ハルカの国 創作の記 その35

進捗報告

先月末にシナリオ初稿が完成し、現状、なおしとビジュアル設計を同時進行中。
この度のシナリオ、星霜編のように難しいと感じることは少なかったが、体力的にキツいと感じる場面が多かった。
不思議に思われるかもしれないが、それでも経験的に真であると言えることに、シナリオ執筆は内容によって疲労感が異なる。要求される体力が異なる。
食事シーンにおける会話のやり取りを1万文字書いても、そこまで疲労感はない。代わって、登場人物の思いがアクションとなって露出するシーンなどは3000文字書くだけでヘッロヘロになる。
決戦編はそんな場面が多く、エグゾースト。疲れ果てた。
とにかく動き続ける物語だった。止まることは許されない、落下しながら翼を求めるような、渦中で答え続ける物語。最善ではないかもしれない答えに、それでも一瞬一瞬手を伸ばしていく物語だった。
激流の中で錐揉みする人物に、毎度毎度心を重ねる疲労感。その凄まじいこと。
最後の方、キーボードに指を置くだけで腰から砕けそうな疲れを感じた。何とか書ききったが、体力の衰えを感じる執筆体験となった。
この度の体験を経て感じるのは、年齢によって書けるシナリオは変わるということ。延長して、年齢によって想像力は変わるということ。
想像は体力を必要とする。故に、体力が低下すると、想像の中身もエコなもの、疲れないものへ変わっていく。
ややもすると、疲労を嫌って安易に陥り、想像がチープになる。形にすることもない頭の中身まで〝安易〟になる。そんなこと起こるのかと思われるかもしれないが、起こる。我が輩には起こっている。想像すること、考えることさえ疲れるという内容が確かにあって、我が輩は年々、それを避けて通りたい気持ちが大きくなっている。
久しぶりの冒険活劇を書いてみて、「マジキッツ……」と完走後の疲労感に驚いた。
これゲームにするのか……とやや呆然とした。
想像しただけなのに、書いただけなのに、疲れ果てた。

疲れを自覚したからと言って、そこに留まり続けては危ない。疲れを大切にすれば、それを感じない様に生きてしまう。安易の道を選ぶようになる。
いつまでも想像をエネルギーに溢れ、瑞々しいものに保つにはどうすれば良いか。考えた末、肉体的体力の補強に行き着き、近頃前にも増して運動と健康管理に気をつけている。
想像の中のアクションに負けないだけの、想像しても疲れないだけのエネルギーを得ようと思う。脚の筋肉を強靱にたもち、心臓や肺を鍛え、生きることの疲労感に打ち勝とうと思う。決戦編の創作を乗り越えようと思う。

枯れた良さもあるだろう。わびさびという価値観もある。
しかしそれは怠惰の先に待つ疲労と倦怠の成れの果てではないはず。
枯れなければならない。あるものを絞り尽くし、勇んで枯れなければ。
英語圏では活力を指すスラングでジュースが使われる。彼はまだまだジュースで満ちている。彼はジュースを振り絞る。枯れないジュース。
きっと誰しもに水源があり、エネルギーが懇々と溢れている。しかしながら時と共に落ち葉やゴミがたまり、水源はつまり、エネルギーは濁り腐っていく。
いつまでもフレッシュなジュースを漲らせておくには、歳を経るにつれメンテナンスが必要だろう。
エネルギーを得たいという、意思が必要だろう。

