ハルカの国 創作の記その27

国シリーズは如何にしてエタるのか

エタる。
エターナル(永遠)から派生したスラングで、長期連載もの、シリーズものが完結せぬまま更新が止むことを言う。
主になろう界隈で使われている言葉だが、創作に携わるものなら一度はその響きに震え、不吉として忌避した経験があるだろう。
創作する者だけでなく、創作物を楽しむ方々にも「エタる」の響きは決して心地良いものではないはず。
自分の好きな小説、追いかけていたWeb漫画、続きが気になっていたノベルゲーム。
それらが作者のツイート「重要なお知らせがあります」によって、「エタった」ことを告げられる。
そんな告知を見た日にゃ、一日気分が滅入る。
好きだったキャラクター、これからの関係性が気になっていたあの子達、どんな終わりを迎えるのか想像も出来なかった物語――そこへの期待が解決しないまま突如として消える。
これ以上悲しくてやり切れないこともあるまい。
我が輩もかつて「ベイビーステップ」という漫画を楽しみにしており、毎週の連載を心待ちにしていたのだが、突如、何の前触れもなしに最終回を迎え、それが自分の中にある期待を解決してくれるにはほど遠かったから、「エターナル……」を感じた。
エタる、エターナルとは、作品に向かって使うばかりではなく、作品を楽しんでいた読者に向かっても「その楽しんだ思いが昇華することは永遠にありませんよ」という意味で使えるのだなと、したくもない納得をしたものだった。

そんな作者にとっても、読者にとっても恐ろしい、エタる。
この忌避すべき結末が、国シリーズに訪れることはあるだろうか。
恐らくないだろう。
可能性があるとすれば、今後十年以内に我が輩が事故や疾患で鬼籍に入るくらいか。
生きている内は国シリーズ創作に最大限のリソースを割いていくし、その結果進み続ける方向とは国シリーズの終わり、完結である。
まだまだ長い道のりではあるが、歩き続ければ辿り着けると予想している。ハルカの国と、次回予定している「雲龍の国」が完成すれば、終わりは見えてくる。
果てしない道のり、というわけでもなくなってきた。

創作へのやる気がたぎって、情熱の冷めることがない! と言えればいいのだが、これは時期による。いつでもモチベマックスというタイプでは、我が輩はない。
しかしながら、国シリーズへかけてきたリソースが膨大過ぎて、今更撤退出来ない、という状態ではある。
記録をふり返ってみると、2011年7月31日の日付で「キリンとヒマワリ」というWordファイルが存在する。中身は現行の国シリーズとは似ても似つかない代物だが、この頃より着想があったことは確かだ。
つまり来年の夏をもって十年、我が輩は同じ物語を書き続けているのである。
FGOでも、モンストでもなんでもいい。
十年、重課金をつづけたソシャゲを思って欲しい。
何よりもそのソシャゲのランクを上げることに注力し、金、時間、あらゆるリソースを割き尽くした。
そんなソシャゲをアンインストール出来るだろうか? 「消去しますか?」の文字をタップする指は震えていないか。
十年である。
サンクコストがでかすぎて、今更他のことをライフワークにしようと思えない。
コンコールド効果によって、「エタる」という発想に至らずにいられている。
そういう側面もある。

もちろん、楽しくもある。
十年やっていて飽きないし、今でもストーリーラインや台詞のアイディアを日々思いつく。国シリーズを思えばこそ「ロケハン」と称して旅行にも行きたくなるし、旨い酒飲みたや、珍味食べたや、という気持ちも湧く。
我が輩のエネルギー源でもある。

そんなこんなで、今のところ、国シリーズが「エタる」気配はない。
確証はしようがないので出来ないが、しておきたいほどには自信がある。
国シリーズは完成します。
今後、何度かのブレイクスルーを経なければならないだろうが、恐らく、完成品は良いものになるだろう。良いものを皆様に届けられると思う。少なくとも、クオリティは上がっていくはず。
前回も記したが、我が輩は「過去作に比べて圧倒的に優れている」と思えるものでなければ、創作意欲がわかないし、創作出来ない。
この性質上、今後の作品もクオリティは上がっていくだろうと予想するのである。
結論として。
国シリーズが「エタる」可能性は低いので、そこに関しては安心して頂きたい。

