人間の混乱と、物語の意義

20万年前のパソコンとWindous10

我々の身体はいつ我々となったのか。
解剖学的現代人という意味でのホモ・サピエンス・サピエンスは、およそ25万年前に出現したと考えられている。
つまり25万年まえのホモ・サピエンス・サピエンスの赤子をかっさらい、現代の環境にて育てれば、二〇年後にはiPhoneを操り、バッテリーとWi-Fiはインフラだと訴え、それらがないと生きていけない現代人がしっかり出来上がるというわけだ。
我々の身体は、解剖学的には25万年前に完成をみて以来、種を超える変化を経験していない。
もちろん、時代差はある。
摂取できる栄養による成長過程での差は、25万年前と今では大きい。事実、100年前の日本人と今の日本人を比べても、体格差は著しい。これは日本人が百年の間に進化したのではなく、もともとポテンシャルとしてあった成長率が栄養状態の改善によって示された結果だ。環境の変化による個体の身体変化は、種レベルの進化とは考えない。
ちなみに人類という意味での種と、ネグロイド、モンゴロイド、コーカソイドという意味合いでの人種は階層が違う。
ここで扱っている種とは、人類種という意味で、人種の意味では扱っていない。

一方。
我々の思想、文化、現代的ヒューマニティーというものは、いつ成立したろうか。
民主主義を前提とした資本主義、法による治政、性や人種間における平等と尊厳。現代人が生まれながらに保証されるべきとされる基本的人権、人間性の最たるものとして扱われる思想と、その自由の尊さ。
これらの成立はいつだろうか。
起源を辿れば、恐らく18世紀の産業革命期に遡れるのだろうが、成立という意味では現代でも成立していないと答えるのが正しいだろう。
我々のヒューマニティーは今尚更新され続け、完成には至っていない。
いや、完成することはないだろう。
あるとすれば、それはヒューマニティーの終了であって、更新が終わった段階が完成ではない。
ソシャゲのアプデ終了はイコールサービス終了であり、アプデ終了を作品の完成と見なさないのと同じ。
ヒューマニティーは更新され続け、更新する限り生き続ける。
それがソフトウェアの一生というものだ。

25年前に完成した我々の肉体――ハードウェア。
今尚更新され続けている我々の道徳、思想、我々の自己像であるヒューマニティー――ソフトウェア。
この二つが合わさって、現代人は機能している。
これは実に異常なことで、二十世紀末、Windows 96を積んで発売されていたブラウン管テレビのようなパソコンに、最新のOSを積んで動かすと聞けば誰もが「正気の沙汰じゃねぇ」と眉をしかめるだろう。
絶対、バグる。
絶対、上手く機能しない。
OSが必要とする性能をマシーンが備えているはずがない、と誰でも容易に想像出来る。
しかしこと我々に至ると、その想像力が働かないようで、ソフトウェアはガンガン更新し、道徳やら人間性やらを日々拡張していく割に、ハードウェアの方は放ったらかし。
更新されるソフトウェアについていけないのなら、「貴方は人間でない」と烙印を押されるのだから肉体の方はなかなか辛い思いをしていると想像出来る。
ソフトウェアに要求されることを必死に叶えようと、うなり声をあげているスペック不足のマシーン。それが今の我々の肉体だ。

パソコン以上に関係性が悲惨なのは、我々の肉体に備わっていた性能が、最新のソフトウェアにとって不要とされ、その性能を発揮したい欲求がフラストレーションとして溜まっていること。
現代人にとって狩猟の快楽は不要であるし、糖質に対する依存性も飽食の現代にとっては不必要どころか我々の健康を蝕む害悪でさえある。
豚の先祖である猪は社交性に優れ、雌を中心とする群は愛情深く、好奇心も旺盛で、農家を悩ませる賢さと、外敵を攻撃する牙をもつ。
食肉として家畜化された豚はそれらの優れた性能は皆不要であるために、かえってこれらの性質、先祖の名残が彼等を苦しめる。
本来、社交性に優れ縄張りをもつ彼等は狭いゲージに閉じ込められることに大きなストレスを感じてしまうのだ。
人間もこれと同じで、現代ソフトウェアが必要とするヒューマニティーであったり、資本主義が要求する能力や成果物において、多くの身体に備わっている原始的欲求は不必要、もしくはマイナスに働く。
こうした不要になった欲求の不満を発散されるためにエンタメやレジャーというものが存在し、ごっこ遊びをすることで元々は生存に必要だった古い欲求の機嫌をとらなければいけない。ここに、現代人として生きる非効率性が現れる。
最新のソフトウェア、最新のヒューマニティー、最新の資本主義において、我々の肉体は最適化されていない。
むしろいくつもの矛盾を抱え、軋んでいるところを騙し騙し走らせているという状態だろう。
この進化し続けるソフトウェアと進化することのないハードウェアの軋みこそが、現在表出している多くの問題の根源だと我が輩は考える。
身体生理をよりケアしたソフトウェアを開発するか、もしくはバイオテクノロジーによって身体をソフトウェアに追いつかせるべく進化させるか。
どちからに努めなければ、我々は我々が考えるヒュマニティという自己像に置いて行かれてしまう。
自己像に否定されてしまう。

