ハルカの国 創作の記その21

進捗報告

先に進捗報告。
折り返し地点にきている。物語も佳境。ここから体力のいるシーンが続く。
体調を整え、モチベーション管理に注意を払いながら進めていきたい。

五月はよく頑張れた。
六月の頭、演出に納得出来ない場所があり、そこで予定の三倍時間を取られた。
全体が仕上げるまでは仮組みなので、ある程度のところで切り上げ、先へと進んでいく必要がある。しかしながら、「ある程度」は仕上げないと、大きくモチベーションが削がれる。
我が輩、完璧主義ではない。むしろ六割男児。
ただ六割に達成しないと、我慢ならない。
ベストやベターを目指すエネルギーは乏しいが、「これ以下は許せない」という思いは凄まじい。自分でも手を焼く。
効率を考えれば悪手だとわかっていても、我慢出来ない。

作品を発表する度に、己への要求は増す。最低ラインはせり上がってくる。少なくとも過去作以上でなければ発表に値するとは思えない。
自分の要求に技術が追いつかず疲れる。
もっと早く絵を描ける様になりたい。線を一発で決めたい。雑なラフから線画を引きたい。色彩、明度の解決を瞬時に下したい。集中力を向上させ、物語全体に対する意識を常に持っていたい。全体に対する部分の効果を、部分の再読だけで感じ取りたい。問題への理解、解決をより素早く、的確にこなしたい。
物語への体感力、身体で感じ、感じた物を分析する能力を伸ばしたい。
情報の構成力を磨きたい。
日々、創作の中であらゆる欲求が湧き起こる。
これらの望みを放置すると無能感に襲われストレスとなるので、一つ一つ方法を模索し、改善している〝感じ〟を与えてやる必要がある。
己のご機嫌取りにも骨が折れる。

我が輩のこだわりとは最低ラインへのこだわりであり、我が輩の向上とは最低ラインの上方修正にあたる。
我が輩の作品はこの最低ラインに支えられているのだが、これの維持管理には大変な労力を要する。
しかしまぁ。
人間、誰しもが「最低限の自分」の維持に、日々疲れ果てているだろうとは思う。Twitterなど見ていても、そのようだ。
お疲れ様でございます。

ハルカの国、星霜編発表が落ち着いたら、旅行がしたいものだなぁ!

モチベーションの高い人は存在しない

最近の思考体験を、挑発的なタイトルの下、綴ってみたい。
毎度の如く、これは思考の遊びである。
モチベーションという、言わば人間の動力源について、一般的なモデルとは観点の異なるモデルを示してみたいのだ。
多少無理やりにでも観点を変えることで、普段とは違う風景が見えるかもしれない。普段の風景をメタ的に捉えられるかもしれない。
そうした景色の入れ替えが、「モチベーション保てねぇわ」という方のお役に立つようであれば幸いと思い記す。

志村けんの力

モラル的にどうなのかと迷ったが、正直な体験談を話したい。先に断っておくが、故人の名誉を傷つけるつもりは毛頭ない。
これは志村けんという、世代を超えて愛されたビックネームの死去の下で起こった、特殊な体験と我輩の実験観察の結果である。
志村けんが、我輩と、我輩の祖母、この隔てられた世代にさえ「超有名人」として捉えられていればこそ、起こった現象なのだ。
故人のネームバリューがなければ、我輩の思考体験は成り立たなかった。
そこに何よりの敬意を表する。

「志村けんが入院した」と聞かされたのは、祖母からだった。
それから数日後の昼。
作業の終えてスマフォのニュースを見ると、「志村けん死去」の文字が目に飛び込んだ。
方々、ニュースサイトを探ってみると、続々と速報が更新される。フェイクではない。どうやら確定のようだ。
我輩はスマフォを握り、階下へ急いだ。胸の中にあったのは、とにかく、「祖母に知らせなければ」という一念。それのみ。悲しさも、驚きも、何もなかった。
階段を駆け下りながら祖母を呼んだ。
呼んだ時、ふと疑問に思ったのだ。
我輩の心中にあるこれはなんだ?