国シリーズは如何にして完成するか

しかし気持ちばかりが作品を作るわけではない。
創作には資金、作業時間、技術等々、リソースが必要になる。
これらリソースの確保は如何に行うのか。補給路の確保は現実味があるのか。
ここからは国シリーズ完成に向けてのロードマップを示していきたい。

リソース面から見て、国シリーズは如何にして完成するか。
これは「国シリーズの再生産は如何にして可能になるか」と言い換えることが出来る。
コンテンツをつくり、そこからの収益で次のコンテンツを生産できる。このサイクルが確立出来れば、国シリーズは完成する。完成するための補給路を確保出来る。

一つシリーズ作品を作るのにどれくらいのリソースが必要なのか。
これは規模によって違う。「ハルカの国」という過去作品と比べると化け物級にリソースを食う代物だと、完成までに300~500万近くかかる。現状でも200万近くかかっている。
こういう見積もりをだすと、「おいおい、お前の作業時間に費用が発生してないか?」「作者の労力を費用に入れるなよ」と批判を受けることがあるが、これに関しては一言挟みたい。

お前の時間や労力に費用を発生させるな、と我が輩を叱る方よ。
まず尋ねる。
我が輩が作業しなくて誰が国シリーズを作るのだ?
誰が千枚以上のネームを描き、一万回近くの会話それぞれに立ち絵をふり、その立ち絵をシリーズ毎に三千パターンも用意するのか。
誰が二十万文字書いたあと、それを全部捨ててもう一回二十万文字書くことを、二回も繰り返す。
来る日も来る日もノルマノルマで一年間誰とも会わず、引き籠もっている。
そんな日々を月十万で勤めさせられる者が、我が輩以外にいるだろうか?
十万。
十万あれば、我が輩は一月作業する。
月十万で毎日八時間、サービス残業あり、月四日休みで我が輩以外の誰が働く。
最も使い勝手がよく、酷使しても文句を言わず、奴隷のように作業させられるのが我が輩なのだ。
これを使わない手があるだろうか?
さらに考えて欲しい。
我が輩が外でサラリーを稼ぎ、ビジュアルやスクリプト、シナリオを外注したとして、月十万でどれほどの成果物があるか。
五万円でキャラ立ち絵三つ、それぞれ着替え数種、ボディランゲージ数種と頼んで誰か受けてくれるだろうか。2ヶ月間に立ち絵3000パターン用意してと言われ、それを計十万円の依頼費で誰がこなすか。
納得しなければ幾度となくリテイクをくらい、一度通ったと思っても、「やっぱり色合いが季節に応じてないから変えたい」などと言い、平気で初期仕様を変えるクソっぷりを発揮する依頼主だと言うのに。(しかも最初の期限は守れと言う!)
二十万文字書かしといて、「もう一回、最初から考えてみよう」と肩をたたかれる。この腕をはね除けない者がいるだろうか? 月三万円しか払わないくせに、「日に最低五千字はあげて」とか「読んだ人が激震するような、圧倒的なものを試みて」とか言ってくるボケを殴らないでいられるライターがいるだろうか。
月二万しか払わないのに、演出のタイミングに細かい事を言い続け、言われた通りにしてやったのに「なんか違う」と明確な指示もない改善を求められて、激昂しないスクリプターがいるだろうか。

月十万では何にも出来ないのである。
世の方々が費用として認めてくれる外注では、資金と成果物の交換効率が悪すぎて、国シリーズという燃費の悪い作品は一生完成しないのだ。
何より、我が輩は我が強いので、他人と作業したら喧嘩になる。上記した無能っぷりを耐えられる者など居ないと思うが、あれが我が輩だ。
我が輩が我が輩にやっていることだ。
我が輩も自分じゃなかったら○してやる。少なくとも訴える。他人にあんなことされたらストレスで頭がおかしくなる。
だから、我が輩にやらせるしかないのだ。
我が輩の時間を取り上げ、そこで作業をさせ、成果物を得た方が効率は良い。そのために絵の勉強もしたし、スクリプトの勉強もした。最近では音楽の勉強もしている。
我が輩の毎日、一日八時間を取り上げる。これに月十万かかる。
それを創作費用とするのは、偏にそれが最大の費用対効果であるからだ。
作者の手間賃を費用に加えるなという方に対しては、我が輩は「作者にやらせた方が安くつくよ」と反論したい。

