ハルカの国 創作の記 その4

新年、明けましておめでとうございます。
と今更言えば、どこの寝ぼけたオケラかと思われるか。しかし我が輩、今は旧暦の世界で生きている。日本が太陰歴から太陽暦に切り替えたのは明治六年のことで、ハルカとユキカゼが現在旅する作中では明治五年。
太陰歴で言えばまだ年も明けていない今日この頃である。

太陰歴、太陽暦というのは面倒なものだ。第一に季節感が違う。例えば梅雨。
皐月、五月のことだが、我々が暮らす太陽暦では「目には青葉、山ほととぎす、初がつお」なんて句が似合う頃。青空に泳ぐ鯉のぼり、これも五月を象徴する憧憬だろう。
しかしながら、太陰歴では話が違う。そこまで遡ると、青空に鯉のぼりではない。梅雨の雨空に鯉のぼり。ちょっと清々しくない。
しかしながら、沼の鯉は雨をえて天に昇り竜となるのであるから、由来からすればこちらが正しかろう。
旧暦で五月は梅雨。それで早苗月とも言う。雨の多いこの頃、よく根が張るので苗を植える。雷の下、簑笠で早乙女たちが早苗植えあかすのだ。

太陰歴はめんどくさい。太陽暦のなかで暮らしている我々には微妙なズレを含んだ世界で、いっそまったく異にしていれば、「ああそういう世界なのだな」と納得もできるものを、微妙なズレであるから「なんか違和感」が拭いきれないのである。それは例えるなら今更大晦日の特番を見て、「それでは皆様よいお年を!」と挨拶された感覚。桜の頃に梅と言われ、夏の盛りに立秋と言われる感覚。蚊にくわれたすぐ隣を掻きむしられ、「近いけど全然違う!」と叫びたくなるような感覚である。
元来、季節というものが繊細で、隣り合うものがまったく粧いを異にしていることも多い。だから微妙なズレ、隣へのスライドは、「なんかすげー違和感」になってしまうのだ。
その「違和感」への緩衝処置がめんどくさい。

2019、出端から愚痴で申し訳ない。

ハルカの国・進捗

計算ではネーム300枚描けば明治編が終わるはずったのに、350枚でたけなわ。新年早々、既に年末への危機を募らせている。
伸びた原因は人物たちがよく動いてくれるからではあるが、さすがにこのペースで大正、昭和までやり切ると、分量が凄まじいことになる。
当初はキリンの国くらいの規模に収めるつもりだったが、もうそこまで贅沢は言うまい。雪子の国、譲りに譲って雪子の国+二時間。これぐらいで手を打って欲しい。でないとマジに完成しないんだって……もう、ほんとお願い!
というのが最近の心境。
ネームでは好き放題しているが、「これゲームにする時どう表現すんの? まさか全部、絵におこすの?」と後のことを考えると怖気がはしる。手が止まる。
だから考えずに好き放題を続ける。
後々の苦労を考えて想像力の翼を小さく刈り込むようではいけない。
とは言っても恐くもなる。

モチベーションも高く保てている。人物もよく動いている。
問題は分量。
これだけは注意して、今後進めていきたい。
五月、鯉のぼりたなびくまでにはシナリオを終わらせたい。新暦の方のね。

クラウドファンディングの方は返礼品のラインナップも決まったので、二月中頃を目処に募集をしたいと思う。興味ある方はよろしくお願いいたします。
返礼品はオリジナル音楽アルバム、設定資料集なんかがメイン。あとは早期アクセス権というか、一般販売より一~二ヶ月早くデータダウンロードしていただけるDLキーなんかを考えておりますのでよろしく。

サブリアクション

サブキャラ、と言うのは好きではない呼び方だ。
しかし便宜上、この呼称で進めていきたい。

物語の世界観、リアリティを担うものは何だろうか。常日頃から考えていることだが、最近、「サブキャラ・モブキャラのリアクションも一端を担っているようだぞ」と思いついた。

