ハルカの国 創作の記その24

枕に最近、考えたことをツラツラと。

怒りの時代

人間は体験をメディアで表現するのではなく、メディアに表現するに適した体験をするのかもしれない。
松尾芭蕉の感性があればこそ旅の中で俳句が生まれたのではなく、俳句というメディアに殉じていればこそ旅の中で「しずけさや 岩にしみ入る蝉の声」という体験を見つけられたのではないか。
自分が殉じている、最も長けている表現媒体(メディア)と相性の良い体験を、人々は雑多な人生の中より選び取り、体験として知覚しているのかもしれない。
ある絵描きには世界が色彩とマッスで訴えてくる様に。ある音楽家には風の心地も光の煌めきもメロディーに変わるように。

SNSメディアと相性の良い体験とは何だろう?
SNS上で受け入れられ、拡散圧にさらされる体験とは? 拡散と認証によって自己拡大欲求を満たせる体験とは?
一つに怒りがある。
怒り、特に義憤はSNSと相性が良い。何故なら怒りとは正義であり、正義は人々に役割を与えるから。怒りは物語を用意し、その構造内において、怒りを共有する人々に役割を与える。
怒りは対立構造をつくるために物語として機能し、他の感情、笑う、悲しむ、驚くと比べて持続力の長い感情だと考えられる。
怒りとは持続力の長い刺激なのである。
役割の提供が何故人々(拡散媒体)に対し有意かと言えば、現代社会が役割欠乏症に陥っているからではないか。
個人主義が台頭し、家族をはじめとする役割体勢が解体されたため、本能的に役割を持ちたがる人間は怒りに誘われる傾向があるのでは。
人は個人として認められるよりも、父として、兄として、母として、姉として認められることを好む。息子として、娘として愛されることを好む。
「社長さん!」「部長さん」と役職で呼ばれることを好む男たちは、社会性における巨大さを誇示したいからに他ならない。
社会という物語(フィクション)における役割の重要さを、人々は何よりも誇りたがる。
人々は役割において自己を認知する。
そのような構造において、父親でもない、息子でもない、母親でもなければ娘でもない、何者でもない何者かが、役割を求めて怒りと結託する可能性はないだろうか。

SNSは不特定多数と関わる。不特定多数と関係性を築くのは難しい。誰かにとっての誰かになるのは困難なことだ。
であればこそ、怒りという対立構造において敵に対する味方という関係性構築を好むのではないだろうか。

SNSが怒りとの相性抜群であれば、SNSと相性抜群である人々の生活も怒りと相性が良い。
SNSで表現するために、人々は進んで怒りを体験する。

役割の枯渇。SNSを通した不特定多数との関係性。
この二つを柱として、これからの時代は怒りの物語が流行るかもしれない。

感想戦

テストプレイの感想が返ってきている。
いくつか改善点は指摘されたが、概ね良好。
オブザーバーも数年来のつき合いなので、「こうした方が面白くなる」ではなく「お前のやりたいことはこうだろうから、そのためにはここをもっと丁寧にした方が良い」という具合に指摘してくれる。あくまで我が輩の表現を尊重してくれるからこっちも素直に聞ける。
ただ、忌憚ない意見を通り越して刃物のような感想を突きつけてくる場合もあるので、毎度毎度、緊張はする。

実態は良く知らないので深く言及はしないが、近頃フリーゲーム界隈のレビューが荒れたらしいことがTLより窺えた。
以前も記事にしたが、感想、レビューとのつき合い方は難しい。なれ合いで感想を投げ合っていてもお互い成長がなかろうし、かといってキツいのウエルカムと言えば本心、そうでもない。やはり否定はされたくないものだ。
解決策として、信頼できるオブザーバーを確保するのは一つの手だろう。
出来ればリアルなつき合いのある相手に頼むのが良い。と言うのも、ネットの感想やレビューでは一方的な伝達で終わってしまいがちだが、リアルなつき合いであれば膝つき合わすとはいかないまでもスカイプ等で相対し、感想や意見にとことん向き合うことが出来る。
我が輩も理解出来ない時、腑に落ちない時は、「こういうこと?」「例えばこうだったらこうということ?」「その○○という言葉はこういう意味で使ってる?」と徹底的にすり合わせを行う。
相手の言葉を自分の言葉に翻訳して、相手のプレイ体感を自分でも体験できるほどに突き詰めないと納得が出来ない。納得できないと苦労して修正しようという気がおきない。
この感想を煮詰めていく作業は大切で、これを省くと感想内容よりも、肯定、否定という感想の種類にだけ反応してしまう。
否定されて悔しい、悲しい。肯定されて嬉しい。
この様に感想の種類に反応して終わっている限り、感想をもらう意味は薄いと感じる。