と言うわけで。
我が輩の時間を全て作業時間に還元するための費用として、月十万ほどかかり、そこに素材や資料購入費が加わって、現状でも200万以上、ハルカの国完成までにはもう200~300万ほどかかる計算になっている。
ある意味、この「月十万」の費用を計上しているからこそ、「エタる」可能性が低いのだ。

月十万。
そこに諸経費を加えて、年150万と言ったところか。
150万あれば、一日八時間の作業時間を確保出来る。年換算だと8×250=2000時間作業させ、そこから成果物を得ることが出来る。
150万=2000労働時間=ビジュアル、シナリオ、サウンド(外注or既製品購入)、スクリプト=一作品完成(一年で一作品発表計算)
と考えて頂きたい。
年150万の補給路が確保できれば、国シリーズは再生産可能となる。
残念ながら、現状、この環境にはない。
雪子の国は販売数300×純利1500くらいで、50万に届かないほど。
雪子の国は制作に半年ほどかかり、ハルカの国ほど有料素材も使わなかったのでトントンと言うところ。(やや赤字)
ハルカの国・越冬編は貯金が100万程度あったのでそれを使い、残高30万を切ったところで発表。
決別編、星霜編に関しては働いていた頃に作ったカードがあったので、そこから200万ほど引っ張る予定だったが、CFが思った以上に集まり借金せずに済んだ。
決別編、星霜編の完成は本当に支援者様の助力あってこそ。本当に感謝しております。
そんなこんなで星霜編までは制作を止めることなく進めてこられたが、そろそろ環境を変えないと今後が苦しい。

環境を改善し、再生産可能なサイクルに至るにはどうすればいいか。
どんなロードマップを我が輩は描いているのか。
あまり細かいところまでは詰めていないが、現状、以下のように大枠を考えている。

「ハルカの国」完成、発表後の目標地点
無料版プレイ人数 10000人
有償版購入者 プレイ人数×10%

これは定量的な目標と、定性的な目標の両面がある。
無料版のプレイ人数10000人という定量目標と、その内の一割の人々が有料版を購入したくなるクオリティであることへの定性目標。
定量目標であるプレイ人数10000人を達成するためには以下のような試みを予定している。
販売サイトの拡大、Steamへの参加。
みすずの国、キリンの国、雪子の国をUnitiyで再編し、シリーズを通してスマフォでプレイ可能にする。
定期的な拡散キャンペーンを打つ。
資金的に可能であれば多言語展開。(これはハルカの国完成時点では難しいと思われる)

段階的には
第一段階
「ハルカの国」を1000人に遊んでもらう(知ってもらう)。その内の一割の方が何らかの形で助力してやっても良いと思えるクオリティを保つ。
第二段階
100名程度の支援者を維持しつつ、ハルカの国を創作。その期間、支援者の期待が高まる様な、また新たな支援者獲得に向けて助力したくなるようなコンテンツやサービスを定期提供する。ハルカの国の続編、ブログ、ファンティア等。
第三段階
ハルカの国完成にて大規模なキャンペーンをうつ。過去作のリメイク(Unityへの移行)を行い、国シリーズへの参加を容易にする。

かなり雑だが、大綱はこのように考えている。
この第一段階が、今回行おうとしているキャンペーン。
雪子の国、ハルカの国を期間限定で無料配布し、かつ過去作品もアピールする。
年が明けては新規CF参加者の募集と、ファンティアにて有料コース(500~1000円)を募る予定。

