進捗
2025年総括。
記録を振り返ってみると2025年は素晴らしかった。
上半期にはみすずの国のリメイクを発表出来たし、下半期はスケジューリングが上手くいき、年内のシナリオ書き切りが叶った。完成ではない。とりあえず脇目も振らず書き続け、春秋編のラストシーンまで書き切ったのだ。書いている途中に多くの課題にぶつかったが、リストアップだけして書き続けた。結果、ポストイットにまとめた未解決課題、改善点のアイディアが50を越えている。
しかしながら、行為と判断を分けたおかげで手の止まる機会が減り、執筆速度を保てた。
そうして書き上げた初稿の文字数、なんと70万500文字。
参考にあげておくと、みすずの国が6万文字、ハルカの国越冬編が13万文字、霜編が26万文字だ。
70万はいかれた数字だ。これほど長大なシナリオを書いたのは初めてだ。
これほど長大な物語を扱うと、作者としてメモリ不足を痛感した。ダイナミズムに意識を割かないとならない要素が多すぎる。また要素と要素の関係性の話になるとバリエーションが増し、それら関係性の推移まで把握しようとすると我輩の能力を越えた。
春秋編を書いて明確に己の限界を感じた。この規模が我輩の扱える情報量のリミットであり、ややそれを越えたのを力技で何とかした。しようとしている。
年々、記憶力の低下を感じる我輩であれば、今後は扱える情報量も減っていくに違いない。量という意味では、春秋編がピークだったと思う。
初稿70万、1960年~1974年の15年間を書いた。もちろん割愛している時間も数年ある。ただし数年で、多くはシーンとして書いた。書きすぎた。ここから削って60万文字程度に収めたいと願っている。
絵にして、文字にして、必死に書いたものを、願いながら削るのだから創作は因果な業だとつくづく思う。
下半期の半年、ほぼスケジュール通りにこなせた経験から学んだことがある。
執筆速度を上げるには、速度を上げるのではなく、停止の回数を減らすことが重要だということ。
速く書くのではなく、止まらず書くこと。そのために書きながら考えないこと。考えてから書き、書いてから考える。考えることも書くことも執筆の一部ではあるのだけれど、それらを同時進行しない。時間軸のなかで分割し、行為を可能な限り単純にする。こうすることで止まる機会が減り、結果として速度があがる。
速度とは単位時間あたりの移動距離であるから、必ずしも速く走る必要はない。止まらず進むことが出来れば、遅い亀が素早いウサギに勝つように、速度を得ることは出来る。
どうやったらより速く、より多くを書けるのかを考えるのではなく、どうすれば今普通にして出来ていることを止まらずに続けていけるかを考える。
この発想によって、かつてないほど長期にわたるスケジュールを守り、70万という最長の物語を書き切る事が出来た。
出来ることを止まらずやる、止まらないように出来るようにする。春秋編の執筆を通して、我輩は一つ賢くなれた気がしている。
焦燥という存在の否定
年の終わりを師走という。師でも走る忙しさで師走。
年の暮れ、皆様、焦っておいでだろうか? きっと焦っておいでだろう。年の終わりを有意義にして、2025年の意義を少しでも回復したいと思われているのじゃないだろうか。
しかし思い返してみて、焦っているのは師走だけだろうか。いやきっと一年中、焦っておいでだったと思う。焦燥に駆られ集中力に欠いた浅い行為に振り回されてきたはずだ。
この失礼な断定からはじめ、これから語る事を皆様事として、この度は焦燥について語ってみたい。
これは我輩が経験し、苦しみ、克服を試みてきた挑戦の記録でもある。
焦燥は辛い。
あまりにも辛くて、我輩は部屋中の時計から電池を抜いたことがある。どんな作業をしていても進捗が気になり、効率性による否定感を覚え、作業に集中出来なくなっていた。そこで苦肉の策とも言えない、ヒステリー気味な感情表現として目に付くあらゆる時刻表示を止めた。これでもいくらか気分が改善したので、当時はよほど焦って生きていたのだと思う。
経験則から言って、焦っても百害あって一利無し。
焦ることでパフォーマンスが向上することは無かった。逆にミスが増え、焦っているだけの時間によって時間を浪費し、集中出来ないために質も落ちる。
一体、焦ることに何の意味があるのだろうか。焦ることに害しかないのなら、何故我々の本能機能として焦りは残っているのか。ケアレスミスを頻発し、時間を浪費するだけなのだから生存にとっては不利でしかない機能に思える。
焦りながら、焦りをひしひしと感じてもみて、これは人間の歴史において何の役に立ってきたのだろうかと考えた。
考えた末、結論が出た。
焦りは有史以前、まだ定住生活を始めていなかったジャングル時代の道具であり、有史以後、つまり定住が始まり国を築き文化を発展させていった〝最近〟の生活には適していない。
たとえるならピッケルやハーケン、ザイルという登山に必要な数キログラムにも及ぶ道具を、サラリーマンが通勤生活においても背負い続けているようなもの。
有史以前、森の中に狩猟民族として生きていた我々は焦っていた。喉の乾きや空腹、生活を脅かす外敵について。
