北国の桜

どこを開いてもため息がでるようなニュースばかりの昨今。
気持ちが塞ぎ、心が瑞々しさを失っているような時には、「みすずの国」など如何でしょうか。逆境に挑むタヌキに似た少女の物語になっておりますので、心を明るくする弾みになるかと思います。

物語に励まされて

何か明るい話をしようとあれこれ思案してみたけれど、よくよく考えてみれば物語がそれで。
思い返せば、2011年の東北大震災。
あんまり辛くて慰めるつもりで書いたのが、「みすずの国」なのだった。
慰めるといってその対象は己で、とにかく元気になりたい一心で美鈴の物語を綴ったのだ。
当初は美鈴が困難を飛び越える、今より明るい終わりだった。
明るい気持ちになりたいのだから、明るい話がいい。自分のためにも、もしかしたら読んでくれるかもしれない誰かのためにも、それが最良だとその時は思っていた。
が、後に、我が輩個人に大変ショックなことが起こる。
進んでいた出版の話が取り止めとなり、白紙に戻ってしまったのだ。

今ならそんなこと珍しくもないと理解出来るが、当時は信じられなくて、と言うより「本が出る!」と家族にも友達にもふれ回った後だったから恥ずかしくて恥ずかしくて。
「改善してよりよい物にしましょう!」とポジティブに担当へ掛け合ってみたが、「改善と言うよりこの物語自体が駄目みたいで」と根元からなぎ倒されてしまったことに、ショックでぶっ倒れてしまったのだ。
「何が駄目だったんですか? 今後の参考に教えてください」「この度の失敗を生かしたいと思います!」と満身創痍で強がったが、かけられた言葉は「Kazukiさんは運が悪かったです」と言われてまた倒れた。
初めて他人に「運が悪い」と言われ、ショックだった。
運が悪いって、俺はどうすりゃええねん。茫然自失。
この言葉は今でも呪いのように我が輩を蝕む。
「俺は運が悪い」「普通の人が簡単に出来ることが、俺には出来ない」と思い込みたくないが、思い込んでしまい、長く引きずったもの。
それでも「運が悪いってだけで泣かされてたまるか」と小説からノベゲーに移り、そのお披露目一作目として作ったのが今の「みすずの国」。
最後、飛び越えていた美鈴を、壁にぶち当てて転がしたのは、置いて行かれたくなかったから。
美鈴が飛び越えてしまったら、俺が救われん。挑んで、ぶつかって、跳ね返されたその場所で生きてみて欲しい。
運の悪い手本を見せてくれ、美鈴……!
という思いで作ったから、「みすずの国」は短編だけど思い入れがある。繰り返しプレイしたのも「みすずの国」だ。落ち込む度、「北国の桜は北風に向いて咲くんや……!」と独り浪花節で心を熱くたもの。

自前の物語に助けられて

みすずの国、キリンの国発表後。
当時、我が輩は新たな仕事に就いたばかりで、不慣れのため叱られてばかりいた。
自尊心だけは高かった我が輩は、来る日も来る日もどやされる事態に、「俺ってアホなのか?」「自分が思っているほど頭良くないのかも……」と自己不信に陥ってしまい、自己像の保持に大変苦労した。
考えてみてくださいよ。
東北大震災という国難に心を痛め、自分を含めた人々を励まそうと物語を綴った我が輩。
憂国の志士を気取ったつもりはないけれど、まったくなかったわけでもない。
作家デビューも間近にせまり、これからは俺も憧れのエンタメ業界の一人か……なんて夢の甘い香をたっぷりと吸い込めてもいた。
憂国の志士、己の才覚で夢を実現させた自信、それらによって我が輩の自尊心がどれほど高見に登りつめていたことか。
そこらか一転、自給800円にも満たない仕事につき、かつては「文化的素養もない粗野な連中」と見下していた相手から「考えて働け」「常識を知らない」「物を知らない」と散々な言われっぷり。
実際、仕事が出来ないのだから他人を恨むわけにもいかず、「俺は馬鹿にしていた連中より馬鹿なのか?」と塗炭の苦しみを味わう。
「俺ごときが国難を憂いても仕方ない。自給800円の仕事もまともに出来ない俺が、他人の役に立とうなんておこがましい」
そう己を卑下してしまうことも、しばしば。
そうした中で、「みすずの国」や「キリンの国」が我が輩の自尊心の維持を大変助けてくれた。
特に「みすずの国」は短い話だったし、当時の境遇とも重ね易かったものだから、仕事で落ち込む度にぽちぽちプレイしていたものだ。
その自給自足っぷり、自家発電っぷりは我ながらおかしかったが、そうやってどうにかこうにか自尊心の傷を縫い合わせながら生きてきたのだ。