エコシステムの巨大化

何故、我々のソフトウエアは我々の肉体と矛盾して成長したのか。
これは我々の身体が予定していなかった巨大な社会へ人間が参加してしまったためだ。

我々が一人一人の相手、ペルソナとして認識できるのは多くても数百名程度で、千人を超す相手とパーソナルな関係を築くのは困難だと言われている。
数百のペルソナとは20万年前に我々が属していた社会の規模で、この規模に最適化されたハードウェアがホモサピエンスサピエンスの肉体なのだ。
20万年前までは、この規模が「世界」であり、世界はビオトープとして閉じられかつ再生産され、循環していた。
このクローズドな世界が、我々にとって関係のある全てだったから、我々はこの規模を知覚する能力に長ける。
知覚に長けるというのは、この規模のエコシステムに対し、身体性をもつということ。失えば痛み、得れば快楽を味わえる、身体が喜んだり悲しんだり出来る規模だということ。
死者を視覚的に捉え、赤子の産声を聞き、求愛対象に触れ、縄張りの土より出でたものを味わい、敵の匂いを嗅ぎ分ける。
身体によって把握できる社会がこの規模であり、つまりこの規模を知覚する必要のあった社会で我々の身体は完成した。
この規模の社会こそが、我々の身体には最適なのだ。
しかし生存をかけた戦いは、我々をより巨大な社会への参加を強制していった。

協力関係に限らず、敵対関係も含め、あらゆる関係性をWebと呼ぶことにする。
このWebの拡大が種としての繁栄に有利に働いたために、我々は肉体が得意とする規模を破棄せざるをおえなかった。
肉体としての幸福を損なったとしても、巨大なWebへの参加が生き残りに有利なために、仕方なく我々は集まり、密集し、自給自足を超える農業を始め、専門軍人を育成し、自分達より小さなWebを滅ぼし、吸収していった。
敵と戦うことで死者は出ても技術は発達し、種として可能なことは増え続けた。
貨幣制度や世界宗教の発明により、巨大なヒエラルキーを形成しリソースの集中も可能となった。
このコスモポリタニズムによって、一人一人の肉体は悲鳴をあげながらも、人類種としての文化、知識は発展し、蓄積していった。
つまりソフトウェアが成長していった。
この初期段階の過程を眺めても、我々のハードウェアと我々のソフトウェアが必ずしも一致団結して人間というものを形成してきたわけでないことが窺える。

束の間の幸福。個人と成長。

西洋史に偏った話にはなるが、「個人」という発想が大衆化していくのは18世紀末のフランス革命を契機と見ることができるだろう。
ここから始まり、二つの世界大戦、米ソ冷戦、ソ連崩壊を経て、個人の尊重、民主主義が共通の善となったことで「歴史の終わり」が訪れ、恒久的な平和状態へと向かい始めたとかつては考えられた。(考える人々もいた、くらいが適正か)
ソフトウェアの方も「個人」という視点で我々の肉体を顧みてくれる様になり、専制主義時代では成り立たなかった個体としての幸福の追求が許された。
許されたというのは即ち、自由資本世界において個体の快楽追求が種としての繁栄に役立つということで、ここにきてようやく種としての発展技術が蓄積されていくソフトウェアと、個体としての欲求をもつハードウェアが仲良く手を繋げたように思えた。
実際、二十世紀後半から二十一世紀初頭まで、我々は人間として矛盾していなかった。
ソフトウェアの発展方向と、ハードウェアの欲求が合致していたのだ。
矛盾があったとしてもそれは過去から続く問題であり、解決へと向かって前進していた。前進していると思えた。
最善ではないかもしれいが歯車はかみ合い、昨日より今日、今日より明日と、我々はソフトウェアとしてもハードウェアの幸福追求としても、進歩を実感していられた。
しかしながら、このソフトウェアとハードウェアが共に歩む進歩には、潤滑油が必要だった。
この潤滑油が切れると、我々はソフトとハードで歯車がかみ合わなくなり、途端に軋み出す。
この人間としての成立に必要不可欠だった潤滑油こそが、成長拡大の実感。
経済成長の実感だ。
経済成長そのものではなく、個人個人の肉体として感じられる成長拡大実感だった。

得意と不得意

我々の参加するWeb、エコシステムは巨大化し続ける。
つまり肉体が得意とする規模からは乖離し続けたのが、我々の歴史と言える。
それでも近代化の過程で人間の幸福度は増した。少なくとも18~19世紀に比べ、20世紀末
~21世紀初頭の方が、「幸福」と感じていられる個人の人数は格段に多い。
中世~近世~現代という区分で考える時、種としてのWebや、個人が依存するエコシステムは巨大化の一途を辿り、肉体としての得意規模からは離れ続けた。
にもかかわらず中世~現代で見れば、人々の個人としての幸福感は増している。幸福を感じられる個体の数は増えている。
この矛盾している結果のカラクリが成長実感で、我々は上手くいっている内は得意不得意関係なく、自己拡大を叶えてくれるシステムと仲良く出来た。
結果、我々は勘違いしてしまった。