CFやファンティア有料会員の募集は、「自作品のクオリティはどれほどか」を知る試金石になると考えている。
我が輩は基本的には無料戦略をとりたい。無料で作品を公開し、それを気に入ってくれた人が有料のパッケージ版や、他コンテンツを購入する。
試した後に満足した方が、支援やエクストラを求める形でのビジネスモデルを作りたいと思っている。
遊ぶ前に支払いが生じる既存の流れは、今後通用しなくなると思うし、既に通用しなくなってきているとも感じる。
我が輩自身、何に金を使うかと言えば「面白そうなもの」ではなく「面白かったもの」に対してで、面白いかどうかが未確定のコンテンツには金を割かなくなってきた。
逆に、面白いものには追加コンテンツがなくとも「今後また何か作ってくれ」という思いで記念品なども購入する。
「この世界の片隅に」は映画を見た後、DVDや絵コンテ集なども購入したものだ。
つまり、今後、個人のコンテンツクリエーターとして生き残るためには、売り切り戦略ではなく、メインコンテンツを遊んでもらった後に、「もっと欲しい」「今後もこんなものを作って欲しい」と思ってもらえる様な追加支援戦略をとらねばならない。
そのためには、「もっと」と思ってもらえる様なクオリティの高さと、代替のきかないオリジナリティが必要とされる。
その必要事項に対し、現状の自作品がどの程度達成出来ているのか、知る切っ掛けになると考えている。

これから行うキャンペーン結果を見て、ロードマップは検討していく。
我が輩の考えはまったく甘い考えなのか、それとも可能性はあるのか。
今回の試みで、自分の立ち位置を多少なりとも知る事が出来ればと願う。
自分がどこに立っているのか知らないことには、目的地に向けての地図も描けず、正確な努力の方向性も見出せない。
自分を見失う、混乱の内にあるということは、何をするにしても大変危険なことで、成功もおぼつかないものだ。

十二日から始める「ハルカの国」広報キャンペーン。
拡散にお力添え願えれば、幸いです。
ちょっとそういうのは、という方は温かく見守ってくだされよ。
商売っ気をだすのは好かん! という方はキャンペーン中、我が輩をミュートにすることをお勧めします。
たぶん、宣伝がウザいと思うので。
また皆様からの感想等があれば、リツイートをさせて頂きたい。
作者が「自信作」「意欲作」といくら喚いても、宣伝文句にしか聞こえないもの。プレイしてもらった人の声は、作者の声より遙かに信憑性をもって新規プレイを検討されている方の胸に届くはず。
「日頃大人しいのに、急にリツイートしてきた」と思われるかもしれいが、そういうわけであるからご了承願いたい。
ちなみに。
日頃、自作品の感想に対してノータッチなのは見つけていないわけではなく、エゴサして見つけているけれど「作者に見つかったと思ったら驚くだろうな」と思い触れない様にしているのだ。
「見張っているぞ」というプレッシャーを与えては、伸び伸びとした感想をつぶやけなくなるだろうし、それは我が輩が望む環境ではない。

交換の尊さ

金の話をすると、「同人作家には金の事を口にせず、純粋な気持ちで創作して欲しい」という意見がでる。
ここに関して、我が輩の持論の一つを述べさせて頂きたい。

我が輩は金を不純なものだとは考えていない。むしろ信頼の結晶だと考える。
我が輩は人生をかけて作品をつくる。読者は満足すれば、そこへ人生をかけて稼いだ金銭で援助をしてくれる。
お互いの人生をかけて得たもの、作り出したものを尊いとして交換する。言わば人生の交換が、金銭という共同信仰によって成りたっているのだ。
我が輩はこの交換という行為をとても尊いものだと感じるし、歴史的に見ても交換する種こそが繁栄している。そもそも社会は交換による付加価値により生じる。つまり「自分のためにするより、同じ事を誰かのためにしてあげた方が価値はある」とすることで、誰かのための行為が広がり、そこに付加価値を生じさせることで人々は潤い、GDPも増加して税収という形で国も潤う。

私が得意なことを貴方にします、だから貴方の得意なことを私にもしてください。
この交換を潤滑に行うのが貨幣という制度であり、これによって、「私が得意なことを誰かにします、だから貴方の得意なことを誰かにしてあげてください」という社会が成り立つ。
この「誰かの背中をかいて、誰かに背中をかいてもらう」社会こそ、安定性のある社会であり、平和として望まれる社会だ。
これを達成しているのだから、貨幣制度、金銭というものは尊いのである。
国や宗教は違えど、貨幣制度という人類共通の信仰があるからこそ、我が輩たちは同期性を保っていられるし、貨幣制度における喜怒哀楽を通して人々を理解出来る。