強烈なエネルギーとして我輩を突き動かしているこれは何だろうか。
上にも記したように、それは悲しみでも驚きでもなかった。もっと言えば感情でもなかった。
更に言えば、我輩のものでもない気がした。
何かがいる。
我輩はこの心中で蠢く動力源に疑心を抱いた。
それは感情ではなかったが、確かにエネルギーを持っていた。我輩の内部で動いているのを我輩は感じた。
そこで一つ、実験を試みる。
時計を見ると長針が2を指している。
よし、半まで、志村けんのことは祖母に黙っておこう。今から二十分間、ここで待機して、この「蠢く何か」を観察してみよう。
そう決めて、階段の踊り場に腰を下ろした。

観察を始めると、やはり「蠢き」は感情ではなかった。祖母へと向かおうとするエネルギー、意思のように思えた。
その意思は我輩のものと言うより、「志村けん死去」という情報そのものがもつように感じられた。情報に手足が生え、それがムカデのように、我輩の肺あたりで出口を探し藻掻き回っているように感じられた。
待機は苦しかった。
何度か大きな力が襲ってきた。それもやはり我輩自身の感情ではなく、情報のムカデがあらん限りの力で我輩の肋骨に激突を食らわせているような感覚だった。
驚いてしまうようなエネルギーがそこにはあった。
その時。
祖母が階段の前を通った。
「呼んだ?」と我輩を見上げた。
我輩は祖母の顔を見た。時計を見た。まだ五分も経っていなかった。我輩は「いや」と志村けんの情報伝達を避けようとした。意思の力で口を噤んだ。
両腕に鳥肌がたった。
脳が粟立つ、とでも言うのか。身体がしびれ、頭の内側がかきむしられた。
物凄いエネルギーが、行き場もなく我輩の体内で爆発したのがわかった。
我輩は耐えきれず、志村けんの死去を祖母に伝えた。祖母は「ええ!」と目を見開き、口元を覆った。
瞬間、体内に溜まっていた圧力が一気に抜け去り、その抜け去って晴れ晴れしていく過程で我輩は強い快を得ていた。

進化圧による情報拡散欲求

我々人間には、情報の不均衡状態を嫌う性質がある。
自分が知っていて、目の前の相手が知らない。かつ、その情報が相手から大きなリアクションを引き出せる場合、情報不均衡の緊張を味わい、これはそのまま耐えがたいストレスにかわる。
例えば殺人を犯し、目の前に犯人を捜す探偵がいたとする。
この状況に犯人は強烈な情報不均衡の緊張を味わい、自白したい圧力に晒される。
ドフトエフスキーの「罪と罰」においても、主人公は再三にわたりこの情報不均衡の緊張、情報拡散の圧力に苦しむ。
これは人間の進化過程において、情報を公開する欲求が本能的に備え付けられているためだ。

進化過程において、ある行動が生存に有利に働く場合、その行動結果は快楽と結びつく。
人間は快楽という報酬を得るため、進んでその行動をとるようになる。
これを進化圧と呼ぶ。
進化の圧力によって、人間は半強制的に従事させられる行動パターンがあるということだ。
情報の不均衡を嫌い、情報の拡散の欲求に駆られるのも、この進化圧による。

ジャングルのモンキーだった頃に戻って考えてみよう。
近親集団内において、一人が有益な新情報を得た場合、それを集団で共有した方が近親集団の生き残りには有利に働く。
わかりやすい例をあげて、天敵のジャガーが正午近くには昼寝をしていて、その時間ならバナナの楽園へノーリスクで通えるという情報を一匹のモンキーが得たとする。
これを独り占めして自分だけが有利行動を繰り返し、生き残り、餌場を独り占めし、子孫を残すことに成功することも出来る。
しかし情報を仲間と共有して、仲間の生存確率を上げた方が、遺伝子的には成功を納めやすい。
猿田というモンキー家族がいて、猿田モン吉一匹が生き残ってリソースを独り占めし生存戦争を戦っていくよりも、家族みんなでリソースを分け合い戦っていく方が、猿田家の血は残りやすい。
リソースを独り占めした方がモン吉個体で見るなら生き残りやすくても、家という血筋でみるなら仲間と有益なリソース(情報、餌、配偶者)を分け合った方が有利なのである。
血筋で考えるなら、モン吉は死んでもいい。他の家族が一匹でも生き残り子孫を残せれば、独り占めした場合のモン吉と同じだけの結果を残せる。
未開のジャングルにおいては一個体にリソースぶっぱよりも、施工回数、残機の方がものを言うのだ。
遺伝子は近親個体の中に近似として存在するため、家筋として残っていく。このため、家筋、つまり近親集団の利益を優先する遺伝子が生存戦争の中では生き残りやすく、その過程において「仲間と情報を共有する」行動が本能的な快楽と結びついていく。
結果、「情報の不均衡」は「快楽を得られる状態の一歩手前」「お預け」となり、ストレスとなる。

