ハルカの国 創作の記その29

星霜編についての言い訳

星霜編について、様々な方より感想を頂いた。
概ね好評で、胸を撫で下ろしている。
中には今回の造りが合わなかった方もおられたようで、そこは残念に思う。

作者のエゴとして、本来なら口を噤むべきところだが、恥を忍んで星霜編を弁明させてもらえるのならば、一つ聞いて頂きたいことがある。

我が輩は物語を通して説教をしたいわけではない。
星霜編を通して、こういう生き方が正しくて、こういう生き方は間違っている、と価値を披露したとは思っていない。
生活狐は諦めで、やっとう狐として自己を真っ当することが正しいなんて言ったつもりはない。
共に生きていこうとしたユキカゼの後に、別れを選んだオトラを置いたのは、その順番に価値の差を込めたわけではない。
別れを選んだオトラを肯定したわけではないし、ユキカゼの共に生きようとした姿を否定したわけでもない。
時間差をつけて矛盾することを並べたのは、空間の中で座標をずらし、否定を逃れるためだ。

ユキカゼは生きていくことに価値を求めた。オトラは生きてきたことに価値を見出した。
それはそれぞれの方便で、我が輩はそこに価値の差があるとは考えていない。普遍性のある価値があるとも思っていない。
生活狐も、やっとう狐も、姐さん狐も、それぞれの物語、それぞれの生きる上での方便だ。
ユキカゼが「もう十分です」と答えを出したその時に、オトラが「いっといで」とユキカゼの決意を覆すのは、ユキカゼとオトラが同価値だからだ。
ユキカゼのためのオトラではなかったからだ。
オトラはオトラとして生き、オトラの心でユキカゼを思い、最後の妹として送り出した。
オトラがオトラとして振る舞ったという姿を描いただけだ。

何故、ユキカゼ、オトラ、それぞれに振る舞わせ、お互いを否定するような行動をとらせたのか。
それは我が輩が彼女たちに意味や価値があるとは思っていないからだ。
世界は誰かに同情することなどなく、誰かを主旋律としても扱わない。
世界という空間は、価値を定めない。座標があるだけ。
だから、皆が手前勝手に、必死に物語ろうとする。価値や意味を求める。他者という対象と自己という主観の間で気狂いのようになりながら、本当の優しさという幻に憧れ、辿り着けないなかで行動を繰り返す。自己へ懐疑的になりながらも、騙し騙し、なんとか物語りながら狡さを許しながら、営んでいる。
人々が営んでいる空間があるだけ。
世界はユキカゼだけが語り得る場所ではない。オトラが肯定された場所でもない。
ただ空間があっただけ。価値を帯びない、存在を差別することのない空間があった。だからすれ違いもした。言っていることが二転三転もした。かつ、すれ違いながら、言うことを違えながらも、否定にはならない。
何故なら、それぞれが存在しうる空間があるから。
時間軸のなかで、空間軸のなかで、それぞれ違う座標に存在することで、物語が違っても他を否定しないでいられる。
生きていられる居場所がある。
生きていられる居場所があれば、他者が自分とは違っても、否定する必要性は生じない。

ユキカゼとオトラはどこまでも他人だった。
違う一生を歩んできた。
その他人が、手前勝手だけれどそれぞれを思い、時には相手のことで胸を一杯にして生きた。
自分の居場所から他人を思った。
そういう姿に焦がれるという感情動機のもと、そういう風景が見たいという気持ちのもと、我が輩は空間を描きたいと思った。
ユキカゼやオトラやクリ、亀や大将、弥彦がいる空間を描きたいと思ったし、描こうとした。

作品を弁明するなど作者のエゴの最たるもの。
それでも聞いて欲しかったのは、我が輩は誰かの物語を肯定したかったわけではない、価値を描いたわけではない、ということ。
アプリオリには意味や価値のない、人々が営んでいる空間を描きたかったのだ。
成功したかどうかはわからないが、それが試みだったのだ。