そのうち、叱られるのもなれ、「はぁ?」と心の中で中指を立てられるほどタフにもなったし、そもそも我が輩が思い込まされていたほど周りも仕事が出来るわけでもなく、我が輩が一日千個も挙げ連ねられていたミスは誰もが犯しているミスであり、我が輩ばかりが無能と思い込んでいた誤認は払拭出来たので、精神的にはだいぶ楽になった。
直属の上司からは「あんたは駄目だ」「何一つまともに出来ない」と呪いを刻まれ続けたが、仕事の成績が上がるにつれ上層部に気に入られ、気に入られた勢いで飲みニケーションにおいて得意の口八丁、太鼓の達人としての腕を発揮し重宝されるようになれば、直属の上司の小言など屁とも思わなくなった。
「部長に言われた仕事があるんで無理です」
「社長から六時までに顔出すよう言われてるんで、お先です」
社内ヒエラルキーにおいて、上のカードが手札にある快感よ。
これがサラリーマンの悦楽なのだなと体感し、役員連中の提灯として夜の町で豪遊(おごり)したのは、それなりに楽しかった。
そのうち、直属の上司は上ともめて退職となり、我が輩は花束を実費で贈った。
向こうは「私のこと誤解しなかったのはあんただけ」と涙ぐんでいたが、我が輩は「この花束はお前にじゃない。俺の勝利にだ」と内心ほくそ笑んだ。

このようにして自尊心を回復できたのも「みすずの国」のおかげです、と言うと、下衆を助けた様で有り難みも薄れるが、我が輩を助けてくれたのは事実。
みすずの国。
ただひたすらに「なめるな」と目の前の障壁を睨みつける意地しかなく、そこに成功も、実質的な改善もないけれど、それでも意地を張り通す、馬鹿みたいなプライドを貫く様がある。
それが何の役に立つのかと問われても答えられないが、能力の有無、運の善し悪しでプライドを捨てたくない、矜持を濁したくないという、現状はどうしようもないけれど絶叫したいほど自負の心だけはある我が輩と似た方には助けになる可能性はあるのじゃなかろうか。

プライドの保ち方

辛いことがあれば、自尊心を保つのは難しい。
けれど辛い時ほど、自尊心は大切だ。
この矛盾を解決出来る者が、世間の荒波を渡っていける。
漫画「アオイホノオ」でも語られていたが、「根拠のない自信」というものを我が輩は大切にしている。根拠があると、その根拠が崩れた時、持ちこたえられない。実体のある根拠であれば、いつかは必ず崩れさる。
と言って、まったく根拠がなくても寂しいから、根元を揺すぶられ難い根拠を採用しておく。
我が輩が採用しているのは、「成長」。
今は出来ないけれど、そのうち出来るようになる。
今は負けているけれど、そのうち勝つ。
ある目的を達成するために、物事を分析し、行動に落とし込み、状況を判断しながら修正しつつ、大観をもって挑むことが我が輩には出来る。
我が輩は大器晩成。小さな器はつくらない。大きな構造によって、大目的を果たすのだ……!
という、自己催眠を日々かけている。

プライドには根拠も大切だが、プライドと添い遂げる「態度」も大切だろう。
この「態度」を示すということは、他人には理解されない。
「馬鹿が意地になってる」としか思われないし、「意味がない」と言われる。我が輩も他人に対しては「アホちゃう?」としか思わない。
プライドは他人に理解してもらうものじゃない。
信じる自己像に対し、自分を証明し続けることだ。
神棚に毎日の初水を供える様に、折々に自己像に対して態度を示す。そうすればプライド、自尊心は安らぐ。傷ついたプライドがあったとして、それをいくら他人に喋ってみても癒やされることはない。満たされることもない。
プライドは自己しか見ていない。プライドに示すことが出来るのも自己である我々自身以外にない。プライドとの関係は、他者禁制の神域なのだ。

といって毎分毎秒、見張られていてもしんどい。
一挙手一投足、監視されていたら疲れ果てる。
通して六割くらいの力を出せていたら、良しとして欲しい。
全力なんて三ヶ月に一度、あるかないか。
むしろ六割を下回る日もざら。
何とかかんとか、平均六割を維持出来ていたのなら、我が輩は我が輩を許せる。

なければないで辛いし、あったらあったでまた辛い、自尊心という神棚。
上手いことつき合って、これからを乗り越えて行きたい。
乗り越えようとする様として「みすずの国」、いかがでしょうか。
「みすずの国」以上の明るい話は、今のところ、我が輩のなかにはありましぇん。

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