情報の拡散圧はむやみやたらには働かない。
いくつかの条件がある。
一つには相手が親しい相手であること。相手のことをよく知っていて、相手のリアクションをありありと思い描けること。
もう一つには、情報の伝達によって強いリアクションを期待できる相手であるということ。
恐らく、このリアクション、相手の表情変化が、「情報伝達達成」トリガーとなっており、快を得る成功体験として働く。
上記した我輩の体験、相手が祖母であったこと、祖母が志村けんをよく知っていたということ、志村けんの入院にとても驚いていたということ、つまり「志村けん死去」の情報に大きな大きなリアクションをとってくれる予測がたっていたということ、これらの条件がそろったために、我輩の中に情報拡散の圧力が生まれたと推測出来る。
まとめると以下のように言えるだろう。
人間には、親しい相手に、リアクションを期待できるような情報を広めたくなる本能がある。

こんなこと、改まって説明するまでもなく、まとめるまでもなく、SNSの興隆を思えば簡単に予測がつくわい――と不満に思われただろうか?
我が輩が展開していきたい理論、思考のお遊びは、以下からが本題になる。

アルゴリズム場における情報の動き

親しい相手に、リアクションを期待できるような情報を広めたくなる欲求が、人間にはある。
これを情報という観点から考えてみよう。

本来、無生物どころか存在も持ち得ない情報。
もちろん、自らの意思も持っていないし、我が輩が上記で感じた胸の内を掻きむしるような足も、エネルギーも持ち合わせていない。
しかしどうだろうか。
人間の本能――アルゴリズムを考慮した場合、情報は擬似的に「生きているように振る舞う」のではないか。
つまり人間を重力場のような場として考えた時、情報はその場の性質によって位置エネルギー的な動力を得るのではないか。

月は生きてはいないが、地球の重力場によって動く。
情報もまた、生きてはいないが、人間のアルゴリズム場によって「繁殖可能な相手」に伝わろうと動く。上記で記したように、情報はリアクションを引き出せる相手に伝わろうとする。つまりその情報を受け取り、再度、拡散圧によって広めようとする母体にむかって進もうとする。我が輩の中から、祖母の中へと動こうとしたように。(祖母は当然、「志村けん」の情報を他の家族にふれ回った)
この「情報の動き」の観点から見ると、拡散エネルギーは情報の方が持っているように〝見える〟。
丁度、つり上げられた鉄鋼材を見上げた時、そこに大きな位置エネルギーが存在していると感じるように。
しかし実態は、地球の生んだ重力場によって鉄鋼材が引きつけられている〝状態〟の位置エネルギーが大きいのであって、鉄鋼材という〝存在〟が位置エネルギーを秘めているわけではない。
だがしかし、我が輩達は物事を存在として扱うことを好むので、位置エネルギーの所属を宙づりになっている鉄鋼材に求める。

力場と、力場のなかで動くもの。
この二つがある場合、生じたエネルギーの所属は動くものに求める。
これが我が輩たち人間の肌感覚にはあった捉え方だ。
宙づりになっている鉄鋼材を見上げて「危ないな」と感じれば、鉄鋼材の扱い方に注意を払う。
ならば情報の拡散欲求というエネルギーもまた、人間というアルゴリズム場に所属を求めるのではなく、情報にこそ所属を求めてみてはどうか。
その上で、場と、場の中でエネルギーを持つ情報という分け方で、人間の情動(拡散欲求など)を考えていくのはどうか。
この捉え方の方が、我々に親しいのではなかろうか。