何かを肯定して、何かを否定したと思われるのは、あまりに試みと逆行しているため、辛く思い、弁明などという恥ずかしい真似をした。

物語のなかで描き、物語のなかで伝わるよう、今後とも精進していきたい。

決戦編に向けて

幻痛
朱き国
天空回廊
幽霊の森
青き墓
夜鳴く蝉
甘き夢

上記の七章構成で現状考えている。
改めて断るまでもないと思うが、これは青写真、いやそれ以前の叩き台であって、完成品とは異なる。断言してもいいが、我が輩の創作において当初のアイディアがそのまま完成品に成るということはない。
では何故そんな未熟なものを皆様の前に晒すかと言えば、晒すことで身が引き締まるからだ。我が輩の気持ちが盛り上がるからだ。
他人の視線は寒風。
懐で温めていたものを晒せば凍える。が、その寒さが甘えを締め出す。
他人様に晒すのだと思えば、「今一度見直そう」という気持ちが湧く。
面白そう、と思ってもらえるか。個人的な抒情に走り、他人を置き去っていないか。想像を助ける題名になっているだろうか。
この度に関しても、ブログにて晒すに際し、あれこれ悩み、変えたり、削ったりした。ノートに書き留めていた以前と比べると、随分きりっとしたと思う。
手前の懐で温め、甘やかしている内についた贅肉が、いくらか削れたと思う。
面構えが良くなった。
こうして格好が良くなると、こっちも嬉しくなってまたしばらくつき合える。
ペルソナという皆様の存在感を借りて、作品は磨かれる。
これから制作を進めていく「決戦編」。二転、三転するとは思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。

作者の飽き

実際、物語には飽きる。
物語、と言うよりは、アイディア。自分の頭の中身に、常々飽きが生じる。
飽きる、とはどういう状態か。
我が輩はエネルギーがない、活発ではない、変化の兆しがない状態だと考えている。
これをまとめて「形が悪い」と形容する。
「形からエネルギーを汲み取れなくなった」なんて言う。

アイディアとはつまるところ情報だろう。
情報は形が良いと、エネルギーが生まれる。
例えば疑問だったり、不満だったり、希望だったり、現状では「未解決」の状態なんてのはエネルギー状態としては形が良い。
未解決であれば不安定であり、不安定であればこそ、そこに「動き」つまり「エネルギー」が生じるからだ。
この解決を望むエネルギーによって、アイディアは生き生きと作者に働きかける。
他にも新情報が加わると、既存の情報と反応し、関係性を結び始め、ネットワークを築く。張り詰めていた湖面に石を投げ込んだ様に、しばらく波立ち、波紋によって震える。
これも「動き」があって、エネルギー状態としては高く、アイディアとしても活性的で飽きを感じにくい状態だ。

情報が疑問や不満を持っていて、未解決な状態である。
既存の情報と新情報が触れあい、反応し、変化の過程にある。
こういう「蠢いている」状態を我が輩は「形がいい」と言って、創作中はアイディアをこの形に保とうと努力する。
活性具合が落ちてきたな、アイディアとして落ち着いてきたな、と思ったら形を変えるように努力するのである。
その努力の一つが、上記した様に、他者の視線に晒すこと。他者という存在感をアイディアに投射すること。
自分だけで完結していた状態に、他者を招くこととで状態を変える。
落ち着き始めていた湖面に石を投げ、波立たせるのだ。

エネルギーとは形の過程において得られるものだと思う。
不安定は安定を望むが、安定すれば静まりかえり退屈する。飽きる。
かといって常に不安定でもいけない。
そもそも常に不安定という状態はあり得ない。矛盾している。
常にそうなら、それはもはや安定状態。混乱、無秩序という最大の安定、エネルギー0状態であることを「不安定」と勘違いしているだけだ。エネルギーが得られない不活性状態への不快感を、「不安定」と取り違えてはならない。
不安定が安定へと進む過程、蠢いている状態、動きの中にこそエネルギーはある。
つまり動いている途中のアイディアこそ、作者に創作活力を与えてくる良いアイディアと言えるだろう。
だから常に、アイディアを動かす努力をするのである。
良い形へ持っていこうとする。
ソリ遊びと同じだ。
ソリ遊びの本質は雪上を滑り落ちる快感にこそあるが、当人が努力することと言えば坂道をえっさほいさと上ること。
位置エネルギーを高めること。
自身を不安定な高所に運ぶこと。
快感を得られる形を整えることだ。