得意、不得意の分別基準を多くの人は勘違いしている。
ギャンブル経験者ならわかると思うが、上手くいくことはイコール得意なことではない。
得意ではなく、拙い技量しか持ち合わせていなくとも、物事が上手くいくことはいくらでもある。
ビギナーズラックもその内だろうし、どんな分野にも「デビュー作はあんなに良かったのに」という一発屋が絶えないのも、上手くいくことに技術が必要とされない事に起因する。
ヨットにしたって順風満帆であれば、帆を操る技術は必要ない。
技術が必要とされるのは向かい風、べた凪の時で、順風でない時にこそ解決方法を示すため能力が問われる。
要するに、得意分野とは「上手くいかなくなった時に状況を把握し、問題点を見つけ、解決出来る」分野であって、順風の時に調子にのれる分野ではない。
各種要素を把握し、それらの関係性を理解し、それらを機能として捉えることが出来る巨視的な視野もてること。
つまりは、把握出来る物事であること。
これが得意分野というものであり、規模である。
この意味で、我々は大いに勘違いした。
成長実感という順風に背中を押され、どんどん進み続ける船の舵を握り、「これこそヒューマニティー」としてグローバル経済を持て囃し、Webを際限なく拡大させ、繋がることを強要していった。
エコシステムを巨大化させる流れを、加速させていった。
結果、風が止んだとき、経済背長という拡大実感が止んだとき、我々は外洋にぽつんと浮かび、為す術がなくなった。
風の無い中どうすればいいかわからない、嵐が近づく中何をすれば良いのか見当もつかない、まったくの素人として絶海に放り出されてしまったのだ。
我々は我々のハードを遙かに凌駕するエコシステムに依存し、そのエコシステムから生じたソフトウエアにとんでもない要求を突きつけられた。
まったくの門外漢として、適正もまったくない規模の問題を抱えてしまったのだ。
我々は、我々のエコシステムを、もはや把握できない。

痛まない身体

自分を成立させている生存圏。
依存しているシステム。
それがあまりに巨大になったしまったため、我々は自己に降りかかった問題を解決出来ない。
それどこから、問題のために自己が損なわれる瞬間に気づくことさえ出来ない。
肥大化したために鈍感になり、傷ついて血が流れていることも知覚出来ない。
痛覚を失った巨人。
それが今の我々だ。

想像してもらいたいのはガリヴァー。
いや、それよりも巨大な、世界に横たわるような巨人。
世界に横たわる人間というものが想像し難ければ、世界に巻き付く巨大な蛇、北欧神話に登場するヨルムンガンドを思い描いてもらってもいい。
これが貴方だ。
貴方はとにかく巨大で、世界中のどこにでも貴方は居る。世界中のどこからも貴方に触れることが出来る。
しかし貴方は巨大故に鈍感で、身体に痛覚が走っていない。感覚がない。
だから世界のどこかで貴方の血を抜くノミがいたり、貴方のキラキラ光る鱗を剥がすカラスがいたり、あるいは貴方の尻尾をモグモグ食べる狼がいても、貴方は気づくことが出来ない。
どこかで斧を振るわれ、致命傷となる傷をおい、太い血管から毎秒何ガロンという血液が噴き出していても、貴方は気づくことが出来ない。
尻尾はとうの昔に骨とかし、血や肉は盗まれつくして、いよいよ顔色も悪くなったころ、「なんか今日は調子が悪いな」と知覚する。
手遅れになってようやく、何かを失ったかもしれないと気づくのである。
巨大故に鈍感で、鈍感なために喪失に気づけない。
痛まない身体の持ち主。
これがグローバル経済、世界規模のエコシステムに依存している現代人だ。
この身体性、痛覚を失ったエコシステムに依存していることに、我々、現代人の恐怖と混乱は生じている。

「未来の見通しがたたず心配が絶えない」「先行きが不透明で何をしたらいいかわからない」という不安は、社会に生きる人々、これから社会へ出て行く若者たちにも共通のものだろう。
しかしこれは「未来」に対して不安ではなく、自分が依存しているエコシステムを把握出来ないという「現在」の不安だ。
エコシステムが巨大過ぎて理解出来ない、何が起こるかわからない、何かが起こってもどうすればいいかわからない、という「今をコントロール出来ない」ことへの不安に他ならない。
我々はいつも漠とした不安を抱えている。「今、ここ」という肉体が知覚できる範囲外の、「いつか、どこか」で何かを失っている可能性があるために、いつも何か不安なのだ。
何が不安かはわからない。
何故なら世界とつながっている我々にはあらゆる喪失の可能性がある。
何処かで誰かが貴方の未来を切り刻んでいるかもしれないが、貴方はそれに気づくことは出来ない。
この損失の可能性が常に頭をもたげ、いつだって我々を微かに不安にさせる。
実際、貴方の知らぬ間に、どこかで、貴方の何かは、失われている。結果としてクリティカルな問題のとして表出しても時既に遅しで如何ともし難い。
この状態に、古いハードウェアと新しいソフトウェアの矛盾が再発する。
再発しているのが、現代人だ。