作品には意図があるのだから、その意図が機能しているのか、しなかったのかを見極めることこそが肝要だろう。
機能した要因、機能しなかった原因、これらの分析がなければ結果がスットクされず、いつまでも同じ程度の失敗や成功を繰り返すことになる。
同じ程度の失敗を繰り返すのは論外だが、同じ程度の成功を繰り返すのも太極からみれば失敗と言える。小学一年生のテストで100点を取ったからと言って、一生小学一年生のテストで100点をとって褒めてもらうわけにもいかない。小学一年生のテストで褒められるのは、小学一年生であった一生の内の一年間だけだ。
自分がやっていることを自覚すること。試みたことが上手くいったどうか確認すること。このためにこそ他者からの意見は活用したい。
であればこそ、確認作業につき合ってくれる相手を確保する方が、感想やレビューの数や賛否に思い悩むよりも重要だと我が輩は感じる。

まぁその確保が難しいのだけれど。
我が輩は幸運にも相手に恵まれたが、我が輩自身がそういう役を請け負おうとは思わない。
褒める分には楽でいいが、ネガティブな意見を伝える際には滅茶苦茶気を遣う。言い回しや、フォローを考えていると疲れ果てるのだ。
本当に相手のことを思えば言った方が良いだろうけど、本当に相手のことを思っていないことが多いので、気疲れの末、発言を放棄する。
相手が一生懸命仕上げた作品に足りない点を指摘する。こんな苦しいことはない。
この苦しさを乗り越えて我が輩に感想を届け、感想の読解につき合ってくれるオブザーバー達にはまったく感謝、感謝である。

星霜編の感想。
まだ揃いきってないので予断を許さないが、上記の通り悪くないものが返ってきている。
悪くないよりずっと良いかもしれないが、まだ確定ではないので伏せておく。
次回、10月の進捗報告にて、発表前最後として言及させて頂く。
本然的には、善し悪しの判断は皆様にお披露目し、皆様の心内にて下されるべきとも思う。
作者が自作品を良いの悪いの言う権利はない。あるとすれば、一個人としての感想程度のこと。作者もプレイヤーとしては、一プレイヤー以上の存在ではい。
我が輩の言うことは、発表前の賑やかし程度に思って頂ければ幸いだ。

進捗状況

スチル制作、三割強終了。
予定通りに進んでいるが、余裕をもったスケジュールで予定通り(ギリギリ)なので恐い。
このままのペースで進むことを願う。

絵を描いていると、下手だなと思う。
もっとどうにかならんのか? と思うのだが、練習していないので仕方ない。

我が輩は「上手い絵が描きたい」とはあまり思わない。
表現に必要な絵が欲しい、と思う。その上で「表現のために十分な絵だな」とか「これでは表現を完成出来ない」と絵を評価する。
表現の度に絵への欲求は違うので、一概に「こういう絵が良い絵」というものもない。
時には「抜け感」が出ることが最重要であるし、時には「暖色」で画面を覆うことが最重要である。時には黒ベタの面積で威圧感、不安感を煽ることが重要だったりもする。

今回、絵が上手くなる努力はしなかったが、表現における絵の意味や効果についてはよくよく考えた。
これまで自分が何を描いているのかあまり自覚的ではなかったが、今回は何を描いているのか理解して描けている。
今までは「ユキカゼを描いてる」とか「剣を描いてる」とか「風景を描いている」と思っていたが、今は「画面に対してこれだけの面積をこの色で塗る」とか「この青色と、このオレンジで強い緊張感をだす」と思って絵を描いている。
見た人にどう感じて欲しいかを念頭におき、その目的達成のために「形」「面積」「画面におけるポジション」「明暗」「色彩の関係性」というパラメーターを調整しているという感覚。絵を描くというより、情報処理に近い。だから絵を描く前に文章を書いたりする。

「ポイント1~3にかけて、大きな黒いマッス。赤黒く支配的に、重量感をもって鎮座という様子で。右上の空は彩度の落とした緑。陽の落ちきる前、粉っぽく、不気味。マッスの赤黒と補色にあり、絵としての様子に不吉な緊張感をだす」

といった具合。

絵は上手くなっていないけれど、絵の使い方は改善していると思う。
物語における、色や形の使い方を今回は考えてみた。

とは言っても、やはり上手い絵には憧れる。
一度真面目に取り組んで、改善を試みてみたい。
人物を描くのは立ち絵で十分なので、雰囲気のある風景画を描けるようになりたいのだ。

絵に関しては――と言うよりビジュアル表現に関しては、まだまだ伸び代があると思っている。