不純なのはむしろ交換を発生させない行為で、「私の背中をかいてください、私はかきません」「私に何かしてください、私は何もしません」というやり方だ。裏返せば「私は貴方にします、貴方から何も受け取りません」という無償の行為も不誠実と言える。
交換しないことには社会は成立しない。社会が成立しなければ、それぞれの役目も生まれず、存在が保てない。存在が保てなくなればどうなるか。消える。エタるのである。
消えればそこに依存していた人々は困窮する。元々なければ依存環境も生まれなかったはずなのに、生じた後、消えたために、それが存在していた環境への依存が後遺症として残るのである。

海外ではこの一方的な施しを「スポイル」といい、「相手を駄目にする」として好まれない。
何かを提供する者には「環境を再生産出来る見返りを望みなさい」と勧められる。でなければ「持続可能な環境」とは見なされず、「いつか消える甘やかし」として「スポイルしないで」と叱られるのだ。
だから我が輩は「再生産可能な環境」というものを提示し、そこへ至る過程というものも示した。
示したからと言って「これを叶えて!」と懇願しているつもりはない。
「こうなればこうなる」という仕組みを披露し、それを望まれる方がいれば「交換しませんか」と提案したのだ。
我が輩は人生をかけて国シリーズをつくるから、それを楽しめたなら貴方も人生をかけたものをわけてくださらんか。
という「もし貴方が我が輩を認めてくれるなら」という前提のもとに提案しただけである。
一つも不純だとは思えないし、むしろそこに交換が生まれたならばお互いの信頼の証であり、それはとても尊いと我が輩は思う。

極論すれば、別に金でなくともいい。
農家の方が「一生懸命につくったものだよ」と米を譲ってくれるなら、それと交換でもいい。デザインした服と交換してもいいし、油絵や、ピアノの演奏と交換したっていい。
何なら国シリーズへの感想を原稿用紙10枚にかけて綴ってくれたものとパッケージ版を交換してくれ、というのならそれでもいい。むしろ嬉しいくらい。
誰かが人生(時間と労力)をかけたものとの交換なら、我が輩は応じる。
交換した品物の有用性云々ではなく、「人生の交換に応じてもらえた」という喜び欲しさに応じるのである。
我が輩は交換したい。
他人の人生と交換に値する何かを作りたいと思っている。
他人と交換出来るということは、本能的に嬉しいものなのだ。何故かと問えば、環境の再生産、自己保存の達成に対して有利行動だから、ということになる。
この環境の再生産を助ける交換を、最も手間なく行えるのが貨幣制度というシステムの活用。お互いの人生というものを、最大効率でロス少なく交換するシステムだ。

このように考えるから、我が輩は金の話をすることを汚いとは思っていないし、必要があればする。金銭の話をすることを嫌う方々がいることは重々承知しているし、我が輩も「不均衡」と思われる交換は好まないのでやたらめったらにはしないが、必要と感じれば今後もしていく。

金は汚い、という価値観。
創作に金銭の話を持ち込むのは不純という考え。
我が輩は肯んぜない。
交換を尊ばない姿勢は、人類の歴史を否定しているし、また他者を不必要とする危険な思想でもある。自立しているという幻想は、他者を攻撃しても自分には返ってこないという間違った認識に陥り、相手を絞め殺しながら自分をも締め上げていく自死行為にさえ至る。
汚く不純なのは、不均衡の交換や、お互いの承認なしに行われる強奪、嘘をつく詐欺行為であって、交換そのものではない。貨幣制度、金銭そのものではない。