世界の語りなおし

問題が起こっても何をどうすればいいのかわからない。
そもそも何が問題なのかもわからないし、何が起こっているのかもわからない。
自分を、自分の未来を、自分を支えているあらゆるものを、把握することが出来ない。
巨大化したエコシステムに依存し、成長実感を感じることの出来なくなった現代人が陥る混乱。
この不安と混乱の解決に、我々はどんな方法をとるか。
巨大化したシステムへの精巧な理解へ努めるか。
そんなことはしないし、それは我々の肉体には無理だ。
我々がとってきた方法は、物語の採用。
我々が身体で理解出来る、腑に落ちる物語を採用し、納得すること。
不安や恐怖、混乱を対象化し、それを敵と見立て、それらを撲滅することで現状は改善するという希望を持つこと。
自分たちは救われるのだと物語ることで人々は救われるような気がしてきた。救われるような気がすることで頑張れたり、団結できたりしてきたのだ。

我々の規模ではなくなった世界を、我々の規模で語り直す。
これは何も最近発明された方法ではなく、以前から採用されてきた我々の十八番。
参加しているWebや依存しているエコシステムの巨大さに目をつぶり、手元の物語に集中する。
小さくて、わかりやすく、自分にも役割があって力を発揮でき決定権さえあると思える物語によって世界を語り直し、安心する。
この世界の語りなおし、箱庭物語への帰還が、身体性を失ったエコシステムの中で我々が採用した手段――鎮静剤だ。
ポスト真実だとか、フェイクニュースなんて言葉が取り沙汰されるが、あれも新しいものではなく、我々が手に負えない問題に直面した時に繰り返してきた鎮静技術、世界の語りなおしでしかない。
真実なんてものはそもそもなかったと思うが、真実と思えていた物語(経済成長)が終わった後に、また別の物語によって自分たちを語り直す。
それが時には行き過ぎたり恣意的過ぎたりしてフェイクニュースになるが、根本的には全てがフェイク、誰かが語った物語であることに変わりはない。

最近の流行。物語のトレンド。

順風が吹き、エコシステム、ソフトウェア、ハードウェアのバランスがとれ、人間として矛盾していなかった頃にしたって、我々は物語のなかにいた。
古くは高度経済成長だろうし、近年をふり返ればIT革命と言われた時期も、「これからは明るい未来が待っているだろう」という開放感があった。方向性が存在し、そのベクトルに沿って進む限り、進歩と思える価値基準があった。
我々はその価値基準によって自己を判断し、「こうなればこうなる」「こうなりたいからこうしよう」と自分を物語ることが出来た。
成長実感を得られ易い一様な価値観が存在し、多くの人々はそれに沿って自分を物語っていたのだ。
十年くらい前まではまだこの傾向が強く、「勝ち組」「負け組」「リア充」「陰キャ」という統一的なスケールによって市民権を得ていた言葉が溢れていたし、実用的なテクニックが羅列されたビジネス書も山のように出ていた。その多くがベストセラーとなり「これが出来ない男or女は駄目」「○歳までにこれをしないと終り」みたいな脅し文句も世に溢れていた。
一様な価値観からくる暗い脅しや否定も多かったが、価値観が定まっているからこそ明るい未来も描き易かったのだろう、カルチャーは90年代に比べ陽気だったように思う。
前世紀末に比べ、気楽なものが多かった。
しかしそんな時代も廃れ始め、分岐点が訪れる。

文化、世相なんてものは曖昧なもので、移り変わりにはっきりとした境界線があるわけでなく、ある程度の移行期を経るもの。グラデーションを成すもの。
であるから、はっきりここからとは言いづらいのだが、今回はコロナもあって割にくっきり境界線が見えている気もする。
コロナによって世界が変わったと言うよりは、世界が変わってしまっていたことがコロナによって浮き彫りになったという方が正鵠を得ているだろう。
2010年と2020年は違う。延長線にないという感覚は、多くの人々が共感出来るのではなかろうか。
我が輩としては2020・東京オリンピックを機に日本経済は転調し、そこからジワジワと世相が変わってくると読んでいたのだが、大きく外れた。
オリンピックよりも先にコロナがパンデミックを起こし(ギャグじゃないよ)、最初は「いやいやさすがにそれは」と思われていた「最悪の場合、死者200万人」も鼻の先へと迫った。
ジワジワとではなく、急激に世界は変わってしまった。

このアフターコロナの世界に、元々軋み始めていた一様な価値観、統一的な物語が機能せず、機能している内は我慢出来ていた痛みや苦しみが噴出して、既存の価値観や物語を攻撃している。
破壊の時代、というのが今の風景のように思う。
新しいものを生むために、古いものを焼き払っている。
この破壊と、焼き払い、つまり攻撃が現代の物語のトレンドだと感じる。