リアクションが抜けていると、読者のなかでその人物がエラーを起こす。

これはサブキャラに限ったことではなく、全てのキャラクターに言えることで、〝リアクション抜け〟があると築き上げてきた読者とのシンパシーが崩れる。
「あんなことが起こったのに、何も思わへんの?」
ヒロインが死んだのに。
故郷が焼けたのに。
両親が実はモンスターだったのに……!
と、さすがにここまで大きなことにリアクション抜けすることは稀だろうが、小さいことへのリアクション抜けは結構やっちまう。
例えばタメ口美少女キャラがいて、それが大人に対してもそのままだったとする。注意するかしないかは主人公の思想に依ればいいだろうけど、「なんか思えよ」とリアクションを期待してしまうベリージャパニーズな我が輩であるから、流されると気持ち悪い。百歩譲って主人公が無関心であったにしても、タメ口きかれた大人は何か思っていて欲しい。顔に出せとか、台詞に出せとは思わない。「あ、今、何かしら思ったな」という間だけでもいい。
今更、「敬語を使わないキャラはおかしい! タメ口を注意しない大人なんていない!」と目くじらたてる気はない。そういう時代でもないと思っている。
しかし高校生ぐらいの少女に、いい大人が「おい」とか呼ばれて「ん? なんだい?」で済んでるのが自然という社会でもない。

そういう小さなリアクション抜けが積み重なり、世界観が読者との乖離を生んでしまう。
「あんた、子供が熱出してるのに、スマフォなんて弄くって! 子供がこんな苦しそうなのに、なんも思わへんの!」
世の妻たちを日々激昂させている無関心パパよろしく、読者たちに「なんでこういうことに何も思わないんだよ、お前は……! こいつ等は、この世界は……鈍感すぎる!」とキレられ手放されていく。それがリアクションの抜けた物語だ。

リアクションが自然でない物語は、どこか作者の恣意的な世界に見えてしまう。
作者のやりたいアクションだけが先走り、そこへのリアクションがなおざり。メインキャラクターのリアクションまでは考えてるけど、ちょっと脇の奴らは蚊帳の外で影響受けていない。
RPGゲーム、魔王を倒した後なのに一切テキストがかわらない村人A。今日も一日「畑を荒らす魔物が出て、困ってるんだよ……!」と頭を抱えてる。これでは魔王を倒して世界を救った甲斐がない。張りぼての世界だな、と思われても仕方ない。

物語におけるリアクション抜けは、リアクションのとり忘れと言うよりも、リアクションの見せ忘れ、ということが往々にしてある。
一つのシーンは一つの視点でしか追えないのが物語というもの。だからどうしてもメインキャラクターの表情や行動ばかりを追ってしまう。しかし起こった出来事や、シーンによってはサブキャラ、モブキャラの表情こそ見せておくべき時がある。
どう考えてもこの件に関して一番リアクション大きいのはコイツやろ、設定上!
というキャラのリアクションが映らずに物語が進行していくと、読者の見たいもの、確認したいものが抜けたまま進み、ストレスになる。
あと主人公にしろヒロインにしろ、毎度毎度出しゃばると、「おめーの話じゃねぇからこれ」と苛つく。売り出し中のアイドルを採用した映画よろしく、やったらそいつのアップばかり。世界はお前中心に回ってねぇんだよ。
かく言う我が輩も「主人公・ヒロインが出過ぎ」と叱られたことがある。
思い入れが一際強いメイン人物を大切にしてしまうのは仕方ない。しかし物語世界で悲しんだり、笑ったり、泣いたり、怒ったりするのは主人公たちだけではない。
そこを忘れると世界のリアクションが見えなくなり、見えなければリアクションがないものだと思われてしまい、反応のない世界はベニヤ板に描かれた背景美術以上には感じてもらえない。
風が吹いても揺れない木の葉なら、そこに存在しているとは思ってもらえない。

読者に存在を信じてもらえる。それが世界観を構築する大前提だろうが、信じてもらうには展開するストーリー、移り変わる季節、一日の時間経過による体調変化(空腹、眠気、疲労)、それら時間軸の上で変化していく物事にリアクションをとり続けなければならない。
反応がある。
それが〝存在している世界〟の条件。