サービスは材料費がかからないから無料で当然。
作品なんてデジタル化出来るし、無限に増幅できるのだから、そんなもので金をとるのは詐欺。
そう考える者の中に他者の人生は存在せず、そんな相手とは共存出来ない。
我が輩の人生を存在させない相手に、我が輩に出来ることがあるだろうか?
ないのである。
あるとすれば注ぎ尽くし、枯れ果てて消えることくらいだ。
結果、「つき合った分だけ損した」「エタるなら最初からやるなよ」と相手の気分を損なうだけ。
仰る通り。これは相手をスポイルした我が輩が悪い。
だから交換に応じてもらえない相手とは、我が輩は関係をもてないのだ。
我が輩だけでなく、この世界の誰もが「交換」に応じない相手とは関係性をもてない。誰かと「交換」出来るだけの何かを持たなければならないし、その何かを相手の中の尊いものと交換しなければならない。相手の中にも価値を見つけ続けなければならない。
その行為へ勤めなければならない。
不均衡な強奪も、一方的な施しによるスポイルも、大変不純な行為であり、すべきではない。
これが我が輩の持論であり、見解だ。
皆様はどう考えておいでだろうか。

心臓を献げるな

金銭を尊く思うが、最も大切なものとは思っていない。
どちらかというと、無頓着な方だと思う。無頓着だからこそ、「このままでいたらいつか枯渇するな」と思い、色々考えている。

金銭だけでなく、フォロワー数だったり、DL数だったり、再生数だったり。
そういう数字、定量性にはあまり興味がない。
興味を持たないようにしている。
興奮しないようにしている。
ドキドキしないよう、気をつけている。
こういう数字に自己拡大欲求を解き放つと、そこに快楽を感じ始め、我が輩というシステムが変わってしまう。
快感を再度味わうため、より味わうために人間は行動を鋭化させていく。これは本能であり、生命のアルゴリズムだ。
数字の拡大に快楽を覚えるようになると、その効率化をはかり、無駄を省いてしまう。非効率を嫌ってしまう。
この無駄、非効率の中に、いつかきっとクオリティというものが含まれ、最後には物語を捨てることになると、我が輩は容易に想像出来る。
クオリティを上げることが数字に直結しない、そもそも物語をつくることが数字を伸ばすのに非効率。そう気づいたが最後、創作への情熱は瞬く間に消え去るだろう。

人間は効率性を見抜くのが大得意な生き物だし、非効率を極度に嫌う。非効率、無駄とわかっての行為を繰り返すと、脳が萎縮し、ストレスのあまり鬱病になるほどだ。
非効率なことをしていたら生き残れなかった原始の時に積み重ねた経験が、我々から非効率を締め出した。
だからこそ、大切なものを非効率と感じてしまうようなシステム、目標設定をしては絶対にならないのである。
クオリティアップに意味を感じられなくなったら終わり。
より良い物語をつくることにわくわく、どきどき出来なくなったら人生が終わる。
我が輩はこの事を肝に銘じて創作を続けてきた。
だから、数、定量的なものに対し警戒し、自己拡大欲求の快楽を感じないようにしてきた。

人間とは快を再生産するシステムである。快の獲得に向かって鋭進化し、効率化を図り、そのレギュレーションにおいて物事に価値を見出す。
では快とは何か。
我が輩はバイタルだと感じている。
分かり易く言ってしまえば、心拍数。
昂揚し、ドキドキすること。
ガチャを引く瞬間、激レア演出、望んでいたキャラの排出――その時、どれほど胸が高鳴っているか思い出して欲しい。
その過程でどれだけ心拍数があがり、また望んだ結果を得たことで緊張から解き放たれ、どれほど甘美な安らぎに包まれたかを。
俗な例えで申し訳ないけれど、心臓、心拍数というものがどれだけ人々の幸福感を左右しているかを考えるのに適切だと思い、挙げさせてもらった。
幸福とは心臓で感じるものなのである。
そこから流し込まれる血の速度、甘やかさによって体感するもの。
バイタルによって記憶に残るものなのである。
どきどきした経験を覚えていて、それをまた味わいたくて人間は活動する。
だからこそ、このバイタルを他者に握らせてはならないと我が輩は考えている。
胸のドキドキわくわくの発生源を、自己より外に作ってはならない。
バイタル、心臓を盗まれてはならない。
心臓を盗まれれば、操られてしまう。