破壊や攻撃と言ってしまえば聞こえが悪いが、忌避するものでもない。
古いものが旧態依然として居座っていては進歩がない。機能しなくなったものは新たな力により破壊されるのは理なのだ。
攻撃性が著しいと暴力として問題にはなるだろうが、かと言ってお利口さんにしていたところで古いものが物分かり良く飛ぶ鳥跡を濁さずの精神で退陣してくれることは絶対にない。
合理性が尊ばれる科学の世界でさえ、パラダイムシフトは研究者が死ぬことで起こると言われ、既存のパラダイムに生きる研究者、重鎮が生きている内はシフトが起きづらい。いわんや政界、財界、世のトレンドとなればなおさらだ。
お利口さんになあれ、と育てられた我が輩たち世代の道徳にはそぐわないかもしれないが、攻撃性を持ち合わせるというのは大切。
多くの動物が牙をもち、怒りによって牙をむくのは、攻撃性の顕示のためであって、攻撃するためではない。攻撃性を相手に認識させることによって無駄な戦闘を避けるためだ。
「なめたらいてまうぞ」という気概があればこそ避けられる戦闘というものがあるし、それによって得られる正当性、平等正というものもある。
相手の良心に期待しお利口さんにしておくというのは、既にシェアを取っている先達から良民鍛冶によって牙を抜かれ搾取先に成り下がることでしかない。

既存の物語が機能不全をおこし、その機能不全の中で苦しんでいるのなら、破壊にしろ、攻撃にしろ、怒りにしろ、それらによって自分を物語るのは間違った行為ではない。
平和な時と比べ醜い風景かもしれないが、それは経るべき過程なのだ。
破壊のなかった進化やヘゲモニーの移ろいというものは、歴史上ない。
暴力という方法に訴える必要はないが、既存のものを破壊するエネルギーは必要なのだ。
つまり破壊や攻撃、怒りをトレンドとする最近の物語も、別段、新しいものではないし、むしろ我々の十八番、手癖と言っても良い語り口だと言える。

物語ることの難しさ

我が輩が現代性として問題視しているのは、物語の内容ではなく、物語る難しさで、これが時代の進むにつれ困難になっていると感じる。
物語る技術を、肉体の規模に合わせて世界を語りなおす術だとするなら、我々は自分の感覚にあった世界に生きれば良い。
目に見えるもので世界を形成し、そこに敵が現れれば威嚇し、仲間が傷つけば助け、子供が腹を空かして泣けば庭のリンゴをとって与えてやる。時には大雨で畑の農作物は駄目になるかもしれないが、経験によって蓄え、備えることで乗り越える。
特別富んでいるわけでもないが、隣人と比べると自慢の芝生があるし、少なくとも貧しい様子はないからまぁマシな方だろう。
全能感とはいかないまでも、知覚した世界を我慢でき、我慢できなければ改善を施すことが出来る。
これを成立させるのが物語の目的であり、物語る技術だ。
この技術を、近年のテクノロジーは大変困難にしてしまった。
またこれから、益々困難にしていくことが予想される。
その原因が情報の通信量と通信速度の劇的改善。
これによって知覚できる世界が急激に広がってしまった。
だと言うのに、人の影響力を及ぼせる世界は広がっていない。
見える世界の大きさと、影響を与えることの出来る世界の小ささ、このギャップによって物語ることは大変困難になってきている。
世界に対する不能感は、物語の主たろうとする人々に水を差すのである。

共感力がもたらす困難

映画「グリーンマイル」に登場するジョン・コーフィーは「世界中の苦しみを感じることに疲れた」と言って無実ながら死刑を受け入れ、命を絶った。
アニメ・ガンダムにおいてもニュータイプと言われる新人類は他者の痛みや苦しみにまで強く共感してしまうために、自己を超えた苦しみに苛まされた。
フィクションを例にとらなくとも所謂「空気」を読み過ぎるために、不機嫌な人が横にいるだけで疲れ果てる、誰かが悲しんでいるといてもたってもいられなくなる、という人は多い。
物語を読んでハラハラドキドキ、あるいは同情し泣いてしまうのも、強い共感力から生じる自己を超えた感覚である。
我が輩もこの共感力が強く、他人が泣いているのを見るだけで喉がつまり、涙が零れる。人が笑っていると笑ってしまう。流され易いとも言えるが、我が輩は自分のことをミラーニューロンが人より発達していると思うことにしている。
だからこそ、「この涙は俺のものか?」「この感情は俺のものか?」と自分のなかに現れたものに毎度毎度警戒する。ちゃんと警戒しておかないと、自分には関係のないポリコレ案件に義憤をメラメラ燃やし、「悪いのは誰じゃー!」とバットを振り回しかねない性質をしている。
我が輩だけでなく、我が輩の年代、またはそれより下はこの共感力が高く、ポリコレ案件に踊らされ易い性質を持っていると感じる。
これはインターネットネイティブ、SNSナチュラルな世代に起こる現象で、日頃から、また幼い頃から、他者の情報をエピソードとして共感し、体験してきた人々にはこの傾向が強い。