モチベーションが生じるアルゴリズム場

上記の話をモチベーションに繋げていこう。
今回は「作品制作におけるモチベーション」に限らせてもらいたい。
創作のモチベーションとは何だろうか?
創作のエネルギーは何処からくるのだろうか。
作者のやる気次第?
そう考えては今回の話に沿わない。
だからこう考える。
創作のモチベーション、エネルギーは、作品自体が持っている。
モチベーションが高い作者がいる、のではなく。
モチベーションが高い作品がある、のだ。
つまりモチベーションの高低を作者の問題ではなく作品の問題として捉え、モチベーションが低いのなら作品の方に注意を払って状況を改善していく。
どうしたらやる気が出るか、と考えるのではなく。
どんな作品にやる気があるのか、と考える。
どんな作品が発表されたがっているのか、どんな作品が世に出たがっているのか。
場においてエネルギーの高い作品を見つけだし、そのエネルギーを利用して創作をする。
こう考えるなら、目的達成のための思考は以下の様にまとまる。

どんな作品(情報)が、自分のアルゴリズム場においてエネルギーを得るのか。
自分のアルゴリズム場の性質とはどんなものか。

自分というアルゴリズム場への理解

重力場においては質量の大きいものこそ位置エネルギーを得る。
ではアルゴリズム場において、どんな作品がエネルギーをより多く得るだろうか?
作品のどんな性質がエネルギーを生むのか。
これはアルゴリズム場が何によって出来ているかを考えればわかる。アルゴリズム場は進化圧の欲求によって出来ている。
情報の拡散が、進化圧による欲求であることは上記した通り。
つまり「親しい人から特大のリアクションが得られそうな作品」というものは、アルゴリズム場において大きなエネルギーを得ている、と言うことになる。
これはモチベーションの高い作品と見なせる一つの形だ。

アルゴリズム場を支配するのは、情報の拡散欲求ばかりではない。
人間のあらゆる欲求がアルゴリズム場を支配する。
今回は創作モチベーションに大きく関わる欲求のみを取り扱っていく。
創作モチベーションに強く影響するのは、性欲や食欲といった肉体的欲求よりも、承認欲求や自己拡大欲求、といった社会的欲求だと思われる。
承認欲求や自己拡大欲求も、遡上していけば生存への有利から発展してきた欲求なのだが、ここの説明はいちいちしない。興味がある方はリチャードドーキンスの著作など読んでみると面白いだろう。
ただ一つ言及しておきたいのは、社会的欲求は経験的に形作られていく後天性のものであり、個体差があるということ。
つまりモチベーションを発生させるアルゴリズム場には、個人差があり、自分のアルゴリズム場の性質を突き止めることが、エネルギーの高い作品を見つけるのに役立つ。

我が輩でいえば、恐らく我が輩のアルゴリズム場は「相手のリアクションを得られる情報」の拡散圧が異様に高い。
この拡散圧はSNS等でもそれなりに力を発揮するが、リアルな人間関係、友人や家族に対してもの凄く強く働く。友人や家族だけでなく、どういう形でもいいから顔を思い浮かべられる相手を想定した時、威力を発揮する。
誰かを思い浮かべた時、笑わせたい、感動させたい、喜ばせたい、という思いが胸のなかでざわつく。
これは我が輩の家族構成に依るところが大きい。我が輩は長男であり、かつ初孫だった。
このため父方、母方の祖父母まで含めて、幼少期の我が輩の行動にリアクションを取りまくってくれたのだ。(そういう記憶があるわけではないが、きっとそうだったろうと推測する)
自分の一挙一動が、相手を笑わせる、喜ばせる。
SNSで言うなら「俺、絵あげる度にバズるわwww」みたいな状態。
こんな状態で育てば、自分には相手を夢中にさせる力があると思い込み、その力を発揮することを最大の快楽と感ずるようになるのも仕方ないだろう。(上記したように、他者のリアクションは情報拡散達成のトリガーとなっており、快楽をもたらす)
つまり我が輩は幼少期に家族内で起こった事が、大人になって社会でも再現されると信じているわけだ。(自覚的にそうだと言うのではなく、そう分析出来るということ)
これはまた別の話になるが、家族は社会の中で再生産されるという理論が社会学にはある。この観点から言っても、家族の中で学んだ快楽の取得方法を、社会に対し再適合させんと試みるのも頷ける話だ。

