ハルカの国 創作の記 その34

夕時、子等が犬の散歩をしている。
柴犬の小さいので、恐らく、近頃もらわれて来たのだろう。子等が5、6人、群れるようにしてきゃあきゃあ言いながら子犬を連れて行く。
公園の水飲み場に立ち止まって、水を子犬に飲ませる。飲ませるのに、子等そらぞれが手鉢をつくってすくい、こぼれるのをなんとかかんとか子犬の口元に運ぶ。子犬もそれを飲む。
子等が手鉢をつくって並び、次々に子犬へ水を運ぶ様は大変愛らしい。
梅雨の狭間、夏の到来をいよいよ感じる一時だった。

進捗報告

未だシナリオ執筆中。五月末までに終わらせたかったが、完遂出来ずに終わる。
他にやるべきことが多く、ちょくちょくリズムが狂ったことが大きい。返礼品工作や、入院に関する保険申請、税金関係等、細々としたことがあった。
マルチタスクが苦手で、同時進行でスケジューリング出来ない。一つの作業をすると頭が切り替えられず、結局、一日その作業だけで終わるということが何度あった。
またシナリオも中腹を過ぎ、扱っている情報量が日増しに多くなって混乱したというのもある。
地頭の悪さなのか、自分が考えた情報群や記号に関して、その連続性や変化の流れを把握しきれなくなる事が多々あった。
これの何が弊害かというと、人物の情緒が追い切れず、人物の自然が失われる。こうなると人物の行動や台詞が思いつかなくなり、人物が動かなくなる。人物が動かないと物語が進まないので、そういう時は止まって、動きの悪い人物を最初から追いなおす。それで大体、「この流れならこうだろうな」という答えが出る。
序盤に提示された問題が最も広がりを見せる中盤から、カタルシスに向かって収束していく終盤にかけては注意を払わなければならない情報量が多く、寝ると人物の「自然」と思える感覚が失せてしまう。
それで毎回、最初から、あるいは切りの良い場所から追いなおすのだが、これで時間が食われた
現状、15万文字程度で三分の二と言ったところ。残り10万文字以下におさえ、星霜編くらいの長さにはおさめたい。

雑文

この度も雑文でお目汚し。
話の上手い人は間の取り方が上手い。
人間の脳の構造において、情報入力と情報構築は別のフェイズであり、情報をぶち込んだ瞬間、その情報を理解するわけではない。
例えるならジグソーパズル。千ピースのパズルを「ほい」と手渡されても、それが何の絵柄であるかはわからない。パズルをある程度組んでみて、ああディズニーね、とわかる。
情報もこれと同じで、それぞれの関係性をある程度構築しないと全体像が見えてこず、理解出来ない。
情報を理解するためには、与えられた情報を関係性に従い組み立てなければならないが、ここに人間の脳は時間を要する。間を必要とうする。
このために、話の上手い人は間の取り方が上手い、という説が成り立つ。
話が上手い人は自分が提供した情報量と、関係性の難度に配慮しながら、会話の中に間をつくる。その間に、聞き手は情報を組み立てる。故に話が理解出来て、理解出来た嬉しさでより対象からの情報取得に前向きになる。この態度がまた話の理解を深める。この状態が+の循環型環境を生み、楽しい、欲しい、理解できる、楽しい――を繰り返す。

話の間というのは何も黙ることばかりでなく、同じ情報を繰り返したり、同じ情報を別の表現で繰り返したりと、情報更新を停止することで成立する。
あるいは話す速度を遅くして、情報密度を和らげる。
だから喋り続けていながら、間を使うということは可能なのだ。
話が上手い人は相手の表情や声色を見分けながら、情報量とそれ等を組み立てる間をコントロールしている。