ジョン・コーフィーのような奇跡の力や、ニュータイプのような能力を持ち合わせていなくとも、通信技術の発達によって、人は「今、ここ」にいない他者を体験出来るようになった。
体験するのが容易くなった。
今後、より、容易くなっていく。
そこで想像してもらいたいのが、「今、ここ」にいない誰かを体験して、人は耐えられるのかということ。
体験することは出来ても、為す術もなく、ただそこにあるものを感じるだけの不能感に、我々はどこまで堪えられるだろうか?
ジョン・コーフィーは死んだ。
ニュータイプも幸福にはなっていない。
我々は知覚するだけの体験に、耐え続けることが出来るだろうか。

5Gはもたらす悲劇

残酷で、気分の悪い想像をお願いする。
嫌だと思う方は、避けてもらいたい。

もしも貴方の目の前で、小さな子供が目に涙をためていたら貴方の心はどうなるだろう。
その子の隣で母親が倒れ、目覚める気配もないとしたら。
幼子が悲しみと混乱で泣き続ける姿を、ありありと体験したら貴方の心はどうなるだろう。
人生に絶望し、ガソリンをかぶり焼身自殺を図る自分と同じ歳の青年の、最後の瞳を真っ直ぐに見たら。
「息ができない」と必死に助けをもとめる人が息絶えていく、その瞳に見つめられ続けたら。
「お願い助けて」「見捨てないで」と懇願する少女の目の前に立ったら。
そんな経験をありありと、現実のように体験したら、貴方の心はどうなるだろう。
体験するだけで、何一つ出来ることがないとしたら。

上記に述べたのは、エピソードとして世界に共有され、そこへの共感によって世界を変えた出来事だ。
シリア難民への関心を高め、アラブの春を呼び起こし、BLM運動を燃え上がらせ、ドイツの難民政策を転換させた。
これらは全て、SNSに動画や写真として拡散され、体験され、大きなムーブメントへと繋がった。
残酷な体験であるから「良かった」と形容するのは間違っているが、それでもこれらが徒花とならず、ムーブメントへ繋がったのは一つの救いだろう。
しかし世の中に溢れるこれら「耐えがたい」エピソードの全てに、救いが待つだろうか。
残酷で悲しかったとしても、それを体験した者が納得できる終わりが待っているだろうか。

逆も考えられる。
「映える」という言葉からわかるように、現代の幸福は拡散され共感されることで成り立つ。
「いいね」の数が幸福の度合いを決める。
そんな風潮にあれば、SNSには他人の幸福も溢れかえっている。
その幸福のエピソードをありありと体験しながら、それは自分ではなく他人のものだということに、人はどこまで我慢できるだろう。
現状のTLでさえ「他人の成功や幸福」が溢れていて辛いと思う人は多いのに、その「他人の成功や幸福」の解像度が今より格段に上がったら。
全方位を他人の青い芝生に囲まれたら、貴方は自分の人生に集中出来るだろうか。
毎日、毎日、「成功報告」や「受賞報告」、「素敵なパートナーとの食事」や「一家団欒の風景」に包囲網をしかれたら。
朝から晩まで他人の幸福に囲まれて、少しも急かされずに、平常心を保ち、自分は自分と思えるだろうか。

通信速度が改善し、共有出来る情報が増していくことで、個人は世界とエピソードで繋がってしまう。
数字へ情報量を落とさなくとも、不幸や幸福をエピソードで体験できる。
エピソードとして体験することで、それは絶対的な経験となり、定量的に示される相対的情報を駆逐する。
凶悪犯罪は年々減っているというグラフを見せられても、貴方は昨日起こった幼児虐待とその哀れな死に強く心をひかれ「世界はマシになっている」なんて思えない。
貴方の年収は中央値から大きくは外れていないし、先進国に限ってみても随分マシな生活をしていると数字で示されたって、TwitterやFacebookに溢れる成功体験や幸福そうな写真に心はざわめく。
個人体験の共有という形で、絶対的な感情が共有される世界は、相対的な比較検討という理性を締め出す。
悲しみや苦しみに耳を澄ませば尽きることはないが、他人の幸福や成功に耳をすましても尽きることがない。
他人の感情で一杯の日々が、5Gや続く次世代のジェネレーションには待っている。

通信技術の発達によって、知覚できる世界は拡大する。
しかしながら、そのほとんどは他人のもので、自分には直接的に影響を及ぼす手段はない。
知覚し、感情だけは喚起される。
けれど手も足も出ないという状況。
この無能感が、自己という規模で世界を語り直すことで平穏を得ようとする物語戦略を阻害する。
世界を把握できないから、把握できる規模に物語りなおした。
なのに今度は、知覚出来る範囲が広くなりすぎて、物語を上手く語れない。
知覚出来ても自分には為す術もないから無能感だけが募り、苦しむ。
誰かがあんなに苦しんでいるのに。
誰かはあんなに幸福なのに。
その両方から切りつけられて、「今、ここ」という自己に集中出来ない。
結果、憔悴し、ジョン・コーフィーと同じ結末を辿る――かもしれない。
これが我が輩の懸念する、現代性のある問題だ。
人は繋がり過ぎ巨大になって知覚できなくなり、知覚できる物語へ還った。
しかし知覚できる技術によって物語から覚まされる。
目覚めた世界の巨大さには、手も足も出ずに、自分に失望する。
今よりもきっと、自己を物語れない人が多くなるのではないかと思っている。