この分析から、我が輩のアルゴリスム場においては、「他者から特大のリアクションを得られる作品」こそ最もエネルギーの高い作品であり、そのエネルギーを利用して創作を行うことが、もっとも効率良いと言える。

我が輩はよく作品を発表した際にどんなリアクションが得られるだとうかと妄想する。かなり事細かに、はっきり言ってキモいほど細かく細かく妄想する。この時、相手の表情やボディランゲージを妄想すると、本当に力が湧く。(即売会のやり取りなどよく思い出すものだ)
アイディア段階にある作品を発展させていくのも、「相手にどんな反応をして欲しいか」と考える。シナリオを読み返す時も、「ここでこう感じて、この感情が次の台詞で高められて、その高まりに合わせてBGMがスタートして」と読者のリアクションの流れを考える。
また陳腐や古い表現を嫌い、斬新さを求めるのも、人間が新刺激に対し大きなリアクションを取ることを知っているためだ。
つまり我が輩自身が「斬新なものが好き」と言うよりも、「皆が斬新なものが好きだから好き」なのだ。まぁ他人の評価を置いておいても、新しい表現は好きだけれども。
他人と同じことを絶対したくない、既存の表現だとやる気が出ないのも、他人と同じことをしていても目立てないからだろう。一番大きくて、特別なリアクションを、他と同じ方法では得られないと考えるからだろう。

アルゴリズム場への理解を深めることが、その場におけるエネルギーの生じ方、どんな情報がエネルギーを得るのかを理解することに繋がり、「やる気のある作品」「モチベーションの高い作品」を見つける指針を我々に与えてくれる。

ちなみに。
このブログに関しては他者のリアクションを求めた「拡散欲求」は働かず、「自分の考えをまとめる機会」「思考を他者に伝える練習」としての自己能力向上欲求、自己拡大欲求としてしかモチベーションは得られない。
理由はブログ内容に他者のリアクションを想像していないからだ。
ブログ内容まで作品として考えると、ブログが息抜きにならない。

偏にアルゴリズム場を理解すると言っても、それぞれの行動に合わせてアルゴリズム場の性質を使い分けていくのも大切な技術のようだ。

場としての自己、やる気を帯びる作品。
このモデルで見直すと、「モチベーションが保てない」「モチベーションが低い」という悩み解決の糸口が見つかる――かもしれない。
所詮、思考のお遊び。
金のかかることでなし。
暇であれば、一度お試しあれ。

物語の所存

上記の続きのような話。

物語は何処にあるのだろうか?
シナリオが物語だろうか? それとも読者の感情が物語なのだろうか。
考え続けた末、最近の答えとして、「物語はダンスなのだ」と感じるに至った。

物語という情報パッケージが、人間というアルゴリズム場において振る舞う動き。アクション――ダンスこそ、物語。
提示された情報が、アルゴリズム場においてエネルギーを得る。エネルギーにはベクトルがある。そのエネルギーの流れを、オーケストレーションしていくことこそシナリオ技術であり、そうして出来上がった一連のダンス(アクション)こそ、物語なのだと。
物語は、エネルギーの流れなのだと。
物語という存在があるのではなく、物語という一連の状態があるのだと。

このエネルギーの発生原理と、エネルギーの扱い方を学ぶことが、物語技術の向上へ繋がると最近は確信している。(我が輩の確信は三ヶ月に一度くらいひっくり返るのでまともに相手しないように)

人間というアルゴリズム場への理解。
アルゴリズム場を形成する環境、文化、時代への理解。
アルゴリズム場においてどんな情報がエネルギーを得やすいのか。またそのエネルギーはどんなベクトルを持つのか。
どんな風に扱うことが出来るのか。

これら人間研究を進めていかなければならない。

「エネルギーの流れ」を扱うのに非常に優れた分野として、音楽がある。
音楽も音によるエネルギーの描写と考えれば、そこの技術を物語に転用し易い。
和音、和声、という考え方は、物語のシーンの作り方、シーンの繋げ方に大きく貢献してくれた。

絵画技法、色と構図に関しても、エネルギーの扱い方として捉えられそうな一面がある。
隣接しあう色や、ぶつかる形のそれぞれが、人間の場においてエネルギーを生じる様なのだ。