飽きは安定故の不活性状態。
努めるべきはエネルギーを得られる形へ持っていくこと。
こう考える様になってから、モチベ維持が多少楽になった。
楽になった、と言うよりは、手の打ちようが増えた。
「やる気がなくなったな」と感じたら、「よし、どこの形が悪いか見直そう」と切り替えられる様になった。
ソリが坂道を滑り終わったから、また高所まで上ろうという頭が働く様になった。
滑り終わった坂の底で「なんか滑りが悪くなったな」と思いながら、必死に足で掻き進むような浪費はしなくなった。

経験上、最も陥り易い不活性状態は「混乱」。
上記した様に、混乱は無秩序状態という最も安定した状態であり、そこからは一切のエネルギーは得られない。エネルギーは形の過程において得られるものであり、形とは関係性の状態を指す。混乱、無秩序においては関係性は成り立たない。

完全な「カオス」に至らなくとも、物語は混乱し易い。
何故なら物語を構成する各種要素、情報が大量かつ多様だから。
これらをまとめ構成するのは困難を極める。
加えて物語というものは、時間軸の中で構成を持つ。そのため三次元的存在である我々には把握し辛い。
喩えるなら巨大な地上絵を、地上に立ちながら眺めるようなもの。
足下に線が引いてあるけど、それが絵全体にとって何であるか分からない。
「それは鳥の足です」と説明され、理屈でわかっても、「その足は全体像とバランスがとれていますか? 大き過ぎることはありませんか? 小さすぎることは?」なんて聞かれてしまえば「足しか見えないからよくわからん」としか答えようがない。
物語は構成要素がメチャクチャ多い上に、時間軸の中に横たわっているため全体像が把握し辛い。
この二大要素が原因でとても「混乱」し易い。
この混乱が物語というアイディアそのものを不活性化させ、それを取り扱う作者からやる気を奪う。

この「物語の混乱」に最も適している対処法は、「物語の整理」。
各種要素を抜き出して関係性を整理したり、疑問や不明瞭なことを書きだして一つ一つ答えていく。
全体像を掴みやすくするために略図を書いたり、それぞれの次元に分けて考える工夫もする。
我が輩はこの「物語の整理」が得意なのだと思う。
整理する技術がいくらか人より長けている気がする。
いや、整理の重要性に気づいており、整理整頓への根気があると言うべきか。
人より整理に対して労力を使っている。リソースを割いているのだと思う。
この資質のおかげで、割に長い物語を完成させ、長い創作期間に耐えられていると思う。

集中力がない、根気がない、やる気がない。
これ等は「混乱」が原因で、必要とれるのは「整理技術」じゃなかろうかと近頃感じる。
整理の技術があれば物事の形を整え、エネルギーを得やすい、活性化状態に持っていくことが出来るのだから、整理は何事においても必須の技術ではないだろうか。
つきつめて考えれば、原子力なんてものも、核融合、核分裂という形の問題であり、つまりは形を整える整理の力、状態を把握する力によって司られているわけだ。

整理整頓しなさいよ。
子供の頃、耳にタコが出来るほど言われた。
技術や能力なんて大層なものには思えず、強いられればひたすら鬱陶しかった。
けれど、実は生きていく上で最大の効力発揮する技術なのかもしれない。

人生に混乱し、情熱を失わないためにも、整理整頓の技術は必要だろう。

次回二月一日は限定ブログにて、「決戦編」の舞台となる愛宕の様子を少々。