まだ喉は乾いてなく、先程食べたばかりで腹は満ちていて、外敵の姿は目の前になくとも、我々は焦っていたのだ。焦って、動き出し、必要になる前から探し始め、見つかる前から逃げ出していた方が生存の確率がずっと高かったものだから。
探し続けろ、動き続けろ、逃げ続けろ。満足など出来る限り早く切り上げ、焦り、怯え、片時も油断するな。これがジャングルの鉄則だった。
ジャングルから離れて久しい皆様も経験ないだろうか? 買う前は欲しくてたまらなく、それが手に入れば満足すると思っていたものなのに、手に入れた瞬間、それどころか通販サイトの購入ボタンを押した瞬間、もう次のものを求めている不思議な衝動を。
これがまさにジャングル由来の焦りで、食べ物を見つけたならさっさと口に詰め込んで、味わうこともなく飲み込み、次を探しに出かけろという本能からの命令なのだ。
たちの悪いことに買い物は食事と違って満腹中枢が働かず、購入したこと、取得したことに本能的な満足はまったく得られない。そのため衝動買いが始まると止めどない。延々と買い続け、買ってしまえば見向きもせず、買うという衝動に突き動かされ続ける。
購買力に限界があるうちはまだいいが、リポ払いやBNPLといった名札を変えた借金に手が出始めると破滅だ。皆様も買い物衝動から外的制限を外さない様、くれぐれも気をつけられよ。
有史以前の狩猟民族だった我輩達にとって、焦って探すこと、その場を離れることは生存に有利だった。
次へ、次へと目標を更新し、移動し続けることが生き残るための方法だったのだ。
しかし時は移り、我々は社会を築き、文明の中に生きるこの頃。今目の前にある仕事を放り出すわけにはいかず、いくらストレスがかかっても席から離れる選択肢をとることは出来ない。
少しでも不快を覚えたなら焦りの本能が呼び覚まされ、すぐにでも逃避を始めることが生存の方法だったのに今やそれを封じられている。
二十万年以上も、今、ここ、これから離れ、いつか、どこか、何かを探して動き始めることで生き延びてきたのに、たかだか数百年程度の新参文化によって、机の前に尻を縛り付けておけない者は社会不適合者として疎外される。
この最近の流行りにのっかれていない我々の姿こそ、焦っている状態に他ならない。
つまり本質的に我々は焦っていて、その本質、本然の姿を「焦っている」として否定される文化の中に苦しみながら生きているというのが正確な描写なのだ。
人間はあたふたしている生き物なのだ、あたふたしていたから生き延びてこれたのだ。
まずこの前提に立つことで、焦燥と向き合っていきたい。
我々は本来、焦っている。
そう考え始めてようやく、焦燥を乗り越える心構えが出来る。
焦りを克服することは本能を克服すること。その挑戦には多大の努力と、技術が求められる。焦ることは失敗ではなく、それが普通の状態であり、仮に焦りをわずかでも克服し集中することが出来たのならそれは成功なのだ。
本能は否定し難く付き合う他ない。この前提に立つことが第一の焦燥への対処だ。
第二に、と言いつつ残念ながら我輩が取得している技術としては最後になるのだが、準備と振り返りの時間をしっかりと設けることが大きな効果をあげる。
焦りは、今、ここ、私を否定する。こんなことやっている場合なのだろうか、ここに残って同じ事を続けるべきなのか、もっとよりよい自分に変わらなければならないのじゃないか、とこの瞬間を否定してくる。止めて動け、探して変われ、と命令してくる。
この命令の声に応対するために、準備をして対応マニュアルを作成しておく。
事前に他の選択肢をあげて比較検討を済ませておき、焦りの声に対しては「いえ、これがベストです」「今はこの方法で試していて、ある期間のうちはこれを続ける事になっております」とカスタマーセンターよろしく応対していく。焦って聞こえてくるであろう声に対し、事前に回答を用意しておくのだ。
また作業中に別のアイディアが生まれたり、別の選択肢を思いつきそちらの方が有効そうだと気が逸れることもしばしば。それがまた現状を否定してくる焦りにもつながる。
その新たな思いつきに対しては、「何時間後、何日後に改めて考える時間を設けております」として保留の対応を可能にしておく。その上で実際に見直し、点検、反省は頻繁に行う。ただし予定通り頻繁に行う。作業中に気になったことでふと手を止めたりはしない。手は止めて良いが予定通り止める。
準備によって過去から支え、見直し点検の予定によって未来からも支える。こうして今やっている作業を補強することによって、焦りと対話しながらも集中を持続させられる。
不思議なもので、真摯な対話を続けていれば焦りからの欲求も次第に弱まり、コントロールが簡単になっていく。しっかり対応してもらえていると感じることが出来れば、本能は落ち着いていられるらしい。
焦っていることを当たり前だと思う。その焦りと対話を続け、真摯に対応するために事前準備、事後の点検振り返りをしっかり行う。
経験不足故に、我輩が己の体験から有用性を感じた方法は上記の二つしかない。しかしこれを実践出来た2025年は、焦燥による否定感が和らぎ、パフォーマンスとしても十分な力を発揮でき、精神状態も安定した。