そのリアクションをとる世界から、つい取りこぼしてしまうのがサブキャラ、モブキャラ。メインカメラで捉え続けるのは難しい彼らである。しかしながら、カメラの外では彼らは反応し続けている。カメラの外でも存在し続けている。その結果がたまにカメラに写り込む。
そんな瞬間にこそ、「この物語はカメラの外にも世界が存在している」と感じてもらえるのではないか。
それが世界観なのではないか。

サブキャラ・モブキャラのリアクションをカメラの外でも追い続ける。
それが世界観を担うと考えたのは、上記の理由である。

時代の変わり目、表現の変わり目

先日、「ギャルごはん」という漫画を読んだ。
理由は二次元におけるギャルが好きだからだが、そういう趣味趣向はおいておくにして、ちょっと気になる表現があり、そこから諸々思うことがあったので記しておきたい。

ギャルごはんとは、女子高生ギャルが家庭科部の顧問教師とイチャラブコメディする話なのだが、その起こりでこんな会話が交わされる。

校長「○○ミクさん、赤点ばかりでこのままじゃ進級できませんよ」
ギャル「えーじゃあまた補習受ければいいですかあ?」
校長「補習はもういいから、クッキーか何か作って先生方に配りなさい。今回はそれで良しとします。女の子なんだから、そういうの得意でしょ」

要するに校長は「ギャルだから勉強なんてしないだろうし、まぁ悪い子じゃないから下駄履かせてやろう」と手心を加えるわけだ。

この「ギャルだから真面目に相手しても仕方ない」という扱いに対し、最終的には「いやそうではない。先入観で決めつけず、ちゃんと真摯に向き合わなければ」という態度を教師がとることで物語は解決される。

良い導入だったと思う。

しかし我が輩はどうも「女の子だからそういうの得意でしょ」とした校長の発言が消化しきれていない気がした。と言うより、この発言に別段問題意識をもっていない気がしたのだ、物語自体が。
もっていない、というわけではないかもしれない。
だが、薄い、とは感じた、確実に。

5年前だったら何も思わなかったかもしれないが、2019年、平成が終わる年のなかで読んで、我が輩はこれを「古い」と感じた。

性、という問題は居残り続けている。男らしく、女らしくという感覚は根強く残っているし、「らしさ」という世間からの圧力も消えていない。
またそれが絶対的な「悪習」として取り払うべきことなのか。それとも程度の問題であって、適当には必要なものなのか。
否定すべきことなのか、肯定すべきことなのか。それらの議論も終わっていない。

ただ一つ言えることは、我々はそれを「問題」だと認識し始めている。センシティブなもので、軽く扱ってはならないことだとして、社会の意識が変わり始めている。
かつてはテレビで笑いの道具にされていた「オカマ」や「ホモ」という表現も、今では許されない。

「らしさ」の難しさは、性だけでない。国籍、肌の色、考え方やライフスタイル、あらゆるものへの「らしさ」は今、問い直されているただ中にある。
「らしくある」ということは強要されるべきことなのか。
「らしくあった」ことは賞賛されるに値することなのか。
「らしくあった」ことへの賞賛は、「らしくなかった」ことへの否定につながるのか。
そういった世情のなかで、「~らしさ」という表現をたよる時、最終的に従来通りの価値観を是とするにしても、一度問い直したのだという感覚は持つ必要があるように思うのだ。
自分の答え、キャラクターの答え、物語のスタンスとしてどう「らしさ」という表現を扱ったのか、自覚的である必要があるように思うのだ。

「たく、お前は女らしさの欠片もねぇな」
「なによ! 馬鹿! もうしらない!」
で平和にラブコメしていては、もう古い。
「女らしさの欠片もない」と口にした主人公は、そのスタンスを問われる時代がきているのではないか。彼ら、彼女らの一声、一声は、ジェンダーへのスタンスとして読者のなかで是非を問われているのではないか。
少なくとも我が輩は「女の子だからクッキーづくりとか得意でしょ」という発言に対し、ぎょっとして、初版がいつ発行されたかをすぐチェックした。2017年はこういう発言が許されたのかと過去をふり返った。