我が輩は自分の物語に感動する。
別に泣くわけじゃない。泣くこともあるが、我が輩は涙もろいので自分が流す涙に信頼はおいていない。「あっそう」というかなり冷めた態度で対応する。泣けた箇所でも物語進行上、邪魔だと思えば削る。
我が輩にとって感動とは、人物を描けた手応えだとか、より良い表現が出来た確信だとか、挑戦が成功したかもしれない予感だとか、そういうもの。
物語をテストプレイした後、「これはもしかすると、もしかするぞ」と思えるドキドキ感、わくわく感だ。
人に見せたくてたまらなくなる。早く誰かに見てもらいたい。
そう感じながらも、別に評価は求めていない。とにかく、この「とんでもないかもしれないもの」を拡散したい。
その欲求圧力による胸の締め付け。苦しさ。
鼓動の高鳴り。
血圧の上昇。
エンドルフィンの大量分泌――そういうバイタルが激震する瞬間を、我が輩は感動と捉えている。
このバイタルの激震が、物語創作において時折訪れる。
「俺は天才か?」
「俺はグレイテストかもしれない」
「かつてない、素晴らしい表現だ!」
と思え、手の震える瞬間が、たまーにある。
大体、すぐ落ち着くが、この時のバイタルは凄い。
身体が粟立ち、沸騰しているような感覚に陥る。血流が脳を駆け巡る、その跡がわかるような気がする。
心臓から送り出された甘美な血で、脳が喜びに叫んでいる……!
という感じ。
全能感。
多幸感。
凄まじい快楽。
心臓のときめき。
これを時折でも感じるからこそ、我が輩は物語を作り続けたいと思える。
どんなにモチベが底でも、あの快感をまた味わいたいと身体が立ち上がってくれる。
快の再生産システムが働き、我が輩を物語創作に向かわせるのである。

もしこんな快楽を、金銭の増加に感じたらどうなる。
フォロワーの増加に全能感を感じたら。
いいねの数に何よりの胸のときめきを感じたら。
一年間も引きこもり、一年に一回だけ発表の機会があり、その発表したものに20件のいいねがつくことを、我が輩は繰り返し続けられるだろうか。
恐らく、というか、絶対、無理だ。
20件以上のいいねを稼ぐ方法は、一年間引き籠もって制作に没頭する事より他にあるし、フォロワーを増やすことも金銭を増やすことも、物語のクオリティアップよりも効率の良い方法がいくらでもある。

金銭、フォロワー、いいね、DL数、再生数。
そういうものにバイタルを奪われてしまえば、我が輩はそこに恋し、その恋を叶えるために非効率な物語を捨てる。

快を再生産するシステムが人間なのであれば、再生産したいものに快を感じるよう環境を整えるべきだし、他のものに胸のときめきを奪われない様に注意すべきだ。
「恋は人を盲目にする」というのはバイタルを奪われるからで、エンタメ技術が発達した現代、恋より他にも心臓を奪い人々を盲目にする物は溢れている。
我が輩はそれらに対し、自己の生理を理解しつつ、適切に対処していきたいと願っている。

こう思えばこそ、日頃、我が輩は金銭に関して無頓着であろうとしているし、フォロワーだとかDL数、いいねの数なども気にしないようにしている。
まったく気にならないわけではないが、他と比べてあんまり気にしてない方だとは思っている。
少なくともそういう数字が与える快感を、物語が与えてくれる感動より上には置いていない。
「物語が与えてくれる激震だけが、俺の本物なんだ」と慰めているとも言えるかもしれない。
ただ慰める必要がなくなる十分な数字を獲得出来るようになったとしても、我が輩は数に対して警戒は緩めたくない。
バイタルを明け渡したくない。