期待する力の弱体化

上の話に続くが、期待する力が弱くなってきていると感じた。どんなエンタメコンテンツに触れても、「どうせ」とか「結局」とか枕詞を置いて、楽しむことを期待しないのだ。この頃。
思えばノベルゲームを遊ばなくなったのも、「どうせ」「結局」がノベルゲームへの意識に蔓延り始めたのが切っ掛けだった。
中学生の頃、とにかくノベルゲームが楽しみで、タイトルやパッケージビジュアルを見る度にどんな世界に連れて行ってもらえるのだろう、どんな美しいものが見えるのだろうとワクワクしていた。Airの発売前一週間など、何度Airが手元に届く夢を見たことか。とにかく、とんでもなく美しくて素晴らしい物語体験が待っているのだと、興奮をおさめることが出来なかった。雑誌を見ては、タイトルビジュアルの英語を翻訳しては、くらくらするような期待感に毎日毎日浸っていた。無茶苦茶、滅茶苦茶、期待していたのだ。
発売日、鳥の歌を聞いた時、もうすでに泣けた。物語だとかではなくて、己の期待感の高まりと、それに答えてくれそうな美しさとの衝突に、感極まってしまったのだ。
もちろん作品内容も素晴らしかったけれど、何にも増してあの「世界が変わる!」という凄まじい期待感と、その世界級の期待感を受け止めてくれるコンテンツとの出会い、その衝撃こそが最大値だったように思う。
期待感こそが、最高だったように思う。
それがいつからか、「良さそうだけど、どうせ良くない」「面白そうだけど、結局、ある程度」という期待を狩り取る思考回路に陥り、モグラ叩きさながら、ムクムク湧いてくるものを「期待するだけ無駄やで、意味ないで」とボコボコ叩き潰すようになってしまった。
それはいつからであり、何故だったか。
思い返してみると、やはり数々の裏切りが大きかったのではないかと分析する。
KeyやLeafが全盛の頃、泣き系というか、美しい自然を舞台にした感動巨編が流行っていて、なんでもかんでもそれっぽく見せるような節が一時期あった。
その手腕によって騙され尽くしたのが我が輩で、Air以前の名作をやり尽くした後に、第二のAirや第二のToHeartを探して、意気揚々と新作の海に乗り出したところ、情弱の初心者狩りにあい、金を巻き上げられたという苦い経験がある。
知っている者からすれば、「そのブランド地雷」だとか「そのライターやばい」とか回避することも出来たろうが、素直な我が輩少年はうたい文句を信じ切って、ノベルゲームというのはとにかく素晴らしいのだと信じ込んで、フルプライスで爆発物を掴まされ続け、被爆を続け、そこで得た経験により「どうせ」「結局」という期待を叩き潰すハンマーを握りしめていったのだと思う。
ノベルゲームは面白くない!
可愛さ余って憎さ百倍と言ったところか。あれだけ感動しまくった、恐らく人生最高の経験をさせてもらったジャンルに、一切の期待を抱かなくなってしまったのだから裏切られた経験というのは恐ろしい。
裏切られる、とはつまり一度は強く信じていたということ。
その落差の激しさに、我が輩少年の期待する心、少なくともノベルゲームに対する思いは完膚なきまでに叩き潰されたのだった。
ノベルゲームに関しては上記の通りだが、考えてみるとどのジャンルに対しても、我が輩は同じ経緯を通っている気がする。
初めての体験に感動し、その感動を追い求めてジャンルに飛び込み、数多の劣化品を浴びて退却する。その繰り返しだったような気がする。
漫画も、映画も、小説も、アニメもはまってから一気に過去の名作を漁り、漁り尽くしてから新作の探検に向かい、その玉石混淆の世界――と言うより砂漠の中より一粒の金を探り当てるような作業に嫌気がさし、撤退する。その過程で「どうせ」「結局」という期待ぶっ潰しハンマーへの信頼感を高めていく。その繰り返し。
そうして裏切られた被害者意識を募らせ、拗らせ、期待という心の動きそのものに信頼感をなくしていったのが我が輩の歴史ではなかったろうか。
その歴史の堆積こそ、今の我が輩ではなかろうか。
そう思い、怖気がした。
我が輩は世界に対する期待を破棄しようとしているのかもしれない!
これは恐ろしいことだ。何より生きていてつまらなさそうだ。と言うわけで期待する力を取り戻すべく、近頃「どうせ」「結局」という期待ぶっ潰しハンマーの登場を「いやいや!」と止めて、「やってみようよ」と己を諭すことにしている。
全力で期待してみている。裏切られた後の保険は考えず、ただひたすらに期待出来た自分を「素晴らしい!」「お前の心はなんて瑞々しいんだ!」と絶賛するようにしている。
世界がどうであろうが関係ない。我が輩が期待してさえいればいい。
何故なら真に恐ろしいのは、世界に素晴らしいものがあるにも関わらず、我が輩が期待する力を失ったためにそれを得られないかもしれない可能性だ。
世界は面白いのに、我が輩一人がつまらない可能性。
これは本当に恐い。
だからいつか素晴らしい物と出会う準備として、とにかく期待してみることを心掛けている。期待し、その期待が叶わないとがっくりくるが、それを「期待出来た自分を評価する」ことで乗り越えようとしている。
生きることは期待しない方が楽だが、期待しなければ本物は味わえまい。本物の半分は己自身なのだから。
自ら信じて期待して探さなければならない。きっとその過程を含めて出会うものが本物になるのだろう。
実際、期待しよう、という考えに至って「Outer Wilds」にも出会えた。前から知っていたが「どうせ俺はゲームが下手だから楽しめない」と拒否ってたのを、「よいしょお!」と重い腰を上げて購入、Playしたら久しぶりにドはまりした。「SFってこんなに美しいんだ……」と新たな好奇心が芽生えた。
期待して動いてみるのはやはり素晴らしいことだなあ、と感じつつ、一層感心することは裏切られても期待し続けている人々のこと。
我が輩と同じ様にノベルゲームにはまり、ノベルゲームを信頼し、そこから数多の裏切りにあいながらもそれでも「何か」を探し続けている人々の強さよ。
我が輩のように期待をたたみ仕舞ってしまった輩とは違う、真のトレジャーハンターと言えよう。
人生に期待し続ける人々。
彼等の力強さに畏敬を感じつつ、そんな彼等に「見つけた!」と思ってもらえるようなものを作っていきたいと改めて感じた。

我が輩の心よ、想像力よ、期待よ。
易きに流れるな。試みろ!