セクハラも、コメディのお色気として許される時代は終わったように感じる。
特に主人公がヒロインの尻や胸を触ってからかうような真似は、もはやただの犯罪者としてしか映らない。「ヒロインも喜んでるからいいんです」なんて作者が弁明すれば、その発言も含めてアウトだろう。さすがにこれほど「古い感覚」は昨今では見受けられなくなったが。

何もかも最新の道徳に照らし合わし、一人でも傷つけるような表現は避けるべきだ。
そう思うわけではない。そんな殺菌された表現、くそ食らえとさえ思っている。
実際のところ、上記したセクハラ主人公もやりたければやればいいと思う。そこに善し悪しを我が輩は思わない。
ただ世間の目はかわり、従来通りの〝効果〟は得られない可能性はある。従来通りの〝効果〟を期待したジェンダーへの発言、態度が、読者の感情を意図しない方向へ向けてしまう可能性はある。
笑いとサービスシーンを提供するつもりでやらせた主人公のパイタッチ、尻タッチ、風呂のぞきが、「お前、これ犯罪やで」「笑って済まされることちゃうやろ」と読者の反感をかってしまう可能性が今はある。
そこへの配慮も無く、従来の価値観から引っ張ってきた表現を焼き増ししているものがあれば、我が輩は善悪ではなく〝表現の古さ〟〝作者の古さ〟を感じるのだ。

何より。
自分のなかで美徳している感覚が、それを世間に対し当然として表現するには、もはや〝古い〟ということに恐怖を感じるのだ。我が輩もまた一人の〝古い作者〟である可能性に戦慄するのだ。

我が輩は「男だろ」という言葉が好きだ。男だから、逃げるな。男だから、格好をつけろ。土壇場で踏みとどまる心を、その決意を、我が輩は「俺は男だ!」という一言で片付けてしまいたくなる。
強父権社会で情操教育された我が輩にとって、「男が命を賭して仲間を守る、難局に立ち向かう」というシチュエーションは、「集団のリーダーたりえる」ことへのイニシエーションであり、つまり「理想の父親像」へのアクセスであるから、とことん気持ちいい。
しかし今、そういった表現を試みる時に、「男らしく振る舞う」「強父権社会の理想像として振る舞う」ことを物語の解決には持ってこれない。
人物がそれを志すまではいいが、物語として、あるいは作者として、その姿を肯定し背中を押してやることは出来ない。
それは一つの宗教、一つの宗派の教えを肯定し、賞賛し、「○○を信じていたら救われるのです!」と信心を解決案にもってくるようなもの。
そんなのは宗教の宣伝広告でしかない。
主人公が信じているものでも、作者は問わなければならない。ニュートラルに扱い、読者に委ねなければならない。作者が決めてしまったものを投げてはいけない。
そう感じている。

同人だから、好きなことをしている。
ただ好きなことを表現することが、本当に表現になっているのか、最近、よく考える。過去の道徳を焼き増しして、良いこと言ったなぁ、なんて思っていないか。
価値観は相対的である。
かつて自分が味わった高揚が、同じセンテンス、同じ文脈によって、再現できるのか。
今、現実に生きる己の頭で考えて、その表現は試みられたことなのか。

平成という時代が終わる年、表現の変わり目というものを思い、今一度自分の中にあるものを、信じていたものを、棚卸ししている。
信念が揺らいだ、というのではない。
一つ深く問い直したいのだ。人物の一言、一つの行動、そこに無反省な過去からの借り物が転がっていないか、見つめ直したい。

お知らせ

この度より、「ブログ+」としてファンティアにも記事を掲載しています。
そこではここでのブログともうワントピックほど〝+〟して載せてありますので、興味のある方はどうぞ。
一般公開ですので誰でも見れます。
この度の+は「豊穣なる真空と地獄」というトピックで書いております。
ファンティア