繰り返しになるが、焦燥とは、今、ここ、私という存在感の否定だ。貴方というリアリティを否定し、いつか、どこか、誰かになること、存在を移動させることを促してくる。
焦燥が有用だった狩猟民族時代さえ、心の平穏は得られなかっただろう。生き延びてはいても、つねにびくびくし、あたふたし、落ち着き先もなく苦しんでいた。
皮肉な話だが、我々の幸福と、我々の生存は利害を一致しない。幸福でなくとも生き延びられるし、もっと言えば不安で、心配で、びくびく焦っていたほうが生存に有利であるなら、本能はそこをホメオスタシスの軸足とし、焦りを常態とする。太古の昔から、生き延びること、種として繁栄することに幸福は必要ではなかった。
そういう意味では、焦燥は何の役に立つのか、という問い立ては間違っていて、幸福こそが何のためのものなのか、を問わなければならなかったのかもしれない。
生存にも、繁栄にも関係しないのに、やたらと目的としてオススメにあがる幸福とは何か、どこ由来のものなのか、そちらを分析すべきなのかもしれないが、ブログネタには荷が重すぎるので止めておく。
今、ここ、私というリアリティというものは近代の中で開発されたアイディアに過ぎず、本来我々が持っている世界観には未確定で不安な未来しか存在しない。実際、我々は見えたものを見ているのではなく、脳が予感するコンマ数秒先の未来を見ながら生きている。生存にとっては起こっている事自体に価値はなく、これから起こる事にこそ価値があるためだ。
しかしいくら本能本然がそうだと告げられても焦って生きることは辛い。また現代社会においては目の前の仕事に集中出来なければ生存に不利だ。焦っていては良いものは作れないし、クオリティを担保出来なければ食い扶持も失う。
だから本能との対話を始め、乗り越える技術を学ばなければならない。
焦燥を乗り越えると、行為への自信と集中が得られる。自信と集中に身をおき、今私はこれをしていていいんだ、これをしている私が正解なんだ、という肯定感を得られると、存在そのものが充足してくる。
近代アイディアでしかないはずの存在が充足すると、不思議に幸福感が得られる。
ある土曜の午前中、我輩は予定通り休んでいた。瞑想をするために坐禅を組んで、その後眠たくなったので、そのまま脚をクッションの上に投げ出して昼寝よりも早い朝寝を始めた。
事前に八時間睡眠をした後、二時間程度の緩やかな活動の後、また横になり寝たのだ。
冬の晴れた日、日差しをいっぱいに取り込むためにカーテンを開け放って、部屋を陽の光で明るくして寝た。隣には犬もいた。
創作のために出来ることは山とあったし、暇なら読んでおきたい本や、目を通しておきた教材動画もあったが、我輩は事前に予定しておいた休みを否定しなかった。
今はこうしていていいんだ、昨日まで予定通り作業を続けたし、この時間も予定に組み込んである。今、何もしてなくともオンスケジュール。
うつらうつらとしていた午前中の、予定どおり暇な時間に身を浸していた充実感は忘れ難い。
あの時間においてさえ「時間があるならあれしたほうがいい、これしたほうがいい」と焦燥の声は聞こえていたが、「いやいや」と対話を続けその声に従うことはなかった。
あの時間はまさに過去と未来に支えられた今の充実だったと思う。
焦燥に駆られ、こんなことをしている場合じゃないのにと目の前の仕事に集中出来ない。
目先を変えればその瞬間こそ満足するけれども、焦燥は繰り返され、我々に移動を促し続ける。動き、変わり、購入し、新しく始めよと背中を押し続ける。
焦燥に背中を突かれ歩いた道を振り返ってみれば、成果に繋がらなかった浅い仕事が散らかる。
かつての狩猟民族であった我々は動き回り、そこらに生るものを手にとって食い散らかしていけば良かった。しかし定住革命がおこり農耕が始まって、我々は食物を育て、家を建て、居座らなければならなくなった。懐かしい狩猟民族の、焦燥がもたらすアップテンポなリズムによる、浅く食い散らかすような仕事では成果を得られなくなった。
定住革命が起こって暮らしが変わったのだから、我々もそろそろ精神に革命をもたらす時が来ている。
変わっていかなければ、移動出来ないことで過去の本能は焦り続ける。焦燥によって存在を否定され続ける我々の苦しみも続く。苦しみは人生への集中力を損なう。
自身の仕事、今、ここ、私というリアリティに集中するために、いつか、どこか、誰かへと促し続ける本能との対話を始める。対話を続ける。焦燥を繰り返し乗り越える。
2025年、その重要性を経験を通して学べた得難い年だった。
挨拶
今年もお世話になりました。
春秋編、なかなか発表まで至らずお待たせしてしまい、申し訳なく思っております。
我輩の最大のものをお届け出来るよう、日々弛まぬ精進を続けております。
完成の暁に、春秋編を皆様にお届け出来る日を、本当に楽しみしております。
生き甲斐と思える作品を届ける御相手がいることを幸福にも思っております。
どうかもうしばらくお付き合い頂ければ幸いです。
それでは、よいお年を!