脳の九割九分九厘

何の本だったか、サヴァン症候群に関する本を昔読んだ。それとは別の本で原始人類の多くが仲間内に殺されているという話も読んだ。
それで合点したことには、人間の多くは生来的なパラノイアであり、その恐怖の克服のために脳機能の多くを使っているということ。
原始の頃。
人間は仲間うちでヘマをしたり、足を引っ張ったりと、仲間に恨まれることで殺されてきた。
そのために人間は本能として仲間に憎まれないよう振る舞う機能が備わっている。すなわち相手の表情を読み取ったり、集団のヒエラルキーを察知したり。所謂、空気を読むという能力だ。
この能力が現代人の脳においても大部分のメモリを食っているように思える。
逆に言えば、この能力が欠如している人間(サヴァン症候群)が他の分野で類い希な能力を発揮するのも頷ける話で、空気を読まないために脳のメモリに余裕があるのである。
これは意図して出来ることではなく、彼等は生来的に人間や仲間を危険視していないために、己の作業に集中出来る。
反対にほとんどの人間は生来的に人間パラノイアであり、身近な天敵である他者を恐怖する故に、いつも他者の攻略にメモリが割かれる。
あるいは他者に希望を持つあまりメモリが割かれる。希望も恐怖も期待という意味でくくればそれぞれのベクトルは消えて、絶対値として考えることが出来る。他人が恐ろしいのも、他人に期待することも、我々常人におけるパラノイア傾向だろう。
人類パラノイアである人類にとって、コミュニケーションの本質とは基本的に弁解と弁明、プレゼンにある。
情報伝達そのものよりも、有用な他者にとって自分が有用であることを誇示すること、あるいはコミュニティにとって自分は淘汰するには惜しい存在であると誇示することに本質がある。あるいは自分よりも淘汰すべき相手がいることの吹聴すること、ネガキャンにもコミュニケーションの本質はあると言えるだろう。
他者の不正、不能を他大勢と共有することは本能的に快楽であることがわかっており、それはそうすることで生き残るチャンスが増すためだ。
これを突き詰めると、「他人にどう思われるべきか」という自己像がパラノイアにはあり、その自己像の伝達と証明はあらゆるコミュニケーションにおいて根底に現れる。
我々パラノイアは敵(あるいは味方)にどう思われるべきかという計算を常に行いながら、コミュケーションを行う。
この際に行われる観察と膨大な計算によって脳のメモリは使用される。彼我の勢力図、お互いが属しているコミュニティにおけるそれぞれの位、信じられている道徳性(ゲームのレギュレーション)に照らし合わせた時の自己の正当性――これをリアルタイムで更新しながら、自分のポジションを確保し続けるのである。
我々が何故、三桁の掛け算をフラッシュ暗算出来ないかだとか、七桁の数字もまともに覚えられないかだとか、そもそも昨日の夕飯何食ったかさえ思い出せないのは、それらが敵ではないからだ。
人間を含む動物は敵に対し最大の敬意をはらい、脳の処理をそこへ向ける。結局、何を敵とみなすか。何が恐いか。それによって発揮される能力は異なるのだろう。
あまりにありふれているから目立たないが、恐らく、空気を読むという能力はとんでもない観察力が発揮され、そこから得られた情報を同時多発的に計算し、損得勘定でリアルタイムの言動をはじき出している、もの凄い能力のはず。
それを証拠に、「好かれたい」「嫌われたくない」と思う相手とのコミュニケーションは滅茶苦茶疲れる。
我が輩もご多分にもれずパラノイアで、この本能を野放しにておくと上記した観察と計算が勝手に行われ、人生を生きる消費カロリーが大きい。
であるから意図的に暗示をかける。
「無駄に好かれようとするな」
これでだいぶ生き易くなった。不思議なことにこういう態度をとるようになって以後のほうが、人に評価されることも多くなった。
恐らく、「無駄に好かれようとして」「無駄に疲れ」「疲れから対応が粗雑になる」という態度の変化がなくなかったからだと分析している。
パラノイア本能は本能のとして仕方ないので、そこに合わせたテクニックをそれぞれ開発すべきだろう。