ハルカの国 創作の記 その63

新年挨拶

あけましておめでとうございます。

これほど年が改まった感触のない新年も珍しい。2023年の延長のまま越年し今に至る。大掃除もせず、去年の垢と仕事を着込んだまま2024年に流れ込んでしまった。感触としては2023年のアディショナルタイム。未だ終わらない2023年を我輩は生きている。
2024年、新たなことを始めるつもりはない。2023年から続けているものをきっちり終わらせる。そこでようやく節目となろう。我輩として一つ改まり、次の段階に進むことも出来る。
春頃にはいくつか告知もあるはず。素材が揃いつつある「みすずの国」リメイクに関しても、桜の咲く頃に語りたい。
今はとにかく「Have to」が多すぎて、「Want to」まで手が回らない。
節目なく作業を続けるのは本当に疲れる。体力、気力をどこかで養いたいものだ。
温かくなればチャリをこいで近所の銭湯に出向き、湯上りにレストランでビールでも飲むかな。
何か小さな楽しみを見つけては小さく喜んで、2024年も生き残りたいと思う。

進捗

ネーム 約800枚(先月+100)
シナリオ 約245000文字(先月+30000)

正直に告白すると先には進んでいない。以前書いていたところを書き直していた。
水俣旅行を切っ掛けに迫力を追求したいという思いが募り、シーンや台詞の強化を図った。
日本列島改造論をはじめ資料をあたりなおし、1940~1960年代を掴もうと試みた。その時代区分の中で、天狗の国とは何なのかを考えた。
その上でそれらを見つめる目、ユキカゼの目とは何なのかを再定義した。
皆様と一緒に歩いてきたユキカゼの目には、もはや一つの方向性が宿ってしまった。見えるものを見たまま、鮮明に瑞々しくとらえる目ではない。その目は生きてきた歴史に濁っている。記憶に歪んでいる。その濁りと歪みは、百年という道のりを歩いてきた彼女の思想とも言えるもの。それが「恐怖を終えた目」であり「祝福の視座」だ。
視線は客体を明らかにするばかりでなく、見ている主体をもつまびらかにしていく「行い」だと思う。
「GeoGuessr」も「見る」ことで「自分の居場所」を発見するゲーム。人は見ることで自己の存在を発見していく。見たものによって主体が明らかにされていくなら、見て来たものという歴史の集積こそ主体のリアリティと言えるだろう。リアリティとは視座にむした苔のようなもの。それを我輩は思想とも呼んでいる。
ハルカの国、最後の物語。それを見守る視点には思想が宿る。それ故に、読者の皆様との同期性を損なうだろう。けれども、これまでユキカゼと共に歩んできてくれた皆様なら、きっとそこへ行きついたユキカゼを許してくれると思う。他者としてのユキカゼを存在させてくれる気がしている。
読者でもない、主人公でもない、他者として視点であるユキカゼ。とうとう百年歩いてきた人となる誰か。
もちろん、彼女は我輩でもない。
そういう他人の「見る」によって描かれる物語が昭和編になる。
思想と言って、ユキカゼが多くを語るわけではない。むしろユキカゼは静かだ。若かりし頃、意地と見栄で燃え盛り、感じやすく濡れていた彼女の心は今や静まっている。
感情ではなく歴史、つまり思想を通して見える風景は静かなのだ。静かに、まっすぐ見つけ尽くす。それがユキカゼに訪れた最後の季節、「恐怖が終わった時代」であり「祝福」における戦いなのだ。
春秋編の難しさであり面白さは、この「祝福」という視座に尽きる。我輩はユキカゼではない。だから彼女の結末を描くのがとても難しい。けれどこれほど長く思い考えた人物は他にいない。ハルカの国として、彼女の「見る」を締めくくる、その最中に今はいるのだと思う。