かけてシナリオのスクリプトに取り組む予定だ。
基本素体+服装バリエーションを数え上がると、春の時代20、夏の時代34、秋の時代9として合計63個ほど。
この63個の立ち絵は、中心人物を軸として、関係性を表現するようデザインしている。たとえば若者と年寄りの着物柄の差や、貧富の差、位の差など。そのように63の立ち絵素体に相関図をつくり、デザインの方向性を決め、資料を集めてから一気呵成に制作を進めた。
前回まで「何を作って、何を作らないか」の判断基準が曖昧で、その日の作業内で完結するよう都度都度考えていたが、この度は数が膨大なためにそれが出来ない。いちいちの判断に任せていると、時間リソースがある時とない時で判断がばらつき全体性が損なわれる。
デザインの全体性の欠損を防ぐため、この度は最初に指針を決めた。物量が多いことによって可能不可能がはっきりし、表現への判断基準が明確になっている。おかげで作業に迷いがなく、進行が安定している。不自由さがかえって制作を助けることは、あるようだ。
制作の極意、あるいは行為、行動の極意とまで拡大してもいいかもしれないが、どうやら不自由から自由に向かうのではなく、自由から不自由へ向かう方向こそが正しい道のりらしい。
春秋編はその規模によって沢山の制限を我輩に課してくるが、その制限された不自由によってむしろ工夫が生まれている。
東北への旅
時間がないない言っておきながら、四泊五日の旅をした。
山形、秋田、青森(津軽)の日本海側東北三県を北上。北の海を見たくて、決別編の舞台とした山形酒田から青森の竜飛岬までを辿った。
その所感を記録する目的で語りたい。
山形。
庄内空港を降りて市内へ。途中、山居倉庫におりて自由経済を通し近代化を支えた米倉を見学する。非電力冷房装置として二重屋根や、西日をさける銀杏並木など、先人たちの様々な工夫が見られた。
「本間様には及びもしないが、せめてなりたや殿様に」
そう謳われた豪商本間家邸宅はあいにくの休業日で、この度は断念。
空港からバスでの移動中、ふと目に留まった看板に「土門拳記念館」とある。
土門拳は、筑豊の子供たちの土門拳か? と調べるとそう。どうやら酒田の人だったらしい。
写真家土門拳。彼が撮った閉山炭鉱の子供たち、その迫力に胸をうたれ、名前を覚えた。これは縁だと思い足を運んだが、記念館自体は収穫少なく終わる。と言うのも、我輩は土門拳が撮った人物写真に興味があったのだが、大々的に展示されていたのは晩年にとられた仏教建築シリーズで、求めていたものを見ることが出来なかったのだ。
しかし以前、求めながらプレミアがつき買えなかった写真集「筑豊の子供たち」がお土産コーナーに山積みにされており、それが買えたのだから大収穫。ただ旅の始まりからさっそく旅の仲間が増えて、リュックサックを重くした。
それにしても酒田は鳥海山に見張られている町だ。最上川の河口にかかる国道112号線で北を向けば、鳥海山と目が合う。我輩が滞在中、晴れ渡ることがなかったからそのシルエットははっきりと見えなかったのだけれど、雨霧の向こう、残雪はまるで空間の傷痕のように堂々と浮かび上がる。
欺くことは出来ない、やがて内面化していく神とも感ずるほど、鳥海山がこちらを見つけてくる。鳥海山に見守られ、見張られている町。短い滞在ながら、そう感じた。
それにつけても、人類が感じる独峰への憧れは何だろうか。
大分の由布岳、鳥取の大山、岩手の南部富士、山形の鳥海山、青森の岩木山、それぞれ見上げた時の畏怖と胸を内側から引っ張られるような引力は忘れ難い。
この度も弘前城から見る岩木山の姿が、あまりにも別れがたく、ぎりぎりまで見ていたために電車をあやうく乗り過ごすところだった。
なにかこう、挑んでみろと、挑戦されているような清々しい気持ちにさせられる。背を向けて帰路につくことが逃げることのように、後ろめたく感じさせられる。
そんな風に感じるのは我輩だけだろうか。
秋田は滞在時間が短く多くを巡れなかった。
しかし食べたハタハタの酢締めの寿司は忘れ難い。ハタハタの腹を空けたところに生米をつめ酢につける。するとハタハタも米も酢でふやける。これを輪切りにしたのを丸ごと一匹、頭から尻尾まで食べた。酢につかると骨まで柔らかくなると聞いていたが、頭まで難なく食べられたのには驚いた。
味もさることながら柚子で香り付けされていたのがまた酒とあった。旨かった。色々食べたが、この酢締めの寿司だけよく覚えている。
昔はどこの家庭でも作られていた郷土料理だったらしい。しかし今ではハタハタが高級魚になってしまって作られないそうだ。惜しいものがなくなっていくものだ。
この度の旅行、元々青森に目的があった。太宰治の著作「津軽」。あれを読んで以来、一度、竜飛岬を眺めてみたかった。眺めてみようと思い、赴いた。竜飛岬も良かった。しかし何より良かったのは、その手前で訪ねた小泊(こどまり)。
小説津軽において、太宰が育ての親であるタケと再会した小さな港町。冬季は以北が通行止めになるのだから、文字通り、日本海側の本州行き止まりの地だった。
小さな記念館が建って、そこにタケと再会した太宰を模した像がある。その像が何とも言い難くいい。津軽を読んだ時、良い場面だなと思ったものが、勝手に想像していた場面よりずっと豊かに蘇った。
タケを探して町を彷徨った太宰、諦めかけ、諦められず、ついに奇跡のように再会し、並んで運動会を眺めた。太宰はこういう町を、あの叶わないような思いを抱えて、諦めかけながら巡ったのだなあと思うと、記憶にないはずの思い出のように我輩の胸にも香った。寂しかった頃のことを思い出したような気がしたのだ。
最後に海にでて、行けるところまで北へ出て、ぎりぎりの場所で写真をとった。そこで撮った写真が、竜飛岬の最北端で撮った写真より裏寂しくて我輩は気に入っている。
太宰の作品を読んで、太宰の生まれ故郷を巡って、あらためて北の人だったのだなあと思った次第。
この度の東北旅行、不思議に何かを思い出しそうになる風景や匂いに触れる機会が多く、懐かしい心地のする旅だった。