何か、とんでもないものを作りたい。
それを読者の方に認めてもらいたい。褒めてもらいたい。価値あるものだと言って欲しい。
その価値によって、物語によって、他者と関係がもちたい。
それが我が輩の心臓だ。
認めてもらいたいと願う読者は、我が輩にとって数ではない。絶対的なペルソナである。
頂いた感想だとか、エゴサして見つけた呟きに対し、我が輩は読者像を描き、勝手に相手の人生なども想像して、再びその相手に褒められたい、認めて欲しいという欲求のもと創作するのである。
もちろん、このペルソナの中にはリアルな人間関係も含まれる。
オブザーバーとして毎度毎度我が輩の創作物にチェックを入れてくれる友人達。
創作活動の過程で出会った人々。
それらの像も我が輩のなかには存在し、そこに向けて、そこに認めてもらいたい気持ちを滾らせて、創作している。
本当のところ、他者が何を考えているか、他者がどんな人生を送っているかなどわからない。我が輩の中の像(ペルソナ)と、本当の読者の方々は違う。
しかしどう足掻いたって、我が輩は我が輩の中のペルソナとしか向き合えない。
だから我が輩はそれをフィクション(虚構)だと理解しながらも、それを大切として、尊いものとして煌めかせながら憧れている。
そこに認められたら、凄いことになる。
凄いことが何かは知らないが、何か凄いこと、最高の瞬間が訪れるのだと今でも無邪気に信じている。
その信心こそが我が輩の心臓を動かす動力であり、創作の源とも言える。

人々から伸びる影。それは本人ではないが、本人がどんなものかと我が輩に想像を促す。
我が輩はそういう影を愛して止まない。
こう言うと、「読者に会って尊敬されたいのか」とか「リアルな関係もちたさに創作しているのか」「出会い厨?」と誤解されるかもしれないが、そうではない。
実際に会いたいわけではないのだ。
ただ、想像していたい。憧れていたい。
影を集めて、眺めて、ここに認められたらどんなに素晴らしいだろうな、と胸を高鳴らせるその瞬間がたまらなく好きなのだ。
物語を書き終えた時、「これで認められるかもしれない」と思える期待かたまらないのだ。
それが全てだと思う。
それが我が輩にとってのバイタル、心臓を献げる場所であり、それは外ではなく我が輩の中にあると考えている。
我が輩がつくりあげたペルソナたちに見張られて、我が輩は生きているのだと思う。
そのペルソナの一つ一つの尊さは、数には還元できない。
ここへの憧れを忘れ、数を追い始めれば我が輩の物語は破綻するだろう。
他者への想像力、ペルソナとしての一人一人への想像力を失えば、我が輩の創作物はバイタルを失う。

そういう気持ちもあるから、この度のキャンペーンには注意力をもって挑んでいる。
散々な結果に終わっても落胆したくないし、良い結果に終わってもその結果に浮かれたくはない。
落胆も興奮も必要ない。数によるバイタルの変化を経験したくない。
ただ自己分析の指針としてだけ受け取りたい。
今後、創作を続けていく上でも、この技術を高めていく必要性を近頃つくづく感じる。
我が輩は我が輩のペルソナ、我が輩の他者を尊ぶ。
その気持ちに偽りはないと思う。
けれど、数という分かり易さに自己拡大欲求のアルゴリズムがハッキングされる事はあり得る。
容易に想像出来る。
だからいつも数の増減を恐れている。警戒している。

交換の潤滑油である金銭を尊いと言った。
けれどそれが最上とは考えていないとも述べた。
我が輩にとっての最上とは、いつか我が輩を認めてくれるかもしれない他者。
その影、ペルソナ。そこへの憧れだ。
だからリソース面でのロードマップを示し、拡散キャンペーンを打ちながらも、勤めきれていないと思える瞬間があるかもしれない。
やると決めたならちゃんとやれと、我が輩の活動をぬるく歯痒く思われるかもしれない。
もしそういう場面があったとしたら、その所以を「ペルソナが止めたのだ」と思って頂ければ助かる。
我が輩の中の他者が、我が輩を蔑む。それを嫌ったのだと。
我が輩の中の貴方への義理が、憧れが、憧れ故の軽蔑への忌避が、我が輩をアマチュアリズムに留めるのだと。
思って、見守って頂ければ、幸いです。

国シリーズ完成までの道のり。
必要なものは必要としながらも、大切なものこそ大切とし、バランス感覚の中で歩まなければならない。
もしかすると、このバランス感覚こそが、大願成就に最も必要かつ、困難な課題なのかもしれない。

とりあえず、やると決めたキャンペーンの方、頑張ります。