現代性に対する物語の意義

上に記した内容は、我が輩のオリジナルではない。
近年ベストセラーになったユヴァル・ノア・ハラリの著書から大部分のアイディアはパクってきてるし、Webというアイディアはマクニール親子が記した「Webで見る世界史」に頼っている。
そもそも我が輩の考え方がフランスの社会学者エマニョエル・トッドに多大な影響を受けている。他にも社会学やそこに接近した構造主義関連の哲学にも影響されている。
影響されていると言うよりは、素人が本を読んでわかったところだけを横流ししているというきらいが強い。
であるから、上記した問題にも我が輩が参考にした(パクった)著書それぞれに対処方法や解決方法は示されている。
瞑想や筋トレ、リアルなコミュニティに属することが勧められているので、我が輩もいくつかは取り入れ、拡大する知覚世界と戦っている。
皆様も上記した内容に対し、専門家の処方箋を得たければ、それぞれの著書にあたってみられることをお勧めする。
ユヴァル・ノア・ハラリの著書は日本語訳も良く、大変読みやすいのでこの年末休みなど読んでみられてはいかがか。
エマニョエル・トッドの代表作はマジで読み辛いのでオススメしない。

他人のアイディアを10000文字もかけて横流ししてきたわけだが、我が輩が示したいアイディアはここからになる。
我が輩は上記した現代の問題、「自己を物語る難しさ」に対し、物語というものが役立つのではないかと考えている。
物語、と言うよりは、物語が提供する空間。
この空間が現代人の癒やしになるのではないか。
そう考えるのである。

凸のエピソードと、凹の物語

拡大する知覚世界とは、他者のエピソードであることは語った。
このエピード群によって、「いま、ここ、私」という自己は拡大され「いつか、どこか、誰か」という規模にまで知覚が広がってしまう。
その広がった世界に対し、為す術が無いことに無力感を募らせ、焦り、ついには憔悴し、自己への失望に至る。
では今後溢れかえると予想され、それを知覚することで失望に繋がるという他者のエピソードについて考えてみよう。

Twitterでもインスタでも何でもいいが、そこに溢れている他者のエピソード、感情は、貴方に知覚されたがっている。
貴方の意識にのぼり、怒りや悲しみを喚起して共感を得ようとしたり、貴方から嫉妬や羨望を得ようとしてくる。
顔を真っ赤にして怒っていたり、この世の終わりのように嘆いていたり、自慢気な笑みを隠しきれない他人が貴方を囲み、これでもかと自分のエピソードを捲し立てる状態思って頂ければわかりやすい。
「私を見て!」「気づいて」「知って」「羨んで」「褒めて」「(一緒に)怒って」「憎んで」と四方からわめき、貴方に浴びせてくる。
この「貴方に情報を浴びせる」行為を凸行為としておく。
凸行為によって、貴方は反応を引き出され、同情したり、羨んだして、挙げ句疲れ果てる。
凸られて、感情を引き出され、何も出来ずにいやになる。
貴方自身の物語に使うはずだったエネルギーを、他人に使われて気力がナッシング。
これが他者のエピソードに凸られることで貴方が陥る状態だ。

この凸られて使われて疲れ果てた人々に、物語は癒やしを与えることが出来る。
凸行為とは反対の、凹行為が物語の仕組みにはある
浴びせるとは逆の、吸う力が物語にはあるのだ。
この凹行為、吸う力こそが、物語の空間。
空間によって生じる癒やしだ。

心を吸う物語

物語とは読者の心を吸い込み、それを動力源として機能する仕組みと言える。
当たり前のことだが、物語は読者がいなければ成り立たない。
宇宙空間に小説を放ってみても、そこに喜びや悲しみは発生しないし、はらはらどきどき、わくわくも存在しない。
物語とは電化製品の如く、そこに動力源が供給されることを前提に作られていて、動力源なしには意図した機能は発揮されないのだ。
この動力源が人間、その心、アルゴリズムだ。
物語は人間が読むことを前提として作られている。

物語はその仕組み上、読者の心を吸おう、感情を受け取ろうと努力する。
中にはやりたいことや言いたいことを浴びせかけてくる駄作もあるが、本来、物語は読者の心や感情を受け取るところから始まるものだ。
エンタメ要素が極端に強い作品も物語内で読者の感情を煽り、それをもって作動するが、これは凸って感情を引き出してくる他者のエピソード変わらない。凹行為とは見なせない、物語としては不十分な作品と言える。
優れた物語は、人間の普遍性や、時代性を熟知し、読者の中に既にある心や感情を引き出す。
登場人物の一言や、置かれている状況に、「あ、これ俺だ」「わかる」「この子、私みたい」と思える作品。もしくはそこまで明確に思えなくとも、何かこう、心が解かれるような瞬間を覚える作品。
そういう作品こそ、読者の心を吸う、凹行為と呼べる優れた物語だ。