物理学などまさに状態とエネルギーを扱う分野なのだろうが、なにせ専門知識がないので一般向けの書を囓るくらいしか出来ない。それでも量子の性質である「相関性」は人物描写の真髄ではないかと感じた。
量子は他のものと関係を持つ時にだけ、状態が定まる。(存在的に扱える)
人物もまた他者との関係の総体でしか、他者との摩擦でしか存在感を発揮できない。人物という存在自体を描写しても味気なく、関係性という状態を描写してこそ面白い。
面白いと思うのは、人間のアルゴリズム場において、方向性を持ったエネルギーが生じているということだ。
恋愛やバトルが面白いのは、これらを描こうとすると必然的に関係性を描くことになるからだろう。エネルギーが生まれ、それがある方向に向かって進もうとするからだろう。それが物語進行の動力源になるからだろう。
恋も喧嘩も、一人では出来ないものだ。孤独では存在出来ないものだ。

状態の描写と、そこから生ずるエネルギーの取り扱い。
こういう観点で物語を捉える。
こういう考えに至る以前から、我輩は「存在」を描く作品は駄作が多く、「状態」を描く作品に名作が多いと感じてきた。前者は「視野が狭い」という理由で魅力的ではなかったのだ。
思うに、人物、キャラクターというのは、環境における観測地点、観測座標を示し、そこから見える状態を描くことが優れた描写になるのだろう。
人物、キャラクターという存在そのものに集中してしまうことは、顕微鏡や双眼鏡をじっと睨んでいるようなもの。顕微鏡、双眼鏡の本質は、それらを用いて世界を覗き見て、見えてくる風景にこそある。

エネルギーの取り扱い、という観点からみると、あらゆる技術が物語技術として転用出来るのではないか。
最近はそんなことを考え、色々読んだり、理屈をまとめたりしている。
これら試行錯誤から得た技術も、いつかはまとめてブログで発表したい。
その頃もまだ今と同じ考えであればだけど。
熱しやすく冷めやすい性格なので、自分の思考にもちょくちょく飽きるのでやんす。

追記
読み直してみると、人間のことをアルゴリズム場と呼んでしまうのは、唯物論を信奉するナチュラリストの様に思える。
断っておくと、我が輩は「人間」や「心」というものを脳波だとか脳内伝達物質等に全て還元出来るとは考えない。
我が輩は「心」というものを存在ではなく、状態だと捉える。
ホモサピエンスという肉体がその構造によってアルゴリズム場を生み、その場にて知覚された情報が振る舞う。
この振る舞い、動きこそ我々が「心」だとか「自意識」と知覚するものではないだろうか。
言ってみれば「心」とはダンスであり、ダンサーではない。ダンスを踊るのはダンサーだが、ダンサーを解剖したところでダンスという存在が見つかるわけではない。
我が輩たちが我が輩たちと思っているものは、場と情報による振る舞いであって、存在ではない。
そもそも「存在」というものが人間的な解像度で世界を捉えるテクニックであって、つまり人間にとって価値を生む差異だけによって区分された再現性のある記号用法であって、人間的感覚に先立って存在というものは存在しない。(これは我が輩のアイディアではなく本にそう書いてあった。納得いくものがあったから現状、採用している)
「存在」と「状態」の取り違え、ダンサーとダンスの混同がナチュラリストとそこを牽制する新実存主義なんかの話をややこしくしていると感じる。
何が言いたいかと言えば、我が輩は「人間に心なんてない」と思っているわけではなく、心は観測されるし感知されるけれど存在はしないと思っているということ。
全ての事象を物質に還元出来るとは考えていないということ。
心とは、一瞬、一瞬の、かけがえなのない(再現性のない)、特別な状態(ダンス)であると思っているということ。
何故、わざわざことわるかと言えば、「心」に対するスタンスを誤解されると、物語まで誤解されるのではないかと恐れたためだ。
我が輩は「心」というものを我が輩なりの解釈で信じているし、何より、「心」というものを信じている人間という営みに大きな興味を持っている。

ブログで何か書くと、書いたことが作品解釈に悪影響を及ぼさないか、最近気になって仕方ない。
ブログのことは話半分に聞いて頂ければ、有り難い。

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