凹行為によって読者の心を吸うと、物語はそれを物語空間で遊ばせる。
様々な体験を味わせ、どきどきさせたり、わくわくさせたり、暗くしたり明るくしたりする。
アトラクションに乗ったかのように、読者の心に様々な経験をさせるのである。
物語に心が吸われている間、読者にとって心や感情はキャラクターや物語風景として対象化される。
悲しさとしてくみ上げられた心が明るくなったり、孤独としてくみ上げられた感情が仲間を得たりする。
その心や感情の変遷を見つめている間、束の間、読者は自由になっている。
自分の心や感情だけでなく、他者のエピソードにも凸られて一杯一杯だったところを、物語にいくらか汲み取ってもらい、その面倒をみてもらう間、読者はすこし客観性を増し、冷静さを取り戻したり、ギュウギュウの混雑状態では見つけられなかった細やかなものと出会う。
例えるなら、育児ノイローゼだった母親が一日子供の世話を変わってもらった時間に、枯れ果てたと思えた我が子への愛情がこんこんと湧くのを感じる様な。
他人の腕に抱かれる我が子を遠目から眺め、たまらない気持ちを覚えるような。
自分の腕のなかにあったものを他所にあづけ、距離を設け対象化することによって、それを見つめ直す間を与えられる。

預けた心は物語空間で様々な経験を通して伸び伸びとし、預けた本人も混雑状態の解除、距離を設け対象化することによって肩の荷を下ろす。
この二重の癒やしが、物語の凹行為、物語が提供する空間によってもたらされる。
この癒やし故に、物語は現代の問題に効く、と考える。
他者のエピソードで拡張された知覚世界、そこから一時回避し、いっぱいいっぱいになった自分の心をくつろげ、遊ばせ、整理し、向き合う時間や空間を提供することで、物語はこれから迎える人間の混乱を助けると我が輩は考える。

混乱とは把握出来ないということ

混乱することがなければ、人間は幸福であると我が輩は考える。
たとえ現状が恵まれていなくとも、問題を改憲する方法を見つけていて、そこに向かって努力する術があるのなら、人は不幸を感じないだろう。
不幸とは為す術もなく混乱し、無能感に苛まされることに他ならない。
つまりは、自分を物語ることが出来ない状態こそ、人間の不幸なのだ。
この混乱状態に、物語は空間を与え、観察を促し、休憩をさせ、整理を助ける。
ゴチャゴチャになってもうわけからん! というものを、広い作業スペースに向かって一つ一つ並べてみる。すると「ああ、こんなことか」「これだけのことか」とわかって、手に負えるようになる。
それを可能にするのが物語空間なのである。

物語は貴方に何も与えない。
フィクションであるから、貴方の何かを増やしたり、あるいは減らしたりすることは出来ない。貴方の人生を解決することもない。
しかし、物語は貴方に空間を提供し、貴方の休ませ、貴方の整理整頓を助ける。
結果、物語体験を追えた後、貴方はいくらか伸び伸びとし、瑞々しい気持ちを取り戻し、心も整っている。

世の中、他人のエピソードにしろ物にしろ、とにかく溢れている。
空間がない。空間がないと、人は雑多な中で混乱する。他人と自分を混合してしまい、他者の感情を自分のものと勘違いして怒りや憎しみを燃やしたり、他者の物を自分のものと勘違いしてそれが手に入らないことに嫉妬したりする。
これはまったく疲れる。
この溢れかえった世界に対し、物語は空間を与えるために意義がある。
物語は人の人生を解決はしないが、人生を解決しようと、自分なりに物語ろうとする人を助ける事が出来る。
こう考えて、我が輩は「物語をつくることは意味がある」と思っている。
そう思って、自分の行為を物語っている。

我が輩が定義する以上の効果が物語にはあるかもしれないし、我が輩が考える効果などなく物語は唯々エンタメとして読者の快楽を喚起するばかりかもしれない。
それは作者が何を志すか次第だろうし、読者が何を求めるか次第だろう。
ただ我が輩は、物語の空間に憧れ、そこに浸ることでずいぶん助けられた経験があるから、自分自身もそういう物語を読者に提供してみたいと思っている。

面白いストーリーも書きたし。人物を描く技量も磨きたい。ビジュアル表現も、サウンド表現も向上させていきたい。
そう思うのは偏に空間を作るためで、良質な空間を作り上げることが物語の価値を決めると思っている。
我が輩だけが作れる空間、その空間だけが汲み上げられる人の心、その空間でだけ体験できる何か。
そういうもの大切として、志し創作をしていきたい。
そういうものが作れると思えば、やる気がでるのだ。

ここまで読んでくれた方、長々とお付き合い頂き、ありがとうございます。
この度は自分にとって創作とは何かを考え直す機会が欲しく、このような独りよがりの文章を書き連ねた。
広報キャンペーンで一喜一憂したくないなぁ、と思っていたが、やっぱり一喜一憂してしまい、そこに疲れ、そんなことに疲れるの嫌さで自分に引き籠もった次第。
ネジを巻き直し、キャンペーンは最後まで頑張りたい。